変な女だった。
いや、顔が変ってわけじゃないぞ。
顔は普通だった。
平均的な顔っていうんだろうな。この国でよく見る感じ。
でも、態度はでかいし、乱暴だった。
俺の雇い主が、この世界の女性は素晴らしいって言っていたけれど、あれは間違った知識だな。
乱暴なのも、純粋なのも、おっかないのも、いろいろいる。俺の世界と変わりない。
ただ、あの女は変だった。
危なかっかしい感じがしたんだ。
どこか抜け殻のような目が気になった。
泣きながら縋ってきたとき、なんだか放っておけない気がしたんだ。
「あの、今、大丈夫ですか」
か細い声に、俺は振り返った。部屋の入り口に、少女が立っている。俺はこいつの保護者に雇われている。彼女が外に出るとき、護衛をするのが、今の俺の役目。
「なんだ?」
聞き返すと、体がびくりと動く。
「私、出掛けたいんですけれど。お願いできますか」
「ああ、いいぜ」
着替えて来るので待っていてください、と頭を下げて、少女は逃げるように部屋を出て行った。
今だこいつは俺のことが怖いらしい。
初対面の時、こいつの目の前で魔物を一体ぶった切ったからな。あん時は、余裕がなかったから、結構血まみれになっちまったし、怪我もした。
免疫のないヤツには、刺激が強すぎたとは思う。
でも、その時の腕を見込まれて、俺はこいつの護衛の仕事を依頼された。騎士とか剣士、腕の立つ傭兵じゃなくて、魔物を殺してまわる俺なんかを雇い入れるのも変な話だと最初は思った。
でも報酬はよかったし、話を持ってきた奴が信頼できる人間だったからな。
まあ、あちらさんにもいろいろ事情があるらしい。
余計なことなんか知る気もないので、詳しくわからないけどさ。
俺は、言われたとおりに仕事をするだけだ。余計な詮索をしないっていうのは、暗黙の了解だ。
魔物相手じゃないから、随分楽だしな。
俺は、無意識に頬をなでる。
その時付けられた傷。今はもう痕も残っちゃいないが、あの変な女は、これを見て辛そうな顔をした。
今、あの女、何しているんだろう。
また泣いているんじゃないだろうか。
あんな顔をして、あんな声で、たった一人で暗い部屋で。
会いに行きたいと思うのに、今の俺は雇い主の意向でここから離れられない。
あの女にようやく会えたのは、この国の季節が変わった頃だった。
用事があって、戻った俺の世界。
そこからこっちの世界へ帰る時、何故かあの時のように座標軸が狂った。
雇い主の部屋ではなく、俺の体はテレビを抜けて、そこへと出る。
目の前に、いつかの女の顔があった。
「あ、出てくるところを間違えた」
何を言っていいかわらかなくて、とりあえずそう口にした。
女は、驚いたように俺の顔を見つめていたんだけどさ。
ふいに、その顔に笑顔が浮かんだ。
そして。
「おかえりなさい」
そう呼びかけられたから、俺は嬉しくなった。それに、あの時みたいに、抜け殻のような目じゃない。
まっすぐに俺を見る目は、迷いがない。あれからどんな変化があったんだろう。
不思議なことに、女の目の中には、嬉しそうな感情も見えた。もしかして、俺に会いたいって思っていてくれていたんだろうか。だったらいいのにな。
「ただいま」
あんまり言い慣れていないけれど、言わなければいけない気がした。
それだけのことなのに、ものすごく幸せになった。他のやつに同じことを言ってもこんなに気持ちにはならない。
本当に変な女だけどさ、こういう気持ちにさせてくれるなら、悪くない。
その後、俺たちは互いの名前を知らないことに気が付いて自己紹介をした。
「留衣」というのが名前らしい。
こういう字なのだと、紙に書いた文字は、正直読めない。この国の漢字ってのは、よくわかんねえよな。絵みたいだし。
俺の方の名前も書いてほしいと言われて、ちょっと躊躇する。文字が書けないってわけじゃない。独学だけど、仕事に必要だから文字は覚えた。ただ、ちょっと――いや、かなり汚いんだよ、俺の字は。
でも、目の前で期待に満ちた――それとも面白がってるのか――目差しを向けられ、負けた。
しぶしぶ『ジェス』と紙に綴る。
「あ、なんか可愛いかも」
なんだよ、その感想。
「字の大きさが揃ってないし。ねえ、もしかして、ジェスって字が下手?」
無言で紙をルイから奪い取る。
「ごめんごめん。大丈夫、私の字も汚いから」
俺は、自分の汚い字の側に書かれた文字を見る。
こっちの方が絵みたいで綺麗なのに。
「本当だよ。私から見たら、ジェスの字の方が可愛い気がする。花が咲いているみたいだもの」
そんなことを言われたのは初めてたっだ。
白い紙に、汚い俺の文字。異世界の人間ってのは、変わったヤツが多いんだろうか。花っていうより、ゴミって感じなんだけどな。
