はじまりは何だったのかというと、1週間前の、なんということもない放課後のことだった。
いつもと同じ帰り道。
いつもと変わらない風景。
近道である商店街を通り、家に帰る。
その日も、いつもと同じように商店街の入り口で友達を別れ、私はのんびりと歩いていた。
商店街といっても、数年前に出来た大規模スーパーのせいで寂れてしまい人通りのほとんどいない場所だ。
大半がシャッターを閉め、空いている店も人の出入りが少ない。
子供の頃は、もっと賑わっていたのにと、最近では少し寂しく感じるほどだ。
すれ違う人も殆どいないし、あったとしても、顔見知りばかり――のはずだった。
けれど、その日に限って、商店街のど真ん中に見知らぬ女の人が仁王立ちしていた。
年の頃は、20代前半。
地味な灰色のスーツ姿で手には黒いバッグ。靴も黒でストッキングをはいている。
見た目は、どこかのOL風。ちょっと会社の用事で出てきましたーという感じだ。
顔も地味で、あんな恐い顔をしていなければ、数秒後には忘れてしまいそうなくらい特徴がない。
だから、普段ならば、私も気にも留めずに通り過ぎていただろう。
でも、その女性は、無視できないほどに不穏なオーラを辺りに振りまいていた。
仁王立ち、というのも十分に目立つ要素だけれど、あきらかにその人は私を凝視している。
もちろん、知り合いじゃない。
知り合いに似た人を見ている目でもない。
なんだか、蛇に睨まれた蛙にでもなったかのような気分になる。
これは、このまま引き返した方がいいのではないか。
遠回りになるけれど、絶対あの女の人の横を通らない方がいい。そう本能が告げていた。
よし、そうしよう。
そう思って私が足に力を込めたときだった。
あろうことか、女性はまっすぐに私に向かってものすごい勢いで歩いてきたのだ。
まさに鬼のような形相で。
そして、がっしりと私の腕を捕まえると、「見つけたわ、やっと!」と高らかに宣言した。
私はわけがわからず、女の人を見つめてしまった。あきらかに逃げ損ねた。
今思えば、この時点でなりふりかまわず全力で抵抗して逃げればよかったと思う。逃げ切れたかどうかは謎だけど。
女の人は、その後私を引きずるようにして、商店街を抜けて公園へ移動した。
華奢に見えるのに、すごい力だ。
「ここなら誰もいないし、ちょうどいいかも」
一人で納得して、女の人は頷いている。
そして。
「はい、これあげる」
女の人は空いている方の手を、軽く振った。
「ぎゃっ!」
同時に私は何かを踏んづけた時のような声をあげた。
だって。
だってですよ。
私の前には、開いた女の人の手があり、その上には、薄く水色に光る半透明の丸い石がぴかぴか光りながら浮いていたのだ。
「なんですか、これ。手品?」
「残念ながら、手品じゃないんだよね」
女の人の笑顔が怖い。
なんだろう。
さっきからずっと思っていたんだけれど、鬼気迫る何かを彼女から感じるのだ。
「とにかく、これは今日からあなたのものよ」
女の人の言葉とともに、光がふわりと動き出す。
そのまま、音もなく移動すると、私の胸の中に消えた。
一瞬、何が起こったかわからない。
痛くも痒くもなかったし、何の変化もなかったからだ。
ただ。
得体の知れない状況に、ただ気分が悪い。
「やだー、気持ち悪いし、これ出してよー」
「無理」
言い切るなー。
「もう無理、絶対無理、どうしても無理」
無理無理言わないでー。
「でも、大丈夫。今日からあなたはモテモテよ」
「はい?」
「男はよりどりみどり。頼んでいないのに、うじゃうじゃ湧き出るように告白されるから」
「はあ?」
「そして、これで私はお役ご免。平凡な日々を生きていくのよ」
目の前で、その女性は嬉しそうに笑う。
どこか遠くを見る目には涙まで浮かんでいた。
「思えば、この10年。地味で引っ込み思案だった私は、連日連夜の告白やらおっかけやらで夜も寝られないほどだった。夜道で化け物に襲われるし、命の危険にさらされるし」
「あのー。もしもし」
「でも、もうそんな人生とはさよならよ。今この瞬間から、私は地味で平凡なOLとして生きていくの!」
さっぱりわからない。
というか、このわけのわかんない展開はなんなの。
私に何が起こったの。
「よーく聞いててね。一度しか言わないから」
女性は私の肩をがっしりと掴むと、にっこりと笑った。
その鬼気迫る様子が怖い。
「あなたの体の中に入っちゃったのは、世界を崩壊させるような力を持った石なんですって。笑っちゃうわよね。それは、宿主を変えながら、世界を彷徨っていて、より強く共鳴する体を探しているみたいよ」
なにそれ。
「大抵3年くらいで別の宿主にうつるものらしいんだけど、私はなかなか適合する体がなくて、本当に苦労したんだから」
だから、なにそれ。
「あなたも運がよければ、2年か3年でお役ご免になると思うから」
いや、本当にもう意味がわからないんですけど。
「がんばってね」
満面の笑顔で言い切ると、脱兎のごとく女の人はその場から去っていった。
追いかける気力もわかなかった。
というよりも、何をどうすればいいのか分からなかったと行った方がいいのかもしれない。
その後は何もなかった。
その次の日も。
だから、あれは夢だったか、変な人にたまたま遭遇しただけなんだと思いはじめていた。あまりにも異常な出来事だったからね。
でも、その考えは甘かった。
「おはよう」
朝の眩しい光の中、爽やかな笑顔を浮かべた美形が校門に立っていた。
しかもそいつは、どうやら私に向かってあいさつしているらしい。
もちろん、知り合いなわけがない。うちの学校の制服を着ているから、学生には間違いないようだけれど。
私は曖昧に笑うと、少しだけ頭を下げて通り過ぎようとした。
ところが。
「あれれ? ちょっと待ってくれよ」
その人は、手を伸ばして私を捕まえた。
「いやだなー、無視とか寂しいし」
何? 顔はいいけど、変な人?
