テレビの中から出てきたのは、変な人だった。
液晶画面から出てきた男は、リモコンを持ったまま固まった私に、気まずそうに笑ってみせる。
「わりィ、出てくるところを間違えた」
いやいや。
テレビはテレビであって、出入口ではありません。
そんな馬鹿なことを思った私は、その時相当パニック状態だったんだと思う。
叫ぶことも忘れて、男がずるずるとテレビからはい出してくるのを最後まで見つめていたのだから。
「出てきたのはいいけど、どうも帰れなくなっちまったみたいなんだよな」
はははーと気の抜けた笑い声を上げる男は、呆然としている私の目の前でテレビをいじくりまわしたあと、そう言った。
「うーん、どこで座標軸を間違えたんだろう」
うんうん唸って、考え込んでいる。
たぶん自分よりも年下。20歳を少し過ぎたくらいだろうか。短く刈り込んだ真っ赤な髪に緑の瞳。来ている服は普通だけれど、妙な匂いがぷんぷんする。
「おかしいな、何度も来て慣れてるはずだし、うっかりミスだったら、泣けてくるぞ」
うっかりミスってなんだ。
というか、うっかりミスで私の部屋のテレビからはい出てくるのはおかしいだろう。そんなあほらしい展開、今時流行らないよ。
それとも、ほら。
「もしかすると、あなたは幽霊か何か?」
私の言葉に男は大爆笑した。
腹をかかえて、転げ回っている。
なんとも失礼な男だ。だいたいテレビから出てくるなんて、幽霊じゃないと何だっていうんだ。
「なんで幽霊? 驚いているのはわかるけどさ、幽霊に見えるかよ。ほれ、足もある。この国じゃ、幽霊には足がないんだろ?」
「別にそういうわけじゃないと思う」
「ん? 違うのか。前ここに来たとき会ったヤツは、そう教えてくれたぞ」
男の言うことは間違っているわけじゃない。あくまで一般的にはって話だ。でも、そんなの説明するのは面倒だから、しない。
テレビからはい出してくるような失礼な人間に、そこまでする必要なんてないだろう。
「しかし、どうするかなー。目的の場所からはあんまりずれていないはずけど、時間が時間だしなー」
そういえば、今はあと少しで日付が変わる時刻。1人暮らしの女性の部屋に、得体の知れない男が一人。
そこで、遅ればせながら、私の頭は異常事態を理解した。
目の前にいるのは変な男だ。
わけがわからない方法でテレビから出てきた。
見るからに怪しいし、言っていることも意味不明。
「いやあ、ほんとに困ったな」
「そうですか」
男の言葉に適当に返事しながら、私はじりじりと後ろに下がった。
男は相変わらずテレビの前にいる。
私は部屋の扉を背にしている。
体力的にも肉体的にも男には適いそうにないし、男が唸って考え込んでいる間に、逃げた方がよさそうだ。
で、警察を呼ぶ。それしか方法がない。
「うん、だから、泊めてよ」
「はい?」
突然顔を上げた男が、人懐っこい笑顔を向けながら、ちょっと傘でも貸してよという感じでそう言ったから、思わず私の動きが止まった。
何言っているの、この男は。
「一応、この世界にも協力者がいるんだけどさー。さすがにこの時間だとね。だから一晩泊めて」
ありえないでしょう、普通に。近づいて私を拝むふりをする。容姿は外国人だが、仕種は日本人のようだ。
「泊められない」
きっぱり否定すると、男は「えー!」と大げさに驚いた。わざとらしい。
が、すぐに気が付いたように、ぽんっと手を叩く。
「あ、そうだよなー。一応俺は男で、アンタは女だよな」
そうそう。
なにもかも非常識だけど、その程度の常識くらい持ってなさいよ。ついでに、さっさと出て行ってほしい。
しかし、男に常識は通用しなかった。
「大丈夫、あんた全然俺の好みじゃないから、襲ったりしねえよ」
もちろん、私はこの失礼な男の頭をぶん殴った。
「あなた馬鹿?」
男から、たっぷり距離を取った私は頭を押さえる男に向かってそう言った。
「これから泊めてもらおうとお願いする相手に、失礼なことをよくも言えるわね」
「それにしても、いきなり殴ることないだろ。ひでー、この国の女性は大和撫子じゃなかったのかよ」
いつの知識だ、それ。
