その人は、英雄だった。
この国を救った人。
強く、優しく、いつだってまっすぐに前を向いて立っている。
でも。
夜明け前、誰もいないはずの廃墟で見つけたその人は、その瞳に虚無と野心を宿していた。
その話を告げられた時、私は何かの間違いではないかと思った。
『英雄』の花嫁候補として、私の名前があがっているのだという。
「姉上ではなく、私なのですか?」
思わず問い返してしまったのは、私にはまだ未婚の姉がいたからだ。
婚約者がすでに決められていたり、何か特殊な事情がなければ、まず年が上の者から嫁いでいくのが普通だ。例外もあるが、それは一般家庭でも同じ。
それに相手は、長く続いた戦を勝利に導いた英雄だ。
相手など引く手あまただろうし、貴族といっても末席に位置するこの家に声などかかるはずもない。
いや、これが姉ならば、納得できただろう。
姉は美しい。
鮮やかな緑の瞳も、緩く波打つ金の髪も、その華奢な体も、全てが輝いているようだった。もう少し身分があれば、正妃とまではいかなくとも、後宮にあがることもありえたかもしれないと噂されているのも知っている。
幾つになっても女らしくない骨張った体とは比べものにもならない。
もちろん、それだけ美しいと、何か難があるのではないかと疑われることもあるが、性格も悪くない。控えめでありながら、ただ従順なだけではなく頭もよいのだ。
社交界に出た時から、姉は皆の注目の的だった。隣に断つ私はどんなに着飾っても地味で目立たず、侍女に間違えられたことさえある。
それ以外のことでも、私は何もかも姉に劣っていた。
勉強も淑女がやるべきいろいろなこともダンスも。
そんな私が英雄の奥方候補?
ありえないと思った。
姉のような人こそが相応しいはずなのに。
だが、相手はわざわざ私を指名してきたのだという。
問い質しても、父親にも理由はわからないようだった。
ただ、花嫁候補として呼ばれたのは私だけではない。多くの下級貴族の娘が、屋敷に花嫁見習いとして集められているらしいのだ。
そのことにひっかかりを覚えながらも、この話を受けたのは、一度くらい『英雄』である彼を間近で見たかったからかもしれない。
そう思って参加したわけだが、花嫁候補たちの扱いに、私は屋敷到着早々、驚きを隠せなかった。
屋敷内に宛がわれた部屋こそ客室であったが、連れてきた侍女はすべて帰された。
侍女は必要ないと言われた意味も、すぐにわかる。
ここでは、なるべく何もかも自分ですること。
そういう奇妙なことを言われて、私達は皆戸惑った。
もっとも集められた者達は下級貴族の娘が殆どであったから、一部を除いて裕福な暮らしなどしていたわけではない。
常に誰かに傅かれて生活していたわけでもないから、自らのことは人の手など借りずにすますことも可能だった。
不服そうな者は、いつのまにか屋敷からいなくなっていた。
いったいこれはどういう意味があるのか。
そもそも、彼は花嫁に何を求めているのだろう?
