手を伸ばせば、さりげなく避けられる。
少しでも踏み込んだ会話をすれば、かわされる。
嫌われているわけではないと、わかっているけれど。
決して、彼が自分に心を許すことはないのだと思うと、何故か悲しかった。
男に出会ったのは、空に月が輝く夜だった。
森の中で傷つき倒れた彼を見つけたのだ。
最初は助けるつもりはなかった。見なれない鎧と血にまみれた剣は不吉だったから。
今、国は不安定で、常にどこかで戦が起きている。
男がどこの人間かはわからなかったが、少なくともこの国の者ではない。敵国の者だった場合、助けたことによって余計事に巻き込まれるのは嫌だった。
それなのに。
見捨てようとしたのに、見捨てられなかったのは。
彼がふいに目を開いて私を見たからだ。
虚ろに輝く銀の瞳は、すでに死にかけている人間のものだ。後数刻もしないうちに、その身から魂は引き離され、全ての死者が行くという場所へ向かうのだろう。
そのはずなのに、男の目には生きるということへの執着が見えた。
死ねない、と叫んでいる。こんなところで朽ちるわけにはいかないと訴えている。
だが、どうしようもない。死ぬときには、皆そう思うのだ。嫌だといっても、無理なのだ。
でも、男は諦めない。
のばされた手が最後の力を振り絞って、土を抉る。血まみれの足が震えるようにわずかに動く。
その行為が立ち上がろうとしてのものだとわかったのは、男が唸りながらも上半身を起こそうとしたからだ。
無茶な―――そう思って、思わずかけよってしまった瞬間。
きっと私は男の生への執着心に負けたのだろう。
* *
生と引き換えに、何を差しだすか?
その女は、緑の瞳に月を映したまま、そう問うた。
美しい目をした女だった。
美しい髪を持った女だった。
月明かりに照らされたその姿に目を奪われる。
ああ、この女が欲しい。この女の全てが知りたい。
生きて―――女を手に入れたい。
だが、女の目は冷たい。まるで、死者を見る眼差しだ。
助けようともしない。優しい言葉さえかけない。
動かずただじっと俺の死に逝く様を見る姿は、死神のようでもあった。
やはり、俺は死ぬのだろうか?
頭が重い。足にも力は入らない。
それでも。
俺は手に力を込めた。
せめて、死に逝くならば、女に触れたい。
美しいその赤い髪に。
その冷たい唇に。
せめて、少しだけでも。
俺が足掻くように動いたせいなのか、女の緑の瞳が揺らいだ。
驚きなのか、呆れたのか、わからない。
だが。
「無茶な」
確かに聞こえた言葉とともに、女がかけよってきた。
頬に触れたのは、冷たく細い指先。
そして、その赤い唇を開き囁いたのだ。
『生と引き換えに、あなたは何を私に差しだすか?』と。
* *
私は魔女だ。
魔女は人間を愛さない。
人間も、魔女を受け入れない。
故に、いつの時代も魔女と人間の間には、溝がある。
私は今までそれを不思議とも、不便とも思っていなかった。他の魔女よりは人間に接しているせいで、毛嫌いなどはしていないし、一時の恋の相手として人間を選ぶこともある。
魔女にもいろいろいるように、人間にだって様々な者がいるのだ。
好ましいものも、憎むべき相手も。
だが、拾った男に対する感情はよくわからないものだった。
興味深い存在であるのは確かだ。しかし、何者かもわからない人間を、何故助けてしまったのか。
生きる執念に負けたというのは事実。
あれほどに強い感情を見たのは久しぶりだったから、確かに心は揺さぶられた。
しかし、心の中に疑問もある。
あの男を助けたのは、本当にそれだけなのか、と。
―――わからないなら、確かめるだけだ。
そう考えて、私は男が目覚めるのを待つことにした。
男は、最初の2、3日はほとんど眠ったままだった。薬とわずかな水を口にするときだけ、ぼんやりと目を開くが、意識はかなり混濁しているようで、こちらの質問にも答えることはなかった。
ただ、こんな状態なのに、銀の瞳はいつも生への執着心が見て取れる。
私が何者なのかわかっているのかいないのか。
それとも、あまりにも意識が曖昧なせいで、正常な判断力を失っているのか。
こちらが差しだした薬も水も、躊躇うことなく口にする。
それも全て『生きたい』という気持ちからだったとすれば、なんという執念だろう。
男がどうしてここまで生に執着するのか、理由を知りたい気がした。
やるべきことがある、と推測するのが自然な気がする。
あるいは、彼を待っている人がいて、そこへ帰りたいのか。この男くらいの年ならば、妻や子供、恋人の類がいるだろう。彼らを残しては死ねないと、そう思っているのかもしれない。『人』ならば、ありえることだ。
私よりも年長の魔女たちが、『人』は時々、大切な存在を守るためにとんでもない力を発揮すると言っていた。私も実際に、そういう場面を見たことがある。
さて、男は私の問いに何と答えるだろうか。
私は魔女。魔女は何の見返りもなく人を助けたりはしない。
男は拾った直後より意識がはっきりしていないから、あの時尋ねた問いの答えはもらっていない。
問い以外にも聞きたいことは、たくさんある。
だから、早く目を覚まして欲しい。
私を、見てほしい。
見て、ほしい?
