長い廊下を必死に走っていた。
磨きこまれた木の床は滑りやすく、何度か転がりそうになる。
右側には窓。
左には薄いクリーム色の扉と壁。
けれども、窓が開かないことも、扉の向こうがここと同じ廊下なことも、さっき確かめたばかりだった。
後ろから迫ってくるものがいるのに、逃げ場はない。
それでも走っているのは、捕まりたくないからだ。
あれに喰われてしまえばお終いだとわかっているからだ。
廊下はどこまでも続く。ここが“現実の世界”とは違う場所だと嫌でも思い知らされる。
どこまで走ればいいのか。
ここに終わりがあるのか。
廊下に果てがなくても、体力には終わりがある。元々それほど足が速い方でもなければ、持久力があるわけでもない。
いずれ、走れなくなる時がくる。その時こそ、本当に終わりだ。
助けがくるまで逃げ続けなければ。それだけの思いで足を動かす。
あと少し。そう自分を励ますしか今の自分にはできない。
けれども、終わりは唐突にやってきた。
薄ぼんやりと淡い光の中、彼方に白い壁が見える。
その先には何もない。
完全に行き止まり、だった。
振り返ると、そこにあったのは闇だった。
真っ黒で光を通さない空間が禍々しい。
「冗談でしょ、こんなところでゲームオーバーなんて」
本当に、冗談じゃない。
「助けに来るっていったくせに」
ここにはいない相手に向かって悪態をつく。それはもう思いつく限りに。
だって、約束したのに。
絶対に喰われる前に助けてくれるって。
私は全ての元凶である男の顔を思い浮かべる。
そうだ、そもそも、あの男が自分の仕事のために、私をこの学校に通わせたのが、はじまりなのだ。
私の保護者である男は、得体のしれない仕事をしている。
実際のところ、何をしているのか私にはよくわかっていない。死人使いと呼ばれていることも、時々頼まれて化け物退治のようなことをしていることも、聞いてはいる。
だけど、具体的な職業は知らない――知らされていない。今回のように、仕事に関わることは初めてなのだ。依頼されたことについても詳しく教えてくれないし、知りたければ自分で調べろ、という態度を隠すこともない。
今回のこの事態もそうだ。
彼は、化け物をおびき出すのに、私をひっぱりだした。
面白がった私も私だけれど、最近はちょっと後悔している。
こんなにハードな展開になるとは思わなかったんだもの。
通い始めたころから、この学校には、得体の知れないものの気配を感じるとは思っていた。それが、恐らく男が狙っている相手なのだろうとも思っていた。
何もしないという宣言をしていたから、自分から関わることもしなかったのに。
予想外だったのは、この学校には彼が狙っている以外の化け物がたくさんいた、ということだ。
そして、そのどれもが、私をおいしそうだと感じて、追いかけてくる。
本当に、冗談じゃない。
今、目の前には、今日の放課後から追いかけっこをしていた相手がいる。
どんよりと凝り固まった闇。
濁って形の定まらないモノ。
子供を食らって生きている魔物だ。
うっかり放課後の校舎でこいつに見つかり、これが作った空間に誘いこまれた。
元々私には戦うような能力も知識もない。
普段はなるべく怪しい物には近づかないようにしているけれど、この学校はとにかく幽鬼の類が多くて、目立たなくしておくのも大変だ。
今日だってそう。
大人しくしていたのに、一人になったとたん、こいつに見つかってしまった。
「食べてもおいしくないからね」
一応言ってみるが、もちろん通じるわけがない。
ゆっくりと、闇をまき散らしながら、私に近づいてくる。
後ろは壁だ。
もちろん、ここは化け物が作った空間だから、本当の壁かどうかはわからない。固い感触と、触った感覚から、そう思うだけだ。
それでも、この幻覚を破れない以上、私に逃げ道はない。
ここまでか。
覚悟を決める。目を開けて相手を睨み付けたのは、最後まで抵抗してやるという意思表示だ。
もう少しで、それが私に触れる、という所だった。
空間が揺れる。
そして、闇よりももっと濃い色を纏った男がそこに立っていた。
男の手が、化け物の頭を捕まえている。
「手間取らせてくれたな」
そのわりには、疲れさえ見えないんですけれど。私なんて、走りすぎて息が切れているというのに。
「だが、これで終わりだ」
男の手に力がこもる。
濁った闇とは違う深い闇が、男の手からあふれ出す。闇を食い尽くす闇だ。飲み込まれれば、人も化け物も正気ではいられない。
私は、魅入られたように、それを見ていた。
初めて見るわけじゃない。
だけど、何度同じ光景を見ても、目を逸らすことができないのだ。
闇はやがて化け物の全てを覆い尽くした。狂ったように黒に染まった塊がのたうつ。苦しいのだろう。それほどまでに男の闇は深い。
しばらくそうやって化け物は暴れていたが、やがて動きが緩慢になり、何度か痙攣するように跳ねると動きを止めた。
化け物の体が四散して闇に溶け込んだのを見て、男が笑った。
「終わったぞ」
助かったのだ、とわかると途端に力が抜けた。
「助けに来るのが遅い」
痛い足を庇うようにして、私は文句を言った。
もっと、もっと、いっぱい言いたいことはあるけれど、たくさんありすぎて言葉にできない。
「約束は守っただろう」
確かに、喰われないように守るとは言っていた。でも、それはあくまで『喰われないように』であって、その過程を保証するものではないって、もっと早く気が付けばよかったよ。
「……走りすぎて疲れたし、足が痛い」
「悪かった」
口では謝っているけれど、全然悪いと思っていない顔だ。
「そう思っているなら、助け起こすとか大丈夫かって聞いてくるとか、いろいろあるでしょう」
男はどちらもしなかった。
唇の端をほんの少し持ち上げただけで、身を屈めると長い手を伸ばして、私の体をひょいと持ち上げた。
「きゃー、なにするの!」
担ぎ上げる、としかいいようのない状況だ。
普通、小学生とはいえ女の子の体を荷物のように肩に乗せる? この体勢だと、スカートがめくれてしまうし、安定感もない。
「……スカートが短すぎだな」
学校の規則と違っていると、指摘されてしまった。そういうことには無関心だと思っていたのに。
「いいの、短い方がかわいいんだから」
「自分の身なりに興味がわいてきたのはいいことだがな」
確かに、少し前までは、スカートの短さなんてどうでもいいことだった。外に出ることもなかったし、同じ年の子と遊ぶこともなかったし。
でも、化け物に追いかけられる生活は、ちょっとどうかと思う。
「お前のおかげで雑魚は大体片づいたな」
「それはよかった……わけないじゃないの。大物の化け物をまだ片付けてないんでしょ」
今のが雑魚だとすれば、実際に男が狙っているのはどれほどの強さだというのだろう。
ものすごく不安だ。
このまま、きちんと学校生活を送れるんだろうか。
「大丈夫。お前なら逃げ切れる」
そう言って笑った男の方が、化け物よりも数倍タチが悪いと心底思った。