思わず足が出て、その人の脛を思い切りけってしまった。
「あいた! ひどいなあ。せっかく君を迫り来る危険から守ってあげようと思ってやってきたのに」
「はい?」
わけのわからないことを言い出した相手に、私は数歩ひいた。
「この間、前の宿主から石を受け取ったよね?」
石?
そんなもの、誰からももらっていない。誕生日は随分前だったし。
「ほらほら、商店街でさ。OLふうの人に、ね?」
ウインクしながら、明るく言われ、思い出した。
「あの変な人の知り合いなの!?」
そういえば、あの時、女の人、変なことを言っていたような気がする。
確か、『今日からあなたもモテモテよ』とかなんとか。
確かに今ここにいるのはかっこいい男の子だけれど、何かが違う気がする。
「でも、嬉しいな。前は見た目が俺より年上の人だったから、なんかやる気も半分って感じだったけれど、今度は俺と見た目も変わらないし。うんうん若いっていいねえ」
「勝手に一人で納得しないでください!」
「本当はもっときつい感じの美人が好きだけど、石は本来地味な子に取り憑くものだしなあ」
何気に、この人すごく失礼なことを言っていないか。
人の話も全然聞いていないし。
「そんなわけで、今日からよろしくー。全力で悪い奴から守ってあげるよ」
そう言うなり、彼は私に抱きついてきた。
「ぎゃー、なにするの! というかここ学校……」
残念ながら、私はそれほど男性に免疫がない。手だって、繋いだことないのに!
私の大声に驚いたのか、男の子は抱きつくのはやめたけれど、手は掴んだままだ。
「岡崎さん?」
私が叫んだ時、後ろから遠慮がちな声が聞こえた。
振り返ると、困ったような、いたたまれないような、そんな顔をした少年が立っていた。
「な、な、な、中野くん!」
動揺したせいか、声がひっくり返っている。
彼は、私のクラスメートで、現在片思い中の男の子だ。その彼の前で、私は知らない男の子に抱きつかれていた。これって、もしかして最悪の状況なんじゃ……。
「岡崎さんが、こんなところで、こんなことをする人だって思わなかったよ」
真面目を絵に描いたような中野くんだ。あきれているに違いない。
「違う、誤解!」
この状況でそう訴えて果たしてわかってくれるんだろうか。
「俺は別に人の交遊関係には口を挟むつもりはないけれど。学校では少しまずいんじゃないかな」
「だから、違うんだってば」
私は、男を押し退けようとした。
このままだと、中野くんに誤解されたままになってしまう。
「それから、ええと。……邪魔してごめん」
ほんの少し顔を赤くした中野くんは、本当に申し訳なさそうに言うと、早足で去っていった。
もちろん追いかけようとしたけれど、何かにひっぱられて、つんのめりそうになる。
そういえば、まだこいつに腕を捕まれたままだった。
にこにこと笑っているから、無性に腹が立ってくる。
「どうしてくれるのよ。一年半かけて、やっとお友達程度の会話が出来るようになったというのに! 顔も覚えてもらったっていうのに! 全部チャラ―いやいやそれ以前の存在に格下げになってるよ、私!」
とりあえず、ぶんなぐってしまった。
乙女としてはあるまじき態度かもしれないけれど、人様を殴るなんて、今までの人生では絶対ありえないことだけれど、とりあえず、そうするしかなかった。
「いたいなー、ゆかりちゃん」
何人の名前を勝手に呼んでいるんだ。私は許可した覚えはないし、そもそも自己紹介もしていない。
「でも、これからはよろしくね。君も、君の中にある石も、ばっちり守ってあげるから」
「いらないー!」
私はそう叫んでその場から逃げ出した。
その日から、私の日常は変わった。
道を歩いていれば見知らぬ男に声をかけられ、一人になれば、変な奴らに追いかけられる。
毎日、心休まる日がない。
中野くんにはあれから避けられているし。
「くっそー! いつか誤解を解いてやる。で、絶対ラブラブな関係になってやるー」
私の雄叫びは、遠く隣町まで響いた(気がする)。
絶対負けない。
石(だけ)に惹かれてやってくる男どもにも、石(だけ)を狙って現れる得体の知れない連中にも、負けるものか。
私の夢は、平凡そのもの、波瀾万丈とは縁遠い生活を送ることだ。
そのために、この石を押しつけられる相手を絶対見つけてやるー。
そうとでも思わないと、やってられないよ、本当に。