この時期になると、1年の教室がある4階廊下は、上を向いて歩かないと危険だ。
注意していないと、何が落ちてくるかわからないからである。
「いやはや、今年もまた得体の知れないものがたくさん浮いておりますなあ」
「はあ」
古代魔法言語担当で、この学校には古くからいる坂上先生の言葉に、俺は曖昧な返事を返す。
のんびりと楽しそうに言っているが、事態はそんなに甘くない。
いや、むしろ命の危険があるのではないかという状況だ。
「やはり、ヘルメットのひとつでも被った方がいいんでしょうか」
ちらちらと天井を眺めながら、オレはそんなことを言ってみる。
「ははは、いやですよ、先生。生徒に笑われてしまいます」
ごもっとも。
自分もこの学校出身だ。
もし、自分の担任がヘルメットを被っておっかなびっくり教室にやってきたら、笑うに決まっている。
情けない先生という噂もあっという間に広がるだろう。
なので、結局オレは用心深く廊下を進みながら、『どうか何も落ちてきませんように』と祈るしかなかった。
そもそも、なんだってオレが、びくびくと天井を気にしながら歩いているのか。
理由は簡単である。
オレが勤めるこの学校は、将来魔法使いを目指す学生のための高等学校だ。
だが、奴らは全員ひよっこで、新人で、魔法を使うことに慣れていない。
もちろん、小学生の頃から魔法を学ぶものもいるが、そんなのはごく稀だし、そういう連中は、大抵エリート校に通っている。
どちらかというと3流と噂されるこの学校は、魔力の有無にかかわらず、広く生徒を受け入れているので、能力のバラツキは、他校よりも大きいだろう。
自由な校風とのんびりした雰囲気がこの学校の売りなのだ。
だが、魔法というのは、元々不安定なものだ。
いい加減な気持ちで使えるものではないし、魔法の質や属性によっては、ひよっこには無理なものも多い。
そんなわけで、大地や火や水などに比べて比較的扱いやすく、日常的にも利用率が高い風に関する魔法を、大抵の魔法高等学校では最初に習う。
特に、初歩の浮遊の術は、手軽な上に集中力を身につけるのに最適のため、ここでは1年の1学期にカリキュラムが組まれている。
ところが、手軽さ故の弊害というのもあった。
魔法を覚えた新入生たちが、面白がっていろいろなものを浮かせて遊んでいるのだ。
もちろん、遊びで魔法を使ってはいけないと、校則で禁止されてはいる。いるのだが、ちょっとした規則破りを楽しむ生徒たちが後を絶たないのも事実だった。
しかも、まだどこか中途半端な彼らの術は失敗も多く、浮遊させたものの勝手に持ち主の手を離れどこかへ行ってしまったり(かかった魔力が自然消滅するまで浮いたままだ)、勢いがつきすぎて、天井に激突したあげくに誰かの上に落ちてきたりと、非常に危険なのである。
故に、この時期、生徒だけでなく教師さえも、天井を気にしながら校舎内を移動することになるのだった。
そんなわけで、オレは必要以上に上を見上げながら歩いていたのだが、それだけ気をつけていたにもかかわらず、(オレにとっての)悲劇は、自分の教室へと向かう廊下でおこった。
「わーわー! 先生危ない!」
女生徒の甲高い悲鳴が聞こえた、と思った瞬間、頭に何か硬いものが落ちてきたのだ。
あっと思う間もなく、
ごーん!
そんないい音が耳に聞こえてくる。
オレの頭を直撃して、廊下に転がったそれは、巨大な金属製のタライだった。
何故、タライ?
オレの素朴な疑問は、遠のいていく意識に飲み込まれていった。
目が覚めると、そこは保健室だった。
幸いたいしたことにはならなかったが、大きなタンコブが一つできてしまった。
保健室には、保険医の他に、オレが担当するクラスの委員長である篠崎優花がいて、オレを心配そうに見下ろしていた。
「先生、大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声に、あの時、オレに危険を知らせてくれた女子生徒のものだと気付いた。
「中崎くんが、盥でも浮かしたら面白いんじゃないかって、いいだしたんです」
篠崎は、今にも泣き出しそうな顔で何度も頭を下げる。
「私は止めたんですけれど、それを聞いた男子たちが面白がってやってみようって」
「ま、まあ。たんこぶが出来たくらいだから、そんなに謝らなくてもいいぞ」
悪いのは篠崎ではなく、中崎とそれに便乗した男子だろう。
「で、その中崎は、今教室か」
「いえ、あの」
篠崎の視線が動いた。保健室の入口にだらしなく制服を着崩した男子生徒が立っていた。
中崎だ。
ムリヤリここまで連れてこられたのか、面倒そうな顔をしている。
「中崎。そこにいたのか」
声をかけると、だるそうな足取りで、俺の近くまでやってきた。どう見ても反省している雰囲気ではない。
「申し訳ありませんでした」
形だけは殊勝な様子で頭を下げる。
「勝手に魔法を使ってはいけないだろう」
一応教師らしく注意をする。タンコブをつくってベッドの上にいるので、威厳も何もなかったけどな。
「浮遊魔術の練習をしようとしていただけなんですけどね、まだまだ未熟者ですから」
しれっと言い切る中崎に、オレはうむむと思わず唸ってしまった。
「まさか、先生なのに、こんな大きなものが浮いているのに気がつかないなんて思いもしませんでした」
くそー。
悔しいが反論できないぞ。
「ま、俺はまだまだ勉強中ですし、いろいろ迷惑をおかけすると思いますが、これからもよろしくお願いしますよ」
不適な笑みを浮かべて生意気なことを言うような生徒は、本来ならば叱らなければならないのだが、そうできなかったのは、どこか懐かしかったからだ。
そう―過去のことを思い出すと、いろんな意味で恥ずかしいことばかりなんだが、こいつは俺の学生の頃に似ている。同じようにいたずらをしかけ、担任の先生を困らせるなんて日常茶飯事だった。
怒られもしたが、不快な思い出としては残っていない。自分が教師になって、こういう生徒を前にすると、今更ながら、あの頃のオレが、どれだけ先生を苦労させていたか実感できる。
だが、自分と似ているからこそ、中崎のことも少しだけわかる気がした。
こいつがあの時のオレ達と同じなら、まだまだ、油断出来ない。
あの頃の経験があるからこそ、ここで中崎がおとなしくなるなどとは思えないのだ。
もちろん、黙って好きなようにやらせるつもりなど、オレにはない。
今日は不覚を取ったが、いつもいつもやられてばかりでは、教師の立場ってものもないしな。
「いいだろう。1年間、きっちり指導してやるからな」
オレの言葉に、中崎は心底楽しそうに笑ったのだった。
もちろん、その後ちゃんと奴を生徒指導室に呼び出し、説教をした。
やはり、ベッドの上からでは、きちんと叱れないからだ。
同時に、この日から、中崎とオレの戦いは始まったのである。