その本に、題名はなかった。
真っ赤な表紙。真っ白な頁。
何も書かれていないそれは、ずっしりと重く、かび臭かった。
それは死んだ母親から、『適当に大事にしなさい。でも捨てないで』と言われ受け取ったもので、何のために母が持っていたのか、何の意味があるのかもさっぱりわからない代物のだ。
母親が大事にしていた記憶はない。
小さな家にひっつくように建てられた狭い納屋の中に、使わなくなったものとともに仕舞われていたものだ。譲り受ける時にも『適当に』などと言ったくらいだから、さほど大切なものではないのかもしれない。それでも、捨てていけないという言葉が気になった。
汚しても踏んでもほったらかしでもいいから、決して捨てては駄目。
なんとも謎の多い本である。
だから、ナホは、その本を部屋の本棚に置きっぱなしにしたまま、さわりもせず、見もせず――要するに、放置していたのだった。
そうして、その本のことなどすっかり忘れた頃。
男が一人、ナホを尋ねてきた。
黒いスーツに、黒い髪。靴も黒ければ、ネクタイも黒い。
とにかく全身黒ずくめの男は、表情のない顔で、じーっとナホを見ると、一言告げた。
「お探ししましたよ、ナホ様」
人に様付けで呼ばれたことのない彼女は、目をまんまるにして、黙って扉を閉めようとした。
危ない人かもしれないと身の危険を感じたからだ。
だが。
扉が閉まりきる前、男の足がさっと伸び、扉が開くのを阻止した。
「どわ! 何するんですか、押し売りですか!」
「いえ、違います。俺はカズイ・ミヤモト。清新国国王に仕える騎士でもあります」
「き、きし?」
騎士と言えば、公務員の中でも上級職に位置する職業だ。
男女区別なく募集しているし、一般家庭の人間も試験を受けることが出来るうえに、給料も年金もいいので、人気職である。死亡率が高いのが難点だが、それでも、なりたい職業のベスト10にいつも入っていた。
その騎士様が、ナホにいったい何のようだというのだろう。
とりあえず、心当たりはない。重大な犯罪に関わるようなこともしていない。
第一、彼女は学生で、通っている学校の卒業もまだ先だ。
「私は潔白ですよ」
思わず叫んでしまってから、怪訝そうな顔をしているカズイを見てしまったと思った。
「あなたを捕まえに来たわけではありませんが」
淡々と事実だけを告げられるから、余計にいたたまれない。
笑い飛ばしてくれた方がましだ。
「私は国王陛下の命により、ナホ様を捜していたのです」
「国王? え、なんで、どうして?」
「それをこれからお話します。よろしければ、中に入れていただけないでしょうか」
「中に、ですか?」
男は、最初に足を入れてドアを閉めさせまいとした以外は、特に何もせず、律儀に外に立っている。
男の体格からしても、むりやり押し入るということは可能だろうがそれをしないということは、それほど悪い人ではないのだろうか。
だが、国王とは話が大きすぎる。
いい人そうに見せかけて実は、ということだってないとはいえないのだ。普通に考えれば、訪問販売か、詐欺を疑うべきだ。
「ああ、そうですよね。お疑いになるのも無理はないか」
躊躇するナホの態度に、正しく彼女が考えていることを理解したらしい。
わずかに口元を歪めると、カズイが胸元から、鎖を引き出した。その先には、美しい紋章が刻まれたカードがつけられていた。
「あ、騎士の紋章」
学校で習ったことを思い出す。
騎士職を持つ者は、国から支給された特殊なカードの携帯を義務づけられている。実物を見ることなど滅多にないが、教科書に詳しいことが写真入りで載っていた。
「どうぞ、お確かめください」
触れると階級と名前と顔写真、それから独特の模様が浮かび上がるのだ。特殊な方法によって刻まれたそれは、魔法と科学技術を併せて作られたもので、偽造は難しいと聞いている。それを持っているということは、やはり。
「間違いなく、騎士様」
呆然と呟く彼女の向かって、カズイが優雅に礼をする。
けれども、ナホの方は、軽い目眩に襲われた。
滅多に会うこともない騎士がいったい何の用なのか。
きっと録でもないことに決まっている。
「ええと、ミヤモト様。お話というのはなんでしょうか」
「ああ、どうかカズイとお呼びください」
