くぐい、とどこか舌足らずな口調で呼びかけられ、彼は目を開いた。
開け放たれた窓から吹く生ぬるい風とともに、彼の腕の中の女の長い髪が揺れる。
生き物のように広がった赤い髪は、まるで彼を絡め取ろうとしているかのようにも見えた。
「鵠」
今度ははっきりした音で、名前を呼ばれた。
大きな緑の瞳が彼を見ている。
「シャイリィ」
そう呼びかけると、女は目を細めた。
「違う」
不服そうに歪められた唇に、彼は笑った。
そうだ。今は二人きり。かりそめの名前を呼ぶべきではないのだ。
「―――鶫」
掠れた声で名前を呼ぶと、女は満足そうに唇を舐め、その身を寄せた。
小さく、細い体だ。
とても、世界を怖れさせるような魔女だとは思えない。
そうだ。
今ここにいるのは、『魔女』と呼ばれる存在だ。
人と同じ姿をしているが、人とは違う。
生きる時も、考え方も。
時に人の味方をし、時に戦乱に関わる魔女たちは、この世界では怖れ忌み嫌われる存在でもある。
そんな魔女を愛した。
そんな魔女に愛された。
故に、彼はたくさんのものを失った。
「後悔している?」
問いかける言葉は静かだったが、その目にはわずかに何かを怖れるようなものがあった。
この女でも怖れることがあるのだ――それを知ったのはいつだったか。自尊心も魔女としての誇りも捨て、縋り付いてきたあの時だったのか、それとも初めてであった時だったのか。
どちらにしても、魔女が差し伸べた手を取った時、彼は人としての自分を失った。
名前も、家族も、紡がれていくはずだった未来も。
それでも、後悔しているかと聞かれれば、していないと答えるだろう。
悩んで、苦しんで、結局残ったものは、真実だけだったのだ。
魔女を愛する心と魔女のみに許される名前。
魔女達は彼を『鵠』と呼び、仲間として受け入れ、同じように愛情を注いでくれる。
「後悔したのなら、当に命を捨てている」
人として死にたかったのならば、魔女の手を取る前に、自らの命を終わらせていた。
そうしなかったのは、鶫がいたからだ。
魔女達の嘆きが聞こえたからだ。
「お前が俺を選んでくれたことは、俺にとっては奇跡だった」
人を愛さない魔女。
そう聞いていたから、あの想いは心の底にしまっておくはずだった。
だが、彼女は彼を受け入れた。
人であるはずの彼を。
だから彼は決めている。
命が尽きるその瞬間まで魔女を――彼女を守るためだけに剣を振るおう。
不用意に魔女を傷つけるものから、守るために。
「愛している」
何度も繰り返した言葉に、目の前の『魔女』は笑った。
「私もあなたを愛している」
その言葉だけでよかった。
それ以外、たぶんもう何もいらないのだ。
何もかも失ったくせに、ただひとつ残ったものだけに執着する自分も、やはり『魔女』と同じなのかもしれなかった。