彼の職業は薬屋さんだ。
村の通りの真ん中にある赤い屋根の可愛らしい建物が彼の店である。
いかにも若い子が好みそうな外装だが、中も可愛らしい壁紙や棚で埋め尽くされている。
けれども。
迎えいれる店主の方は、可愛さからは無縁の大男だ。
「いらっしゃーい」
どこか投げやりな口調もいつものことで、常連客はあまり気にしていないが、可愛らしい店内の中で、彼の姿は浮いている。
けれども、彼が人懐っこい笑顔を向けると、大抵の人はほっとしたようにつられて笑うのだ。
ユズにも同じ経験があるからよくわかる。
彼がここに店を構えたとき、ユズはまだ10歳だった。父親に連れられて訪れた時、見上げるように大きなひげ面の姿を見て、驚きのあまり大泣きしてしまったのだ。
あの時、困ったように彼が笑ってくれなければ、自分はいつまでも泣き続けていたのだろう。
「こんにちは、薬屋さん」
いつものように扉を開けて声をかけると、すぐに返事が返ってくる。開店準備中だったのか、袖をまくり上げて大きな箱を抱えていた。
「おう! 酒屋のお嬢ちゃんか」
彼にとって、自分は酒屋の小さな女の子のままらしい。
背だって高くなったし、体つきだって昔とは違う。それなのに、相変わらず『酒屋のお嬢ちゃん』で、名前など呼んでくれたためしがない。ひょっとすると、名前も覚えていないのかもしれない。
「はい、これ。頼まれてたものです」
彼女は毎朝、出勤の途中に彼の店へ寄る。
それは薬を買うためではなく、実家の酒を彼に届けるためだ。彼女が小さい頃から、彼は常連なのだ。本当ならば、すぐ下の弟が配達担当なのだが、どうせ通り道だからといって、薬屋への配達を引き受けたのは、彼女がこの街へ帰ってきて仕事を始めてからだ。
「いつも悪いな」
「父さんが、あんまり飲み過ぎるなって言ってましたよ」
「わかってるって。飲んだくれて調合間違ったなんて、洒落にならねえしな」
豪快な笑いに、彼女もつられて笑う。
彼女は、この笑顔が好きだった。初めて恋をした相手で。たぶん今でも好きな相手。
もちろん昔と変わらず彼女の片思いである。
彼の店へ、美人が入り浸っている。
そんな話を聞いたのは、彼女がいつもパンを買っている店のお姉さんからだった。
「朝から晩までいるみたいなのよ。それもかなり親しいみたいで、お店を手伝ったりもしているし」
薬屋の彼に好意を持っているお姉さんは、思い切り顔を顰めてそう言った。
薬屋は若くはないが、意外にもてる。特にお姉さんたちに人気だ。
街の中には騎士が詰める宿舎もあるというのに、お姉さんたちは彼らよりも薬屋がいいのだという。
優しさや礼儀正しさ、懐具合はもちろん騎士さまの方が断然上で、若い女の子は騎士狙いという人が多い。彼女の幼馴染みたちも幾人かはそうで、差し入れをしたり、ツテを頼って紹介してもらったりしている。
でも、薬屋の笑顔には不思議な魅力があった。カッコイイわけではないのに、また会いたいな、話をしたいなという気分になるのだ。
「あんた、よく薬屋さんに出入りしているし、同業者でしょう。ちょっと様子を調べてきてよ」
躊躇する彼女に、お姉さんは強引だった。
私がいってものらりくらりと交わされるけど、妹みたいなあんたなら大丈夫という、情けないお墨付きをもらっても余りうれしくはない。
だからといって、ユズだって、気になるのだ。
結局、お姉さんのためと自分にいいわけして、次の休みの日、ユズは薬屋の元を訪れた。
『営業中』と書かれた文字を数分眺めたあと、入る勇気がもてないユズは、窓から中を覗き込もうとする。
だが、窓は小さく、中はよく見えない。
どこか隙間からうろうろしていると、背中に気配を感じた。
「何やってんだー? 覗きか」
薬屋だった。出掛けていたのか、手に紙袋を持っている。
「ち、違います!」
「そっか? 人の店の前で、かなり挙動不審だったぞ」