いや、呼べないだろう、普通に。
ツッコミたくなる自分を辛うじておさえながら、とりあえずお茶をすすめた。
先ほど、自分が飲みたいからという理由で入れたものだ。カズイの分もあるのは、単に自分だけ飲むのは悪いだろうということと、騎士相手に失礼なことは出来ないという気持ちからである。
「ありがとうございます」
上品に一口すすると礼を述べるが、顔は無表情。
おいしいと思っているのか、こんな安物の茶葉を飲ませやがってこのやろーと思っているのかは謎だ。
そういえば、先ほどから一度も笑っていない。騎士だからなのか、性格なのかはわからないが、気まずさが増すのは確かである。
「お話とは、なんなのでしょう」
ただお茶を飲んでいても話はすすまないので、ナホはずばり用件を尋ねた。本音は早く帰ってほしいというところだ。
「ナホ様の母上は、3年前に亡くなられたのでしたね」
そんなことまで調べたのかと、驚く。しかし、ナホのことを調べる目的がわからなかった。
「あなたはご自分の父親のことを、何か聞いておられますか?」
もしかすると、名前も知らない父親が何かしでかしたのだろうか。
しかし、戸籍を調べても、彼女の父親のことなどわからないはずだ。書類上では認知もされていない。
「知りません。母親は、ろくでなしだったから、こっちが捨ててやったと言っていましたけれど」
「そうですか」
その時初めてカズイが笑った。
喉の奥をならすような、ちょっと嫌味な笑顔だ。
「ろくでなしはあたっていますね。確かにそのとおりです」
やはり、彼は父親のことを知っているのだ。
思わずナホは身構える。とんでもないことを言われても驚かないようにお腹にも少し力を込めた。
「単刀直入にいいますと。あなたの父上は、国王であるナガレ様です」
しかし、カズイの言葉は、ナホが考えていたこととは違っていた。
想像していたことを遥かに上回っている。
「ははは、笑えない冗談ですよ」
彼女がそう思うのも無理はない。簡単に言うが、証拠がないだろう。
母が死んだ時、遺品は整理した。その時、父親に関するものなど一切出てこなかったはずだ。もしあれば、いくらナホでも気が付いたはずである。
「本をお持ちではないですか?」
「本? いや持ってないです」
自分が国王の娘であるという証拠になるようなものは何もない。家にあるのは、幾つかの雑誌と、学校で必要な学術書ばかりだ。後は、若い女性が好むような文庫本が幾つかある程度である。
「そんなはずはありませんよ。この家から、禁書の匂いがします」
「き、禁書!」
思わず立ち上がって数歩後ろに下がる。
「いやいやいや、そんな恐ろしいもの持っていたら、私も無事じゃないでしょう!」
禁書というのは、一般的に、古代の魔物が封じられた書をさす。たまに、ちょっと危ない大人向けの本のことを言ったりするが、役人やえらい人が「禁書」という時は、大抵前者だ。
魔術に耐性のない人間は持っているだけで精神をむしばまれたり、体を壊したりするため、普通は魔法院などで保管されている。
扱うことが出来るのは、上級の魔法使いや、それを専門に扱う騎士だけ。
ナホのように魔法を使えない人間には、毒にしかなりえない代物だ。
「禁書と私が国王の娘かどうかって、どういう関連性があるんですか。まさか、母が禁書を持ち出したとでも?」
でも、それはありえない。
母は庶民のはずだ。国王と接点だって見つからない。
「あなたの母上は、あなたに何も言っていなかったようですね」
カズイは口元を歪める。
「あなたの母親は、魔法使いでもあり、国王陛下の側室の一人だったのですよ」
「ええ!」
叫んでしまったのは、そんなこと、これぽっちも知らなかったからである。
「母さんって、魔法使いだったんですか?」
「ええ、陛下ともども、かなり優秀だったようです。側室にならなければ、魔法院でそれなりの地位を築いていたかと。国王陛下とは、魔法が縁で知り合ったようですね」
これまで、一切そういうことなど匂わせたことはなかった。むしろ魔法使いは嫌っているようなそぶりを見せていたくらいだ。容姿も人並み、ややふっくら体形で顔も童顔、どこからどう見ても肝っ玉母さんという姿の母が魔法使いで側室?