「あと不思議なんだけど、ジェスってどうしてそんなに日本語がしゃべれるの?」
「覚えたから」
ルイが首を傾げたから、俺は説明する。
「ここの国と俺の世界、いろんなところで繋がっててさ。時々お互いの生き物が行き来するんだ。それを回収したり、送り届けたり。あ、俺は魔物専門だから、魔物狩りだな。情報収集するのに、言葉は大切だろ」
魔物といった瞬間、彼女の身体がちょっと震えた。
でもすぐに何事もなかった顔をして、ジェスって頭悪くないじゃないって、笑う。
だから、俺も彼女の怯えを見なかったことにした。
「必要じゃないと覚えない。言葉って根性でなんとかなるし」
「根性なんだ」
お腹を押さえて笑うルイの額をこづいた。笑いすぎだろ。
「戦略とかさ、駆け引きとかさ、そういうのは無理。力技で行く方が楽」
「見た目のまますぎて、芸がない」
確かに俺は背も高いし、顔も怖い。学者って雰囲気じゃないしな。
「ところで、今日は時間いいの? つい引き止めちゃったけど、前みたいに、急がないといけないとか」
「今日中に帰ればいいんだ。だから平気」
そういうと、彼女は嬉しそうに笑った。
ご飯を一緒に食べようなんて言っている。
いいのか、一応こいつは女で俺は男。前回いろいろあったから、普通警戒するべきじゃないのか。
まあ、昼間だから、何もしないけど。
「たいしたものはないけれど、せっかく再会したんだから」
そんな言葉に押し切られ、結局、昼ご飯を二人で食べた。
それからいろんな話をして、そろそろ帰ろうかって頃になって、俺は彼女に尋ねてみた。
「あのさー、また来てもいいか? 仕事の都合もあるから、頻繁には無理だけどさ。あんた面白いから、もっと話がしたい」
「いいよ」
あっさり彼女は頷いた。
「あ、でも」
いたずらっぽく笑うと、俺の目を覗き込んだ。
「今度はちゃんと玄関からね。テレビからっていうのはなし」
そういうわけで、俺とルイは時々会うようになった。
何度目かにルイの部屋にやってきたときだった。
お土産があると言って、彼女は照れくさそうに笑った。
なんでも、数日前、会社とやらの旅行に行ったんだそうだ。
「これ。もしまたジェスが来てくれたら渡そうと思ってた」
俺の手の中に落とされたのは、小さな木彫りの変な生き物。編み込まれた紐が付けられていて、雇い主から渡された『携帯電話』についていた『ストラップ』とやらによく似ていた。
「何コレ」
「お守り」
「何の?」
「これはね、蛙って生き物なの」
ルイは俺の手の上の木彫りをつついた。
「蛙? そういえば、俺の世界にも似た生き物がいたかも。でも、これってお守りなのか」
「『帰る』って言葉があるでしょ。それを『蛙』って生き物にかけて、『無事帰る』ように願うお守り。他にも『福がかえる』とか『失せものかえる」とかあるんだけど……」
そこで、彼女は口ごもった。
言うか言わないか迷っているらしい。
しばらく俺の手の上の『蛙』とやらを眺めていたが、意を決したように真剣な顔になる。
「えーと、魔物狩りの時、危ないところに行くことがあるって言ってたでしょ。今の仕事は護衛だけど、ずっとじゃないって話だし。そのうち本業に復帰して、また同じように危険なところへ行くようになっても、その時無事帰ってきてほしいな、なんてね」
その言葉に、俺は、以前の会話を思い出していた。
前に、ルイに聞かれて、俺は自分のことを話したことがある。
魔物のことや、家族のこと。両親も、兄妹も、幼馴染みも、みんな魔物にやられちまったこと。13歳の頃には、大人に混じって魔物狩りをしていたこと。
その頃は弱くて、何度か死にそうになったこと。
世話になった先輩が魔物にやられて悔しかったこと。
余計なことをしゃべりすぎなんじゃないかと思うくらい、たくさん話した。
考えてみれば、こういうことを人に話すのは初めてだ。断片的に教えることはあったけど、なにもかも、全部っていうのはない。
第一、俺だけが特別なんじゃない。そういう子供はたくさんいて、同じように魔物狩りを職業にしたり、傭兵になったりする。成人しないまま死んでいくやつもたくさんいる。ただ、たまたま俺は運がよくて、生き延びているだけだ。
魔物と戦うのが楽しいわけじゃない。魔物を前にすると、怖くてたまらなくなる時がある。でも、俺には、魔物を狩ることしかできない。だから、その仕事を続けていくしかないんだ。
そう言ったら、彼女は悲しそうな目をした。同情とはちょっと違う、でも、不可思議な目差しだ。どういう意味なのかわからなくて、じっとルイの顔を見ていたら、白い手が、俺の頬に触れ、目の下を拭った。