「き、今日は仕事が休みなので、配達を……」
こういう時のために用意していた、とっておきの酒を彼に見せた。
これは、隣国の東で作られる高級な酒で、滅多に手に入らないものだ。薬屋が好きなもので、入荷したら絶対届けてくれと頼まれている。
「お、コノ酒じゃないか。すげえな。1年ぶりだ」
薬屋さんは笑顔になった。先ほどのことをこれ以上追求されなくなり、ユズはほっとする。
「せっかくだから、茶でも出すぜ。寄ってきな」
「あ、はい!」
薬屋さんが入れるお茶はおいしい。時々気が向いた時入れてくれるのだが、評判もいいのだ。
けれども、勢いよく開いた扉の向こうに飛びきりの美女が立っていてにっこり微笑んだものだから、彼女は目的も忘れて固まってしまった。
綺麗な赤銅色の髪に、出るところも引っ込むべきところも完璧な女性だ。
人目を惹く顔立ちには薄化粧が施されていて、女性のユズが見てもドキドキする。
「このおちびちゃん、だあれ? お客さん?」
形のよい唇を開くと、薬屋の後ろにいるユズを見て首を傾げた。
「俺が常連の酒屋のお嬢ちゃん。えーと、何番目だったっけ?」
彼女には兄妹が多い。上に兄と姉、下にも兄妹が5人いる。
「3番目です」
「そうそう。酒屋の3番目の子供。俺と同じ薬師だ」
「あら、そうなの? 私はレーゼ。よろしくね、おちびちゃん」
握手を求められたので、ドキドキしながら手を差しだす。女性にしては堅くしまっていて、容姿との差にユズは驚いた。こういう手をしている人をユズは知っている。剣士や騎士。兵士だ。
誰だろう、この人。
薬屋とかなり親しいようだけれど、職業剣士かなにかもしれない。
「あなたも薬師なのよね。だったら説得してくれないかしら、こいつったらねえ……」
「レーゼ」
薬屋さんが大きな声を上げた。会話を途中で遮られたレーゼが不服そうに鼻を成らす。
「騎士団専属の薬師になるのがそんなに嫌なの?」
「嫌じゃねえけど。似合わないだろ」
「あら、昔はそうだったくせに」
話が見えなかった。
バツが悪そうな薬屋が、ユズを見ながら溜息をつく。
「レーゼは、元同僚なんだ。こいつ、こう見えても騎士なんだぜ」
女性の騎士は珍しい。少なくともこの街にはいない。ユズは都にいたことがあるが、そこでも女性の騎士は少なかった。
「実はね、前から戻って来てっていっているんだけどさ。こいつ、なかなか承諾してくれなくて。今回は直接交渉に来たわけ」
「俺はもう、ただの薬屋さんなんだよ」
薬屋は話を終わらせたがっているようだった。
でもレーゼと呼ばれた女性は、引かない。
「今、都では、薬師不足なのよ。前いた人は、高齢で引退してしまったし、騎士団についてこれるような薬師は限られてくる。新人なんて無理だし。その点、あなたなら任せられる」
レーゼの瞳には、薬屋に対する揺るぎない信頼があった。けれども、薬屋さんは返事をしない。
二人の間に立ったユズはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。
「ねえ、おちびちゃんからも言って。私達、本当に彼が必要なの」
「え、私ですか?」
いきなり名指しされてもユズも困る。
大体、これは彼女が口を出していい事柄なのだろうか。ただの、酒屋の娘なのに。
「レーゼ。お嬢ちゃんを巻き込むな」
「でも」
「だめだ」
強い口調に、レーゼは口を閉じた。
「今日はもう帰ってくれ」
言うことを聞かなければ、追い出すとでも言いたげな迫力に、レーゼは諦めたようだ。
「仕方ないわね」
また来るといって出て行ったレーゼの姿を見ないように目を逸らすと、薬屋さんは溜息をついた。
「行くんですか?」
「どうかな、俺ももう年だしなー。専属薬師なんか、体もたないぜ」
まだ30歳を少し越えたばかりだというのに、老人のように腰を叩いてみせる。