嘘をつくにしても、もっとましなものにしろ、と言いたくなった。
しかし、それは本当のことだとこの目の前の騎士様は言っている。
「元々、あなたの居場所は、陛下以外誰も知らなかったのですよ」
それがばれたのは、厳重に保管されているはずの禁書が一冊行方不明になっていることが、最近わかったせいだった。
現国王は優秀な魔法使いでもある。なくなった一冊は、王の持ち物でもあり、そこに封じられている魔物を彼は時々使役していたらしい。
「問い詰めたところ、白状したわけです。側室の女性の一人に禁書を渡してしまったと」
カズイによると、当時、ナホの母親は国王の寵愛を受けていたらしい。
女好きで側室も大勢いたが、魔法使いであり、学んだ師が同じだったということで、二人は昔から親密だったという。
ところが、彼女がナホを身ごもったあたりから、周りの状況が不穏になってきたらしい。
「国王には、側室との間に生まれた息子が一人いただけでしたから。あなたの母親は子供共々何度も殺されかけたようです。わが国は一応男女区別なく継承権は与えられますし、才能があれば年も関係ありませんからね」
要するにナホの存在が邪魔だったということだろう。
ナホの母親だって、身分はそれほど高くないはずだが、国王の寵愛を受けていたというし、生まれた子供が優秀だったら、自分の息子の地位も危ういとでも思ったのかもしれない。
実際は、平凡で普通な子供が生まれたわけだから、そういう心配は必要なかった気もするが。
「ああ、一応才能云々は建前ですよ。誰が後を継ぐかなんて、後ろ盾や周りの思惑で決まることが多いですからね。後継者争いなど、それはもう、いつ人死にが出てもおかしくないくらい、殺伐としてます」
「そ、そうなんですか」
世間話でもするようになにげなくカズイは言うが、ナホの方はそんな場所にいなくてよかったと胸をなで下ろす。
今、現実に王宮にいたのだとすれば、確実にひどい目にあっていそうだ。自分が要領がいいとも思えない。
「当時の嫌がらせも相当ひどかったようで。身の危険を感じた母上と彼女を案じる陛下は、禁書に、生まれてくる子供を主人とし護るようにと命令したのです。そして、母上を王宮から下がらせた。子供は産まれる前に死んだのだと皆には伝えてね。そこまでするとは、国王にとって、あなた方は特別だったのかもしれません」
しみじみと言われても、実感はわかないし、大体の経緯はわかっても、納得できない疑問もある。
「母が死んで3年もたった今頃になって、どうして、あなたが尋ねてくるんですか?」
母親が死んだとき、父親に関係ありそうな人は一人もこなかった。
葬式はひっそりと行ったし、参加したのは皆知っている人ばかりで、その後も改めて尋ねてきた人間などいない。
「ですから、ばれたと申し上げましたよね。あなたが生きているうえに、禁書とともにいるということが、最近になってわかったのですよ。いまさらあなたを後継者なんてことはないでしょうが、禁書がこんな場所にあるのは困るというわけです」
やっかいなことが持ち上がったのだとばかりに、大げさな溜息とつくと、カズイはナホを見つめる。
その顔は、やっぱり無表情だったのだが。
「禁書はおそらく、文字がかかれていないと思います。立派な装丁なのに、中身は真っ白、そういう本がどこかにありませんか」
そこまで言われて、ようやくナホは母親から受け取った本のことを思い出した。
すぐにそれをとってきて彼に見せる。
「ああ、これです。間違いなく禁書ですね」
捨ててはいけないといった謎の本。