その時、初めて俺は自分が泣いているのに気が付いたんだ。
慌てて目を擦ろうとすると、彼女の手がやんわりとそれを止める。
「泣いていいんだよ」
「いやだ」
人の前で泣くのは負けた気がする。俺は強くて、魔物なんか平気で、血まみれになっても不敵に笑っているんだ。
親が死んだときも、妹が目の前で魔物に喰われたときも、泣かなかった。優しくしてくれた近所のおばさんが魔物に襲われた時も、泣かなかった。ただ、その魔物を殺しに行っただけだ。
過去の救えなかった命を思い出して、泣いたりなんかしない。
「強情だなあ。じゃあ、見ないふりしてあげる」
ルイはそう言って、俺の顔をその胸に抱き込んだ。
なんだよ、何してるんだよ。こういうのはずるい。母さんみたいなことをするのは、卑怯だ。
それなのに。
涙が止まらなくなった。
小柄な彼女の身体に縋り付くようにして、俺は久しぶりに人前で泣いた。
みっともないって思っていた行為なのに。
ルイの腕の中があまりに暖かかったから、俺はまるで子供にでも戻ったような気持ちになっちまった。
そういえば、あの時の彼女はどうだったんだろう。
泣いて縋って俺の腕の中に飛び込んできたルイ。
俺も、あの時のルイのように、頼りなく消えてしまいそうに見えていたんだろうか。
「危ない場所へ行くのは仕方ないってわかってる。それが仕事だものね」
ルイの言葉で、俺は現実に引き戻された。
そうだ、俺は、そう言ったのだ。その時のことを彼女は覚えていたらしい。
「帰ってきてなんて簡単に言うべきじゃないって思う。ここの世界だって、いつ人が死ぬかわからないのに、ジェスの世界はもっと危険が多いんだもの」
だからね、とルイが笑う。
「お守り。気休めかもしれないけれど」
ちっぽけな、ただの木彫り。
でも、ルイは知らない。
俺たちの世界には、言霊というのがある。強い想いが込められたものには、強い力が宿る。俺には魔力はないけれど、このお守りからは、確かにルイの想いが感じられた。
『どうか無事に帰ってこれますように』
そんな願い。
やっぱりこいつ変な女だ。
俺みたいな得体の知れない人間をそう簡単に受け入れるなんて、どうかしている。しかも、そいつの無事をこんなに強く願うなんてさ。
馬鹿だと思う。
だけど、愛しい。
出会ってまだ数回なのに、会うたびに愛しくなる。
「こんなものをくれるってことは、俺って、ここに帰ってきてもいいってこと?」
「まあ、一応」
そっぽを向いたルイに、俺は思いきり抱きついた。
勢いがつきすぎて、そのまま床に転がっちまったが。
「ちょっと、おーもーい! それに痛い」
「ちゃんと帰ってくる。だから、俺のこといつか好きになって」
俺の腕の中でばたばた暴れていたルイが動かなくなったと思ったら、彼女の目が丸くなっていた。
え、何。なんでそんなに驚いてるわけ。
それに、どうしてけっ飛ばすんだ。
「ばーか」
「馬鹿?」
「それとも、鈍いわけ?」
「鈍くなんかないぞ。魔物が近づいてきたらわかるし、殺気がある人間だって近くにいればばっちりだ」
はあなんて、大きな溜息が聞こえた。
細い指先が近づいたと思ったら、両方のほっぺたを強い力でひっぱられた。
痛いだろ、それ。
「そういう鋭さじゃないってば。気付いていないってのが、おかしいって」
もうちゃんと好きだし。
そう囁かれて、俺の方が驚いた。
「え、俺のこと、好き?」
あ、また蹴られた。
「だってさ、ルイは」
好きな奴がいたんだろ。あんなふうに夜泣くくらい好きだったんだ。
俺に好意はあるだろうけれど、そいつへの気持ちとは違うんじゃないのか? ほら、家族とか、弟とか、そういうものだって、思ってた。
「ショウのこと好きだった気持ちは忘れてない。でも、もう大丈夫。ジェスが私を悪夢から救ってくれたから、ショウのことはちゃんと思い出になったよ。私ね、あなたから前を向いて歩く強さをもらったんだと思う」
ルイはそういうけれど、救われてるのは俺の方だ。
俺を怖がらない。俺を見ても逃げない。
それに。
おかえりなさいを言ってくれる。文句を言ったり蹴ったりするけれど、俺が触れても平気でいてくれる。
それだけで充分なのに。
それ以上のものを俺にくれるっていうのか。
重くて潰れると文句をいうルイをもう一度抱きしめた。
今までは、魔物と戦って死にそうになっても、もういいかもと思う瞬間もあった。駄目なら駄目で仕方ないって。
でも、もうそんなことは思わない。
だって、約束を破ったら、ルイはまたあんなふうに泣く。
俺に縋り付いて知らない名前を叫んでいたように。
そんなことは絶対させない。
どれだけ傷だらけになっても、ここへ帰ってくる。
だから、俺を待っててくれよ、ルイ。