「お嬢ちゃんは、どう? 俺がいなくなると寂しかったりする?」
「お酒の売上が落ちちゃうかも」
素直になれず、現在彼が実家で一番貢献してくれていることを口にする。最近大きな酒屋が出来たせいで、ユズの実家は経済的に苦しい状況だ。薬屋のように定期的に酒を購入してくれる常連客は大変ありがたい存在なのである。一人でも欠けるとひびく。
「色気ねえなー」
彼は笑うが、ユズの方は落ち込んだ。寂しいとでも言えばよかったのかもしれないが、どうしてもうまくそれを伝えられない。言っても、簡単に誤魔化されそうで、怖かった。
「それに、この店のこともあるしな。せっかく頑張って店出したっていうのにさ」
名残落ちそうに見回す目には、何故かもう未練がないように見えて、彼女は動揺した。
ユズはもしかしたらという仮定で話しているが、薬屋の方はいなくなることが前提のようでもある。
「お、そうだ。お嬢ちゃん、薬師の資格取って、東の通りの店で働いてるんだろ。なんなら、この店、譲るぜ」
「冗談はやめてください!」
彼女が薬師になったのは、彼に憧れていたからだ。
都の学校にいって、難しいという上級薬師の資格を取った。
そして、いつか彼の店を手伝えたらいいのに、などと夢のようなことを考えていたのだ。
もうそれは叶わないのだろうか。
「東の店で聞いたけど、なかなか腕もいいっていうじゃないか。俺の店を任せるなら、やっぱ優秀じゃないとな」
「そんなこと言わないでください」
「どうして?」
「私はまだ未熟です。薬師になって、まだ季節を2巡しただけですよ」
まだまだ学ばなければいけないことはたくさんある。先輩方にだって、怒られることも多い。店を一人でやっていくなんて、とんでもない話だ。
「俺さ、お嬢ちゃんになら、店を譲っても良いって、本気で思ってるんだぜ。昔からがんばりやさんだし。都の学校で学ぶほど根性もあるしな」
「薬屋さんは、戻りたいんですか?」
どうしても真正面から顔を見られないから、わずかに視線を逸らしたまま、ユズは尋ねた。
「そうだな。あそこには一緒に戦った仲間がいるから。奴らが困っているのなら、助けたいと思う」
薬屋も、わずかに視線を上に向け、何かを思い出すように遠い目をした。
「でも、この街も好きだ。……俺を救ってくれた」
掠れた声に、ユズは顔をあげる。彷徨う視線は、何を見ているのだろう。ここではないどこか、なのだろうか。
「正直言うと、迷ってる」
行かないでというのは簡単なのかも知れない。
けれども、それは押しつけではないだろうか。ユズが彼の道を指し示すことはできない。
「騎士団の専属薬師っていうのは、結構辛いぜ。戦いについていくこともあるから、嫌なこともたくさんある」
ユズは都にいたから、薬屋の言うことは理解できた。
実習で騎士団を訪れたこともあったし、実際にこの目で傷ついた人を見たこともあった。
薬師の技術も、魔法使いの癒しも効かず、命を落とす人間も見た。
出来ることは限られているとわかっていても、心が痛くて、最初の頃は寮で泣いたこともある。
助けられない命を前に、無力な気分になるのは、性別も年齢も関係ない。
でも。
レーゼが最後に見せた表情を思い出す。彼女は薬屋が必要だと言った。あの目は真実困った顔だ。
ユズも薬師だから助けて欲しいと頼まれれば。それが仲間からの誘いならば、行きたいと思うだろう。
天井を見つめ続けている薬屋にユズは視線を戻した。
選ばなければいけないのは彼だ。
行ってほしくないのはユズ。黙って送り出すこともできるけれど。気持ちを伝えずにいるのはいけないような気がした。
彼は、自分自身の気持ちを伝えてくれたのだから。
「薬屋さん」
ユズは、まっすぐに彼を見た。今度は目を逸らさない。
そんな彼女の気持ちが伝わったのか、彼の視線がユズへと向いた。