別に金に困っているようにもみえない。使用人もそれなりにいるし、屋敷内に飾られたものも彼の身分を考えれば悪くないものだ。
普通、彼程度の身分の軍人が迎える奥方は、夫の留守中に屋敷を采配する能力があれば、最低限の家事は出来なくとも許される。その屋敷を守る能力でさえも、よほど無能でなければ、優秀な使用人の手を借りそれなりにやっていけるものなのだ。
だが、やれと言われたことは、そういう奥方として必要なものとはかけ離れていた。
例えば、料理。裁縫。庭の手入れ。自身の部屋の掃除もしろと言われた。
こういうとき、私は自分の不器用さがいやになる。
皆、慣れないながらも、うまくやっていた。
最初は嫌がっていた料理も、料理人たちに教わりつつも楽しそうにやっているし、着替えや入浴も、一人でそつなくこなしている。
私はだめだった。
料理をすれば失敗するし、着替えも皆のようにきちんと出来なくて、結局誰かに直してもらうことになる。髪だってうまく結えなくて、垂らしたままということもよくあった。
そもそも、自分はこういうことは苦手だ。
皆と比べてしまって、つい俯いてしまう。
そうやっても、高すぎる背のせいで、ここにいる貴族の令嬢たちを見下ろしてしまうことになるのだけれど。
もう少し真面目に所作などを習えばよかった。礼儀作法の授業をサボらず真面目に受けていればよかった。
そんなことばかり考えてしまう。
ふと見た窓の外には、中庭が見える。
彼の人や、彼の部下たちや、この屋敷に仕える衛兵たちが訓練する場所だ。
表にある庭と違って、余計なものなど何もない、殺風景な砂地である。
今は誰もいないが、天気のいい日は、大抵誰かがそこで訓練していた。
私は、溜息とともに、自身の手を見た。女性にしてはごつごつとして骨張った手には、幾つもマメが潰れた後がある。
もうどのくらい剣を握っていないだろう。
鍛錬もしていないせいで、体も鈍っているような気がする。
そう思うと、深いため息が出た。
私は不器用で料理などはまったく出来ないが、ひとつだけ得意なことがあったのだ。
それは、剣だ。
幼い頃から、まるで剣と共に生まれてきたかのように誰よりも上手くそれを扱うことが出来た。誰かに教わったわけでもなく、最初はたわいない遊びから始まった剣術なのに、気が付けば、同じ年の男の子でさえ打ち負かしていた。
護身程度の剣術を教えてくれた屋敷の護衛も、道場に通い腕を磨いてみて将来は騎士になるのはどうかと言い出したくらいだ。
女でも騎士になったり兵士になるものは多い。
だから私もその方面に進みたかったのだが、父も母も、私が剣を握ることをよしとしなかった。だからだろうか、いつのまにか、剣の鍛錬は隠れてするようになった。見つからないように、こっそりと街の道場にも通ったりした。
先の戦でも、父の反対を押し切って名前を変え、兵士として戦場に立った。
父は今でもそのことを恥じて、隠している。私が屋敷にいなかったときも、周りには病気で伏せっていると言っていたらしい。おかげで、社交界では私は体が弱いということになっているらしい。
まあ、ダンスも録に踊れないから、無駄に誘われずに助かってはいる。それに、姉が一緒にいれば、誰も私に注意を払わなかった。
美しい姉と平凡で地味な妹。似ても似つかないと、陰で言われていたのも知っている。
せめて、淑女らしいことでも出来ればよかったのかもしれないが、そういう自分はなぜだか想像できなかった。
やはりここに来たのは間違いだったのだろうか。
姉ほどではないが、気だてのいい令嬢の姿を見る度に、ひどく惨めな気持ちになった。
彼は律儀に、花嫁候補と会う時間を作り、話をする。
それは食事の時であったり、庭園でのことであったりと、いろいろだった。
最初はぎごちない様子であった彼女たちも徐々にうち解けてきている。
そんな中、私1人だけが、周りに馴染めなかった。
なんといえばいいのか。
温かで穏やかな場所に私は不釣り合いだ。
清潔な服を着ても、何度身体を洗っても、自身に染みついた血の臭いが消えていないような気がする。
もちろん、自分がこの場にそぐわないのは、そういう理由だけではなかった。
屋敷の中での彼の人は、戦場で見たのとは違う穏やかで優しい表情を浮かべている。私は彼はこんな顔も出来るのだと不思議な気持ちになるばかりで、なかなかうまく話せない。
戦場では、もっと張り詰めた目差しと、雰囲気を纏っていた。
そして、陣営近くの廃墟で見てしまったのだ。まるで幽霊のように立ち尽くし、その瞳に虚無と野心を宿したあの人を。
その理由を知りたいと、あの時何故か強く思った。
だが、今の状況ではそれも無理かも知れない。人が多い場所も誰かと話すことも嫌いではないが、淑女らしく振る舞うことは苦手だ。