その感情に、私は愕然とした。
何故、そんなことを思うのだろう? 魔女が人間相手に?
まさか私は―――。
その先に思考が行き着く前に、うめき声によって私は現実を引き戻された。
男が目を覚ましたのだ。
今までとは違い、瞳にはしっかりとした感情が見える。
男は、覗き込む私を見つめ、数回瞬きしたあと、わずかに顔を歪ませて口を開いた。
「血の色の、あか。―――奇麗だ」
赤。
ここにその色を持つものは、私の髪しかない。
男の目には、血のように見えるのか。
なにより、何故目を覚まして最初の言葉がそれなのか。
やはり、変な男だ。
だが、同時に私は自分の感情を理解した。
この男に、私は惹かれはじめている―――。
それから、男との奇妙な生活が始まった。
男はあまり口数は多くなく、余計なことも聞かなかった。
ただ、渡す薬湯を飲み、食べやすく栄養のある食事を口にし、わずかばかりではあるが寝台から起き上がり、体を動かすようにしている。
あの時の問いの答えは、まだ聞いていない。
聞いてしまえば、この穏やかな時間が壊れてしまう気がしたのだ。
それでも、男の銀の瞳がこちらに向く度に、あの時見たのと同じ、生への執着を感じる。
生きたいと願う強い感情。
何故それほどまでに生きたいのか?
ふとした時に尋ねた。
男は私を不思議そうに見ている。
「……手にはいらないものが、欲しいと思ったからだ」
「手に入らないもの?」
「そうだ。死にかけた時、それが何かを知った」
わからない。
どういう意味なのだろう。
問い返しても、銀の瞳が射抜くように私を見ているだけで、男はそれ以上何も言わなかった。
男が動けるようになり、ここを去る日が近くなってきたことに私は薄々気が付いている。
本当は、行かせたくなかった。
このまま永遠にここに閉じ込め、自分だけのものにしたかった。
助けたことを理由ににして、留まることを強制するのも可能だろう。薬を使うという手もある。
だが、そんなことをしても無駄だともわかっていた。
魔女の力を使って留めた彼は、もう私が望む男とは違う者になってしまうだろうから。
「答えは決まった?」
だから、私は男に尋ねた。もうこれ以上、うやむやに引き延ばすことはできない。
「なんでもいい。あなたが自分の生と引き換えにしてもいいと思えるものを、差しだしなさい」
宝石か、金か。珍しい未知のものか。
男がどんな身分のものか知らないが、差し出せるものはそのくらいだろうと私は思っていた。
一番可能性があるのは金だ。なくても困らないが、あればそれなりに役に立つ。
けれども。
そのどれも正解ではなかった。それどころか、男は私が想像もしていなかったことを口にする。
「感情は対価になるのか?」
そう言った男の瞳の中に見えたのは狂気だった。
* *
女は魔女だった。
魔女は人間を愛さないという。
魔女は人間を陥れ、厄災を振りまく存在だという。
だが、目の前の女は平凡な顔立ちに華奢な体をしていて、俺が少しでも力を込めて抱きしめれば壊れてしまいそうだった。
触れたい。
だが、触れられない。
彼女が魔女だから?
恐ろしい存在だから?
いや、違う。もし触れて、その手を払われるのが恐かった。
彼女のことを知りたいと願って、それを拒絶されたらと思うと耐えられなかった。
女が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。
全てを捨てても、失っても、俺は女を自分のものにしたかった。
それが出来なかったのは、俺を見る女の目だった。
女が『人』を見る目は冷たい。
俺のことを嫌っているわけではないのだと思う。俺に薬を飲ませる手も、まだ動きにくい体を支えてくれる仕種も、優しい。
それなのに、彼女は無意識に『人』を拒絶する。
心の内に踏み込ませてはもらえない。
何故、魔女は人を愛さないのだろう。
彼女らは元々人から生まれたはずなのに、どうして人を受け入れないのか。
わからない。
わからないからこそ、不安だった。
人であることが理由で、全て否定されたら、俺はおかしくなってしまう。
それほどまでに、女が欲しい。
だから、俺はずっと考えていた。
女が俺を愛することはないだろう。
俺がいなくなれば、そのうち忘れてしまうだろう。
そうさせないためには、どうしたらいい?