いや、それとも、彼が知っている女性はみんなそういう感じだったのだろうか。
「前に会った女は、もっと優しかった。俺が困っていると、手助けしてくれたし」
やはりそうなのか。
こんな変な非常識男に優しくできるなんて、人間が出来ている。
生憎、人間が出来ていない未熟者の私は彼に冷たい一瞥をくれると、「それはよかったわね」と棒読みで答えた。
「大丈夫、今の季節は春。今年は少し寒いけど、別に外で寝られないほどじゃない」
「ええ、何それ」
「速やかにここから出て行くことを要求します」
私が宣言すると、男はなんでーと情けない声を出した。
「頼むよー。たった一晩じゃないか。コレも何かの縁と思って、お願いします」
そんな縁はいらない。
それに、私はこの部屋に、誰も泊めるつもりはないのだ。
あの日から。
ここに一緒に住んでいた人が、私の前から永遠に消えてしまった日から、この領域に誰かを入れることはなかった。
けれども、私の思いとは裏腹に、男は諦めない。
「俺さー、実は別の世界から来たんだよ。ほらほら、異世界人ってヤツ。だから、ここで見捨てられると困るんだ。よくわからないこと多いし」
土下座せんばかりの勢いだ。
圧倒された私は、思わず後ろに下がる。
「本当はさ、座標軸を決めて、出る場所を調整するんだけどさ、なんかミスったみたいでさ。ほんと、道路の真ん中とか、川の中に出なくてよかったぜ」
私はその方がよかったんだけどね。
「実際、行くはずだった場所からだと、元の世界にも帰れるんだけど、間違ったところに出た場合、帰りの座標軸の設定が難しいからなー」
それにここは地場が悪いんだと男は言う。座標軸を合わせるには、特定の地場が必要なんだとか。
言われてもさっぱりわからないけれど。
「だーかーらー、頼むよ。床でも廊下でも、どこでもいいからさ。泊めて」
再び拝まれて、溜息をつきつつ結局私は了承した。
この部屋に人を泊めるなんて本当は嫌だけど、男があんまり困っているふうに見えたから。
私は二部屋あるうちのひとつ――テレビがある部屋に寝てもらうことにした。
一応、男に対抗するために、寝室に箒を持ち込んだが、心配だ。
本当に大丈夫なんだろうか、私。
眠れない。
隣に得体の知れない男がいるからじゃない。
眠れば嫌な夢を見てしまうからだ。
大好きだった人の夢。
大学で知り合って、恋に落ちて。とても不器用な人だったから、ゆっくりゆっくり親しくなった。
付き合うようになって、結婚の約束をして。
なのに。
あなたは突然私の前からいなくなった。
「死なないで、ショウ」
あの時、何度も叫んだことを覚えている。
雨の交差点。
突っ込んできた車。
ぴくりとも動かないショウ。
思い出すたびに、吐き気と目眩が何度も起こった。最近ようやく落ち着いたけれど、今でも苦しさは変わらない。
眠ると彼の夢を見るから、眠るのも怖い。
でも、夢の中にはショウがいるから、会えるのは、夢の中だけだから。
だから、ショウ……。
瞼が閉じる。
眠りたくないのに。夢を見たくないのに、まるで引き込まれるように暗い場所へと落ちていく。
意識が闇の飲み込まれる――そう思った瞬間に、誰かの手が、私の手を掴んだ。
優しい手だ。ゆっくりと包み込むような温かさに泣きたくなった。
「ショウ?」
呼びかけると手がびくりと動く。
「生きてたの、ショウ」
そうだったらいいのに。
たぶんこれは夢なのだろう。きっと都合のいいことを見ているのだけだ。
だって、目が覚めたらショウはいない。
永遠に目覚めなければいいのに。
でも、その願いはきっと叶わないのだ。
瞳を開くと、涙でにじんだ先に驚いたような顔があった。
赤い髪の男が、私の体の下にいる。
なんだかこの体勢は、おかしくないか。
「あー、ごめん。なんかうなされてたみたいだったからさ」
男は困ったように笑っている。
体格差はあるんだから、私を押し退けるのは簡単だろうに、男はまだ私の下だ。いったい、何がどうなってこういう状況に?
「様子見に来たら、急に押したおされたてさ。びっくりした」
驚いたという割には、その手は私の背中に回っていないか?