今だって、花嫁候補たちをねぎらうためのささやかな宴が開かれているが、華やかな令嬢たちと比べれば、私はあまりにも地味だ。
いや、地味というより、居心地が悪い。
「アデライン嬢?」
急にかけられた声に、私ははっと顔を上げる。
いつのまにか、私の前に彼の人がいた。
普段なら誰かが近くにくればすぐに築くはずなのに、まったくわからなかった。
さすがというべきなのか、私自身の感覚が鈍っているのか。
あわてて姿勢を正し、深く頭を下げる。
ついこうやってかしこまってしまうのは、いつも彼を下級兵士として見ていたせいかもしれない。
彼はつねに自分達を指揮し、命令を下すものだった。
私たちのような下っ端には遠い存在。
いや、わかっている。
今の私は彼の人の花嫁候補で、対等ではないが、随分近くにある存在だ。触れれば届く存在だし、話しかければ可能な限り答えてくれる。
それが居心地の悪い気持ちを作り出しているのだとすれば、誰が悪いのでもない。
自分自身の自信のなさが原因だ。
結果、いつもと同じように私は顔を上げることが出来ない。せっかく彼の人が話しかけてくれたというのに。
「何故、いつも下を向いている」
案の定、聞こえてきたのは、少し強張った声だった。それはそうだろう。花嫁候補として来たはずの女性に、こういつも不躾な態度を取られていれば、相手が自分に対して不快感があると考えてもおかしくない。
「申し訳ございません」
けれど、やはり私の口から出るのは、謝る言葉ばかりだ。
「俺の顔をまっすぐに見れない理由があるのか?」
「いえ」
この強い瞳を前にすれば、何か失態をおかしそうで恐ろしかった。もちろん、そんなことは口に出来ない。
「……。お前は俺に何か言うことはないのか?」
何を。
何を言えというのだろう。過去に軍にいたこと? 私が隠している女性にしては固く骨張った右手?
だが、彼は知らないはずだ。
彼の人と私では所属も立場も違う。その他大勢の兵士と将軍では、接点さえない。
「……何もございません」
私は俯いたまま、小さな声でそう告げた。
「そうか。もう、いい」
固い声に顔を上げると、その人はすでに私に背を向けていた。
遠ざかっていく背中が遠く見える。今度こそ、本当に嫌われてしまったのかもしれない。
その予感が当たっていたのか、それ以来、彼の人が私に話しかけることはなかった。
部屋の中の私物をあらかた片付けると、随分すっきりして見えた。
思ったよりも、荷物が増えていたようだ。
結果的に、私は花嫁候補は失格となり、家に帰されることになった。
こんな駄目な人間、確かに奥方としては相応しくないだろう。
けれど、ほっとした部分もあった。英雄の妻など、堅苦しいものには本当はなりたくなかったのだ。
私にただ夫の帰りを待つだけの貞淑な妻など出来るだろうか。
この手が、この体が。
私のあるべき場所はここではないと告げている。
あの血にまみれた戦場がお前の生きる場所だとそう言っているのだ。
帰された私は、家での立場も悪くなった。
外聞も悪いから、風当たりも強い。
だから、そうそうに私は家で出た。半分家出のような強引なものだったが、特に探されることはなかった。
私は髪を切り、名前を変え、平民として再び軍に潜り込んだ。
2年立った頃には、私はそこに居場所を持ち、過去自分が貴族の令嬢であったことなど幻ではなかったかと思うくらい馴染んでいた。
だから、私は油断していたのだ。
ここには、かつての私を知るものはいないと。
だが。
配属されたその隊に視察という名目で彼の人がやってきたとき、全ての日常が壊れてしまった。
呼び出されたとき、嫌な予感がした。
少しは昇進したとはいえ、あくまで私は一介の兵士だ。隊を直接指揮する者ならともかく、さらにその上をいく軍の将になどに直接会える立場ではない。
正体がばれてしまったのかもしれない。
そんな怖れとともに、執務室を訪れた私を、彼の人は、ほんの少し目元に緩ませた顔で迎え入れた。
「……アデライン嬢。久しぶりだ」
思いがけない懐かしい名前に、私は思わず後ずさってしまった。
やはり、なにもかもばれていたらしい。
しかし、すぐにそんな逃げ腰な態度は不敬なことだと気が付いて居住まいを正す。
「お久しぶりです、閣下。私のようなものに、いったい何のご用でしょうか?」
私は、実家からも勘当されたも同然の身だ。貴族としての利用価値などないに等しいし、貴族であったときでさえ、身分は下だった。
今更花嫁候補もないだろうし、何か失態をしでかした覚えもない。
だが、この人がただ懐かしいというだけで、ただの兵士を執務室に招くだろうか?