女は対価を求めている。
ならば、女にとって忘れられない対価を支払えばいい。
例え、愚かだとののしられても。
体がほぼ元通りになった頃、女は俺に尋ねてきた。
「答えは決まった?」
女の問いは、この生活の終わりを告げるものだ。
俺の体はもう女の治療を必要としない。故にここにこれ以上滞在できないのだと、突きつけられた気がした。
女にとって、俺はその程度の存在なのか。
いなくなってしまうことを悲しンでくれないのか。
それならば。
口にする言葉はきっとひとつしかない。
「感情は対価になるのか?」
女は眉を潜めた。
俺の真意を測りかねているらしい。
「ならないわけでもないけれど。……むしろ、感情や知識は私たち魔女にとっては価値あるもの。でも」
女は探るような目で俺を見ている。
美しい魔女そのものの目。
それが俺だけを見ている今の瞬間に暗い喜びを覚える。
「感情を渡すということは、心の一部を失うこと。……正常ではいられなくなるかもしれない」
「かまわない」
「では、どんな感情を私にくれる? 憎しみ? それとも恐怖心?」
「俺が誰かを愛する心を」
女を愛せないならば、他の誰かの愛などいらない。
女が俺のものにならないならば、他の女など欲しくない。
「愛?」
「そうだ。俺が特定の誰かを愛し、共にありたいと思うその気持ち。それを対価にしたい」
「……正気?」
それは人にとって大切なものではないの?と女は尋ねてくる。
だからこそ、だ。
「ああ。俺にはこれからやらなければならないことがある。それには、この感情は不要だ」
半分は嘘で、半分は本当のことだ。
生きている以上、俺には戻って成し遂げなければならないことがあった。それから逃れられないことも理解している。
そのために、元々感情は押し殺して生きてきた。
誰かに情を覚えれば、足下を掬われるからだ。
だからこそ、俺にとっては、この提案は無謀であるが無意味ではない。
女は考えこんでいる。
俺の言葉を疑っているのかもしれない。
だが、俺には確信があった。
女は受け取るだろう。
女は激しい感情に興味があるようだった。
何故それほどまでに生きたいのか?という問いかけを俺にしたとき、何かに焦がれるような目をした。
それまでの目差しとは違う、渇望するような感情が見えた。
魔女は、感情の起伏が少ないという。それ故に、人の感情に興味を持つものも多いと。誰に聞いたのか忘れたが、そう言われた覚えがある。
これは賭けだ。
女も、他の魔女と同じように人の感情を欲しがるのかどうか。あの時の女の様子を見れば可能性は高いのではないか。
さあ、どうだ。女はこの答えにどう反応を返すのか。
女は俺を見つめていた。その瞳が迷うように揺れているのを、俺もただ黙って見つめかえしている。
それから、しばらく時間が立った時、女の瞳から、迷いが消えた。
「いいわ。その対価、受け取ります」
女はそう言って、微笑んだ。
初めて見る女の笑顔は、とても美しかった。
『愛する心』を譲り渡したはずなのに、俺の心から女に対する執着心は消えなかった。
やはり、この女が欲しい。
欲しくて欲しくて、どうにかなってしまいそうだった。
魔女を欲しても、決して手に入らないのに。
* *
男の仲間と称する人間が森に現れたのは、男から対価をもらって、しばらくしてからだった。
迎えに来たうちの1人は、美しい女性。
彼が生きていたことを喜び泣く姿が奇麗だった。
彼女を見つけた彼もまた、安堵したように微笑んだけれど、そこに女性と同じような『感情』は見て取れなかった。
それを喜ぶ私はどうかしている。
彼の『愛する感情』は私のもの。
それが誰に向けられたものだったとしても、ここにある以上、もう彼は誰のものにもならない。
魔女と人間は相容れない。
相容れないからこそ、魔女はいつだって『人の感情』を欲しがるのだ。
それが愛しい者の心なら、なお嬉しい。
* *
俺が対価を支払ってしばらくして、俺の仲間が森にやってきた。
久しぶりに会った仲間たちは、俺が生きていることを喜んでいるようだった。
中でも、前から俺に好意を示してくれていた女性は、泣きながら俺に抱きついてくる。
それを見て、魔女はどう思うのだろう。
俺にしがみつく彼女の向こうに、女が立っている。
やはり、その瞳に感情はない。
だが、その唇が、宝石のように輝く石に優しく口づけるのを見たとき、体中が喜びにうちふるえた。
あれは、俺の『感情』だ。
俺に見せつけるように、愛おしげに女の唇が触れている。
ああ、きっと、女は俺を忘れない。
あの石がある限り。
俺の願いは叶ったのだ。
* *
これは、執着。
これは、独占欲。
私は―――俺は、すれ違い、拒絶しながら、それでも互いを欲しがっている。