「ごめん」
謝りながら男を解放するため立ち上がろうとした私だけれど、強い力で腕を引かれてバランスを崩した。
そのまま世界が反転して、私の体が男の下になる。
あれ、何この状況。
「襲わないってのは、どうなった」
「え、これ、襲ってることになる? 誘ったのはそっちじゃねえ?」
「誘ってないし」
「でも、泣いて縋って抱きついてきた」
それはそうなんだけど。
だからといって、なるようになるのはおかしいだろう。
私は好みじゃなかったはずだし、私もそうじゃない。年下なんて対象外だし、異世界人なんて、ありえない。
「あんた小さいけど、思ったより柔らかいし」
「ええ!?」
「意外に抱き心地がよかった」
目の前に緑の瞳がある。
新緑の色だ。鮮やかで明るくて、綺麗だ。
「で、なんで泣いてたんだ? 俺に向かって誰かの名前を呼びかけた」
「知らない」
「あんたの男?」
「言わない」
「泣いてたってことは、別れた?」
私は足で男を蹴った。
デリカシーのない男だ。
「違うな。……死なないでって言ってた」
呟くように言われて、私は唇を噛んだ。
「死んだのか?」
私はもう一度男を蹴った。もちろん、蹴ったくらいで男の体は動かない。
男の目は真剣だった。まっすぐに私の目を見ている。さっきまでとは違う、真摯な瞳だ。
「もしかして、あなたも、大切な人を亡くしたことがある?」
男の目に、後悔と懺悔と悔しさを感じ取って、私は尋ねる。
「さあな」
男の目が閉じられて、綺麗な緑色が見えなくなった。
そうすると、きつい印象がなくなって、随分と幼く見える。
そして、気付く。
右の目尻と、右頬。それから首筋に傷痕があった。
何か――鋭い爪のようなもので引っ掻かれたような痕。首の傷は古そうだ。わずかに引きつれている。頬と目尻は新しい。特に頬は最近のものなのか、傷痕が赤く盛り上がっていた。
何の傷だろう。動物かなにかだろうか。
そっと頬の傷に触れると、驚いたように男の目が開いた。
「あ、ごめん。痛かった?」
「いや、痒いだけ。気になる?」
「そういうわけじゃないけれど、刃物とかの傷じゃないって思って」
「これは魔物にやられた痕」
「魔物?」
「俺の世界には、魔物がいるんだ。で、人を襲う。俺、金もらって魔物を倒すのが仕事なわけ」
「え、危ないんじゃないの?」
「んー。どうだろ。でも、他のことなんにも出来ないからさ。頭悪いし。それに、死にそうにはなっても死んでないから、運もいいのかも」
「そんな」
想像がつかなかった。人を襲う魔物。肉食獣よりも、もっと危険な気がする。それを退治する職業があるということは、それこそ、魔物が人を襲うのは、日常茶飯事なのかもしれない。
「そんな顔をしないの。それに俺が今やっているのは護衛なんだ。人間相手なら、そんなに危なくない」
よかった、と言っていいのかどうかもわからない。
護衛といっても、おそらく私が考えるようなSPとは違うのだろう。なにせ、魔物が出てくる世界だ。
「案外心配性?」
それは違う。
ただ、怖くなった。
今日知り合ったばかりの人だけれど、もう2度と会わないかもしれないけれど、常に命の危険にさらされているなんて聞くと、怖くなる。
「大丈夫って。俺の護衛対象は、わけあって日本にいるんだ。少なくとも魔物とは戦わない」
男は、私の頭を安心させるように叩いた。
「でも、なんだか新鮮だな。そんなふうに心配してくれる人って、いないからさ」
「そうなの?」
「俺、強いし。みんな俺は魔物に負けないって思ってるみたいだから」
私は男の強さを知らない。
魔物のこともわからない。
だから、やっぱり怖い。
「それ聞いても、怖い?」
どうしてわかったんだろう。私の表情に、男は目を細める。
「実は、時々俺も怖い」
「え?」
「死ぬんじゃないかとかさ、もうこれっきり朝日を拝めないんじゃないかとかさ、そう思うと、逃げ出したくなる。……逃げないけどさ」
強い目差しに、私は息を飲む。
怖いといいながら、彼は逃げないという。私にはない強さだ。私なら、きっと逃げる。怖くて辛くて、立ち向かえない。
「あれ、俺何言ってるんだろ」
照れくさそうに笑うから、私は彼の頬にもう一度触れた。擽ったそうに顔を顰めた男は、なんだか可愛らしい。
「あのさ、あんたが好きだったやつ、俺に似てる?」
ふいに男がそう言ったから、私は顔をしかめる。いきなりどうしたんだろう。
「全然似てない。むしろ正反対」
「それはよかった」
何が?
聞き返そうとした私の目を、男が覗き込む。
近すぎないか? というか、いい加減この体勢はヤバイ感じなんだけど。でも、目を見ていると何も言えなくなる。
強い目差しは、どちらかといえば肉食獣みたいだ。
こっちは迫力に飲まれてしまって、全然動けない。
「やっぱりさ、似てるからいいなんて、俺やだし」
男が、とんでもないことを口にする。
「せっかくだからさ、今は俺だけ見てろよ」
だから何がせっかくなの?