それがまさかそんな恐ろしいものだとは。
「随分、適当に扱ってましたね。あちこち傷んでいる」
禁書を確かめていたカズイは、あきれたような声を発した。
「そんな大変なものだと知らなかったんですよ。変な本だと、ずーっと思ってました。母に捨てるなって言われなければ、ゴミになってたはずです」
ナホの言葉はに、カズイにわずかに唇の端を上げた。
さきほど見た、ちょっと嫌味な笑いが浮かぶ。
「まったくナガレ様もとんでもないことをなさる。娘を護るためとはいえ、禁書を利用するとは。しかも、本人は何も知らずゴミ同然のもとと考えていたというし」
捨てなくてもよかった。
カズイを見ながら、心底思った。この得体の知れない騎士が、この家に禁書がないなどと知ったら、世界の果てまで探しにいかされかねない。
そう思わせる何かが彼にはあった。
「国王様が何を思っていたかなんて知りませんけれど、今まで何もなくて、本当によかったです。というか、事実を知っていたら、国王様に文句のひとつでもいいたいです」
「だからですよ。陛下としては、名乗りでられても困る。けれども、母親が亡くなった今、禁書がいつ暴走しないとも限らない。そういうわけなので、私が派遣されました」
「えーと、意味がよくわからないんですが」
「俺の役目は、禁書を監視することです」
「はあ」
「禁書は危険なものですので、すぐにでも封印を施し、王都のしかるべき場所へ保管したいのです。しかし、現在それは、あなたを護るために存在しています。あなたが死ねば役目は終わりますが、まさか死んでいただくわけにもいきませんしね」
溜息をつくのは、この役目が不満なのか、ナホが無事でいることが困るのか。
どちらも嫌だが、カズイの様子からどちらもありそうに思えてくる。
「何度も言うようですが、俺の役目は禁書を監視し、利用しようとする者を排除することです。あ、禁書のついでにナホ様をお守りするのも役目ですね」
ついでにとは何だ、と文句を言いたかったが、言っても無駄なのは、カズイの目を見ればわかった。
かなり本気だ。
それに。
「これは、国王命令ですし、逆らえませんよ。私といるのが嫌だというのでしたら、それこそ、どこかへ閉じこもっていただくなど、ご不自由を強いることになりますね」
さらりと恐ろしいことを口にする。
「要するに、拒否できない、ということなんですね」
「そのとおりです」
無表情で肯定されると、それはそれで怖い。
「でも、1人暮らしの女性の家に、いきなり男の同居人が現れたら、皆変に思うんじゃないかと」
「いいわけはどうぞ適当にお考えください」
丸投げとはひどい。
だが、カズイが人の目に触れるのも時間の問題だろう。せまい街で、周り中が知り合いだらけという場所だ。近所の噂好きのおばさんたちがこの状況を見たら、あることないこといろんな噂があっというまに街中に広がるに違いない。
しかも、カズイは黒ずくめで怪しい。
いっそ、行方不明の家族が出てきたとでも言おうか。
そんなことを考えながら、カズイの顔を見る。相変わらずまったく変化のない表情に、ナホはもう一度溜息をついた。
「どうかしましたか? ナホ様」
じっと見つめていたからか、不信そうな声で尋ねられた。表情はまったく変わらないが。
まずは、変な噂を立てられないためにも、様付けは辞めさせなければいけない。
堅く決心すると、ナホは真正面からカズイに向き直った。
騎士が尋ねてくるなんて、やっぱり録でもないことだった。
のちにナホは、親しい友人にそう語ったという。