学校から帰ってくると、台所の机の上に携帯電話が置いてあった。
黒くて最新機種のもの。
もちろん、ナホのものではない。彼女の携帯電話は旧式で、魔法属性さえ付いていない安いものだ。着信を電子精霊が知らせてくれるわけでもないし、メールを打つときも自分で操作しなければならない。
実際に彼女のポケットの中には、自分の携帯電話は入っている。
だとすると、持ち主は一人しか思いつかなかった。
現在、ナホの家に強引に居候中の騎士。
数日前に突然現れ、ナホの父親について爆弾発言をし、尚かつこの家にある禁書を護るために一緒に住みますなどと言い出したとんでもない男だ。
母が使っていた部屋(小さな家の中で一番広くて豪華だ)に寝泊まりしてもらう予定だったのだが、一介の騎士がそんなところはもったいない、などと思ってもいないだろうことを口にした後、わずか数日で、掘っ立て小屋みたいな納屋を修理し、使えるようにしてしまった。
この騎士、どうやら手先も器用なようだ。
近所の人たちには、長年離れて暮らしていた母親の親戚が見つかったと、どうみても怪しい言い訳で押し通し、お互いのことはあまり干渉しないということで、共同生活を始めたのだが。
黒ずくめの騎士には、わからないことが多い。
「この電話、どうしよう」
思わず呟いたのは、用心深そうな彼が、自分の持ち物をこんなところに置き去りにしていなくなるとは思えないからだ。
電話といえば、いろんな情報が入っているものである。一般人にはあまり知られたくない電話番号もあるかもしれない。プレイベートなカズイの交遊関係もわかってしまうかもしれない。一応ロックはかけてあるだろうが、プロがその気になれば、案外簡単に調べられそうな気がする。
だとすると、カズイがそんなものを無防備に置いておくなど想像できない。
何か裏があるのではないか。
それとも本当にただ置いてあるだけなのか。
カズイを呼んで聞くのが早いのだろうが、あまり本人には会いたくない。ナホがそんなことを思い、じっとテーブルの上の携帯電話を見つめていたときだった。
「ナホ様、お帰りなさいませ」
「どわ!」
いきなり背後から声をかけられ、腰が抜けるほど驚いた。
「か、か、カズイさん、いたんですか」
まったく気配に気が付かなかった。
さすが、上級職の騎士。そこら辺の兵士とは訳が違う。だが、心臓に悪い。
「カズイさんの電話ですか、これ」
触るのはちょっと怖かったので、テーブルの上の携帯を指差しながら言う。
だが、彼は首を振った。
「この電話は、ナホ様のものです」
「はい? 私、電話くらい持っていますよ」
旧式だけど。
心の中でそっと付け加える。
「あの機種では、緊急の時、使えないでしょう」
なにぶん古い機種なので、使えるのはメールと電話と一部有料サービスだけだ。確かに、最近流行の“暴漢に襲われた時に音声認識で警報音が鳴る”とか、“危険に陥ったとき電子精霊が判断して警察や誰かに緊急連絡する”という機能はついていない。
もちろん、ナホだって最新機種が欲しい。
だが、貧乏学生で母親の保険金でほそぼそと生活しているナホには無駄遣いはできないのだ。普通の生活で、そこまでなにもかもが必要というわけではないし、友達とのメールは、今の機種でも充分だ。最新機種に付随するサービスの殆どが有料でもあるわけで、そのお金を払う当てもないナホとしては、とりあえず社会人になるまでは、と我慢しているだけなのである。
「私の仕事には、一応ナホ様の護衛も含まれているのですが、さすがに学校までついていくわけにはいきませんから。何かあったら、それをお使いください。電子精霊に私の直通の番号を教えてありますから、呼べばすぐに繋がりますので」
「何かあったら、ですか?」
「ええ、何かあったら、です」
カズイが笑う。
彼が笑うと、何故か不吉な感じがして、ナホは目を逸らした。
「何か、ありそうなんですか?」
「どうでしょう」
表情のない顔が怖い。
「ああ、一応、その電話については経費で落ちますから。お金のことは心配なさらなくても大丈夫です」
「け、経費……」
ということは、これには税金が使われているということだろうか。
目眩がしそうだ。
「お、大げさな気がしますけど」
「そうですね。ナホ様にというよりは、禁書に対しての保険だと思っていただければ。こんな小さな町で禁書が暴走すれば、そちらの方が被害が大きいでしょうし」
禁書はナホを護るという。
これまでの人生、平々凡々に生きてきて、命の危険にさらされたことなどなかったから、禁書も大人しいままだった。だが、ナホの存在がばれた今、今後、もし何かあれば、禁書は暴走しかねないという。
「禁書は融通が利きませんからね。おそらく何かあっても、ナホ様しか護りません」
カズイの言いたいことはわかる。もし禁書が暴走して事が明るみになったら、被害請求は国へ行きそうだ。携帯電話の値段どころの話ではなくなるのだろう。
「禁書なんて捨てたい……」
呟いた言葉はしっかりカズイには聞こえたようだ。
「無理です」
あっさりと答えられて、がっくりと肩が落ちる。
「ですので、危険を感じた場合は、一刻も早く私にお知らせください」
「わかりました」
しぶしぶ、黒くて軽い最新モデルの携帯電話を受け取った。
ものは軽いが心は重い。
やはり、どこかでひっそり閉じこもって生活した方がいいのではないか。
物騒な禁書と、得体の知れない何を考えているかわからない騎士の存在に、ナホは同居を許可したことを早くも後悔しはじめていた。