「本当は、薬屋さんがいなくなるのは、嫌です」
「お嬢ちゃん?」
「私だけじゃなく、ここの人たちも、みんな薬屋さんが好きだから」
彼は少し困った顔をした。それでも、ユズは言葉を続ける。
最後まで、ちゃんと言わなければいけない。
「角の居酒屋のお姉さんも、パン屋のお姉さんも、みんなあなたのことが好きなんです。常連客のおじーちゃんやおばーちゃんだって、寂しがる」
もちろん、お姉さんたちの気持ちは、商店の人たちとは違う。みんな片思いだ。わかっていても、お姉さんたちは彼を好きだという。彼がここにいて、笑ってくれるのを見るのが嬉しいという。
自分だってそうだ。子供の時からずっと好きだった。お嫁さんにはなれなくても、同じ場所で笑ってくれるのが幸せだった。
何故なら、本当は皆知っている。
彼には昔好きな人がいて、その人と事情があって別れなければならなかったこと。
今でもその人のことを忘れられないこと。
薬屋さんは、こう見えて、一途な人なのだ。街の人間は誰だって知っている。
ユズだって、散々回りの人に聞かされてきた。
彼に本気になっても駄目だよ、と。
わかっている。だから、一番底の本当の気持ちは伝えない。ここにいてほしいという思いだけを伝えよう。
「薬屋さんには、どこにも行ってもしくないです。だけど、決めるのは薬屋さんでしょう」
「そうだな。人に責任を押しつけるには、重すぎる選択肢だ」
本当は彼にもわかっているのだろう。
どちらを選んでも心が残る。仲間を守りたい気持ちと、街に残りたい気持ちは、同じなのだろうから。そうでなければ、迷わない。
「だから、もし行くのだとしても、いつかここに帰ってきてくれますか?」
「ここへ?」
「はい。待ってますから。薬屋さんが望むなら、帰ってくるまで、このお店もちゃんと守ってるから」
だから、安心していてください。
そう締めくくると、薬屋は、笑って。
「そっか。ありがとう。今晩、きちんと考えてみるよ。俺がどうしたいのか」
そうユズに約束した。
* *
彼が旅立ったのは、雲一つない青空だった。
旅立ちにはおめでたいといってはしゃぐ彼を、常連客たちで見送ることになった。
不思議と涙は出なかった。
彼が都へ行くと告げたとき、本当は悲しくて泣いてしまいそうにもなったけれど、あまりにもすっきりした笑顔をユズに見せたから、結局何も言えなくなった気がする。
でも、約束した。
いつかここへ帰ってくると。それを信じてみるくらいはいいだろう。
「いってらっしゃい」
そう言うと、いつものように「おう!」と答えた。
「ちょっとの間、都に行ってくる」
そこらへんにでも出掛けるように言う薬屋に、常連客は笑い、お姉さんたちは涙を拭った。
「お嬢ちゃん、店を頼むな」
「わかってます」
ユズは薬屋から渡された店の鍵をしっかり握り締めると頷いた。
「大丈夫よー。みんなもいるんだから」
パン屋のお姉さんが、薬屋の手を握ってそう請け負った。ずるいと周りであがる声に、薬屋さんはそっと手を離す。お姉さんは名残惜しそうだったが。
「じゃあな」
そう言って、薬屋は笑顔で店を去っていく。
寂しいような、悲しいような気持ちを抱えたまま、ユズはそれを見送った。
やがて常連客が帰ったのを確かめてから店を眺める。
明日からしばらく、ここは彼女の店だ。
彼ほどうまく裁けないかもしれないが、彼と同じように地道に頑張っていくのだろう。
いつか、この店を彼に返す時まで。
いつになるかはわからない。
その頃には、彼のことは思い出になり、平凡な結婚をしているかもしれない。
きっとそれも悪くない。彼が悔しがるくらい幸せになって、この店を繁盛させてやるのだ。帰ってきたとき、彼がびっくりするのを見るのも楽しいかもしれない。そう思うと少し気が楽になった。
「よし、明日から頑張るぞ!」
気合いを入れるようにユズは自分に言い聞かせた。