彼の人の次の言葉を待ちながら、表情を固くしてかしこまっていると、不思議なことに目の前の人はおかしそうに笑った。
そして、常とは違う優しい顔をする。
「もう下を向いてはいないのだな」
私は目を丸くした。
それは遠い昔に言われた言葉で、彼が覚えていたことに驚いたのだ。
「やはり、お前はそうやってまっすぐ前を向いて、剣を振るうほうがいい」
この人は、私が剣を使うことを知っていたのか。
驚く私に、彼の人は苦笑した。
「お前は知らないだろうが、俺は随分前から知っていた。……ユーニス、ようやく本当のお前に会えたな」
「どうしてその名前を?」
ユーニス、というのは以前私が軍に所属していた頃の名前だ。
両親が家名を名乗ることを許さなかったから、偽名を使っていたのだが、この人はそれをも知っていたのか。
「驚くことはない。俺はいつも見ていたのだ」
見ていたという言葉に私はさらに目を見開いて凝視してしまった。
「お前が戦場で剣を振るう姿に、俺はいつのまにか魅了されていた。あれを手に入れるためならば、なんでもしようと思った。なのに、屋敷にきたお前は牙を隠し、言葉を濁し、本当の姿を見せてくれなかった。俺のことが嫌いだったのだろう?」
「それは」
それは違う。
恐かったのだ。この人が望むのは、安らぎを与える人だと思っていたから。
あの虚無を埋める優しい人間だと。
「……私は、美しくはありません。それに、淑女としては失格です。自ら剣を持ち、戦場に立つ女など、『英雄』と呼ばれるあなたには相応しくないと思っていました」
彼は笑った。
「英雄? ただの血に飢えた軍人だ」
自嘲する彼を、私はただ見つめていた。
「それも、今よりももっと上にあがるために、さらに血を流そうとしている、な」
私は思わず、周りを見回す。
そういうことを言っても大丈夫なのだろうか。彼は今や飛ぶ鳥を落とす勢いで、軍だけでなく政治にも関わっている。それを快く思わない人間がいることも知っていた。
「案ずるな。ここを護衛しているのは、俺と志を同じくするものだ」
さらりと恐ろしいことを彼の人は言う。
私が目を白黒させていたせいだろうか。彼の人は私の目を覗き込んだ。
そのあまりの近さに、更に私は焦ってしまう。
「共に来るか?」
「は?」
「俺と共に、上を目指す気はあるか?」
「上?」
間抜けにも問い返した私は、男の目にある野心を見た。
穏やかな表情に隠した牙と共に。
「私でいいのですか?」
彼はいらないのだろうか。
美しい容姿も、淑女としての嗜みも、穏やかな日常も。
「お前でなければ意味がない。この血にまみれた俺と共に歩むことが出来るのは、やはり同じように修羅を見た者だけだろう」
なんて甘美な言葉だろう。
もちろん、甘いだけではない。その言葉は、棘をも含んでいる。
「もし俺がしくじれば、お前も命を失う。成功しても、天の国には行けぬ。それでかまわないのなら、俺の隣に立て」
いまさらだ。
いまさら、こんなに血にまみれた私が天の国になどたどり着けるはずがない。
それに、彼の人の言葉は、私の中にある暗い欲望を呼び覚ました。
彼の人の側で、彼の人と共にあるという、かつて夢見たことが叶うかもしれないという望み。
あるいは、あの廃墟で見た虚無の理由を知りたいという願い。
捨ててしまうことなど、きっと出来ない。
「どうせ、落ちる先は地獄です。それならば、道連れがいた方が私はいい」
その言葉に、彼は笑い、その手を差しだした。
「ならば、共に行こう」
その言葉に、私は迷うことなく、自身の手を重ねた。
例えその先に平穏はなくとも、私はこの手を取ったことを、決して後悔はしないだろう。
この時、ようやく私は『淑女』として優れた姉の幻影を忘れることが出来たのかもしれない。