意味が全然わかりません。
「俺、あんたのこと気に入ったかも」
男の顔が、近づいてきたかと思ったら、キスされた。
いやいやいや、ちょっと待って。
いきなりそれはないでしょう。
しかも、一旦離れた唇が、「ごちそうさま」なんてことを言った。
その表現は間違っている。
断固抗議しようとした唇をまた塞がれた。逃げなかった私は、やっぱりどうかしている。
だけど、男の指先が優しくて、つい。
つい、なし崩しに流された。
馬鹿だなあ、私。しばらくは一人でいいって思っていたのに。
男が意外に優しいからいけないんだ。なんだか泣きそうになる。ショウを裏切ったような気持ちがするせいなのか、つい数時間前に現れた男に気を許したことを悔やむからなのか。
自分でもよくわからない。
流れた涙に気付いたのか、男は「全部俺のせいにすればいい」って笑った。
「あんたの弱みにつけこんでいる俺が悪いんだ」
言っていることは無茶苦茶だけど、口調は柔らかい。
どうして急にそんなに優しくなるの。
「合意の上でしょ」
言うと、また男は笑った。
でも。
次にこういう状況になったときは、問答無用で追いだそう。
だけど、今は。
と翌日反省したんだけど、気持ちのわりには目覚めが爽やかだったことが、妙に悔しい。
すっきり爽やか。
昨日までの寝不足が嘘のようだ。
「おはよーさん」
すぐ横にいた存在が、笑いながら私を見る。
「よく寝られたみたいだな」
大口開けて寝てたと言われ、私は男をベッドから蹴り落とした。
「どわ! ひでー!」
ごろごろと床を転がった男が抗議の声を上げるのを無視すると、私は手を伸ばして床に散らばった服を引き寄せた。
男が立ち直る前に、さっさと着替えを済ませる。
「ほら、あんたも。いつまでもそんな格好でいないでよ」
「ひどい、ひどすぎる」
泣き真似されてもその格好だとねえ。
男に向かって服を放り投げると、ぶつぶつと文句を言いながら、着替えはじめた。
その背中が傷だらけなのを見てしまって、私は目を逸らした。あの傷は魔物につけられたものだろうか。あんなにたくさんあるなんて。いったい彼はどれだけの魔物と戦ってきたのだろう。
男の方は、俯いてしまった私を気にすることなく、すばやく身支度をすませると、伸びをしながら立ち上がる。
「さてと、俺、そろそろ行くな。俺が来なかったから、協力者や雇い主も大騒ぎだろうし」
だったらすぐ行けばよかったのに。
「朝ご飯は?」
「いらねぇ。ぐずぐずしてたら、報酬減らされちまう」
「だったら、夕べ急げばよかったのに」
「いやー。雇い主ってのが、夜は外からの人を絶対入れないんだって。もし無理矢理入ったら、ここよりひどい扱いされちまう」
どういう意味よ。
「じゃあな。縁があったらまたな」
男はそう言ったが、私は出来れば遠慮したい。
返事をしない私に、男は苦笑すると、軽く手を振って部屋から出て行った。
あっさりしすぎていて、拍子抜けする。出てくるときは、非常識だったのに。
「縁なんてあるわけないじゃない」
男が消えた扉を見ながら呟くと、部屋の中の静けさに気が滅入った。
でも、仕方ない。
偶然知り合った、ただの異世界人。きっともう会うことはないだろう。
そういえば、名前を聞いていなかった。
そんなことを思ったのは、随分後になってからだったのだけれど。
男はその後私の前に現れることはなかった。
季節はもう夏になっていたけれど、あの時のことは夢だったかのように、私の日常は普通で平凡で、何も起こらない。
ただ、あれ以来、怖い夢を見ることが減った。
気持ちが塞いだ時、あの緑の瞳を思い出すと、落ち着くのだ。たった一度会ったきりなのに、すごい影響力だ。
それから、私はテレビを買い換えた。別にそうしたからといってどうにかなるとも思えないけれど、気持ち悪かったからだ。今あるテレビは古い型だったし、丁度良い。
また男がテレビから出てきたら困るし、それ以外のものが現れたらもっと困る。
そう思っていたのに。
「あ、出てくるところを間違えた」
そんなことを言いながら、にょっきりとテレビから首を生やしているのは、いつか見た赤い髪の男。
「いやー、俺たち縁があるね」
ずるずるとはい出して来た彼を見ながら、私は溜息をついた。
どうやら、私と彼の縁は、切れていなかったらしい。
仕方ないから、私は言った。
「おかえりなさい」
男は目をぱちぱちさせた。
驚いているのかもしれない。
でも、嬉しそうだから。呼びかけてよかったと思う。
「ただいま」
照れくさそうに男は笑った。
その時の彼の笑顔は、とても優しくて。
どうやら、私はあの日から彼に惹かれていたらしいということに気が付いた。