さみしい、と思った時、側にいてくれたのは、その人だけだった。
だから、恋したのだと思う。
彼にあったのは、王宮のはずれに建てられた離宮近くの庭園だった。
離宮は随分昔に建てられたもので、今は誰も住んでいない。かなり老朽化が進んでいて、ちょっと壁に触れただけで、ぼろぼろと崩れてしまう。もちろん立入禁止だ。
本来、こういう危険な建物は早く壊してしまわなければならないのだろうけれど、ちょっとした曰くがあって、現在はほったらかし状態。
なんだったっけ。ここは何代か前の王様に顧みられなかった王妃様が閉じ込められた場所で、王や寵姫を恨んだ彼女の幽霊が今だに出るとか言われているんだったかな。
でも、いつ来てもここはただの廃墟で、お化けどころか、人だって見たことない。
王宮の敷地っていっても端っこだし、ここまでの道は草に埋もれている。訪れる人などいないのだ。
私だって、ここを見つけたのは偶然。
ちょっと嫌なことがあって、泣きながらうろうろしていたら迷子になってしまって、ここにたどり着いたのだ。
泣くにはちょうどよかった。
身の丈ほどもある雑草が生い茂っているし、薄暗いし、人の気配はしないし。足下に辛うじて石造りの何かがあったけれど、恐い噂のある離宮だって知らなかったから、安心して泣けた。
だからなのか、すぐにその場所は何かあって泣きたくなった時の避難場所になったんだ。
そして、ある日、私と同じようにここに馴染めないでいた彼が逃げ込んできたのだ。
その時の彼は、あちこち痣だらけだった。
一般兵士が訓練時に身につける動きやすい服だったから、王宮の中にある軍部所属だって、すぐにわかったんだけれど。
でも、ものすごく疲れた様子だ。
腫れ上がった頬を押さえて溜息をつきながら、とぼとぼという感じでここへ来た彼は、私を見てびっくりしたように立ち止まった。
私も固まった。
結構長い間、二人して見つめあっていたんだと思う。
何回も離宮へは来たけれど、一度だって人に会ったことはなかった。おそらく、彼もそうだったんじゃないかと思う。初めて来るには、慣れた様子だったしね。
「あ、あの……」
先に声を欠けたのは彼の方だった。
「すみません!」
謝られてしまって、私は思わず目を見開いてしまった。
「その、見るつもりはなくて……」
しどろもどろになりながら、わずかに視線を逸らした彼の言っている意味が一瞬わからなかったけれど、すぐに自分が泣いていたことを思い出した。
きっと目は真っ赤で腫れてて、化粧も禿げてしまっているに違いない。
「いえ、あの、これはですね、大丈夫なんです。……あなたこそ、大丈夫ですか?」
私は泣いたから顔が腫れぼったくなっているだけだけれど、彼は怪我をしていた。だから私は普通にそう尋ねたわけなんだけど。
「俺、鈍いから。訓練の後はいつもこうなんです」
そう言って苦笑した彼は、頬をさすりながら困ったように笑った。
その後、私は彼から事情を聞いた。
こんな場所で出会ったせいで、なんとなく互いに親近感が湧いたからかもしれない。こっそりと泣きにきた私と、誰にも見つからないように逃げてきた彼と。
彼は、やはり私が思った通り、下級兵士だった。
この国の若者は一定期間、兵士として働かなければならない。
職業軍人もいるけれど、ほとんどの一般兵はそうらしい。
彼もその一人だった。
剣よりも鍬、鎧よりも野菜の方が似合いそうな彼は、訓練でいつも怒られてばかりだという。
「訓練が終わったあと、すぐに宿舎に帰ってもいいんですが、皆俺を笑うから。ほら、わかりやすいくらい傷だらけでしょう」
すごく弱いんですと、情けなさそうに言うから、私は悲しくなってしまった。
もし戦が起こってしまったら、彼のような人はすぐに死んでしまうかもしれないと思ったから。
「そんな顔しないでください。今は戦などないですから」
それはわかっている。でも、兵士である以上、魔物退治とか治安維持とか、いろいろ戦わないといけない場面はあるのだ。昔より平和になったというけれど、偶に王宮に襲撃をかける賊もいる。
絶対に大丈夫とは言えない。
「それに、あんまり役立たずなんで、大した仕事は回ってきませんし。大体、使いっ走りぱかりです」
それもどうかと思うけれど。
「それより、あなたはその……」
困ったように顔を顰めて、彼は私を見ている。
なんだろうと見つめ返すと、彼はますます困った顔をした。
「その、あなたは渡り人ですよね。どうして、こんなところに?」
ああ、やっぱり分かるものなんだな。
見た目はそれほど変わらないと思うんだけれど、来ている服が違うからかなあ。
貴族達とも、王宮勤めの女性とも違っているし。煌びやかではないけれど、実用的、でも、見るからに高そうな素材で作られた服。色の違いはあっても、皆支給された服を着ているからね、『渡り人』は。
わからない方がおかしい。
でも、彼は私が渡り人だってわかっているはずなのに、態度が変わらなかった。
だからだろうか。
私は素直に自分の状況を言う気になったのかもしれない。
「あなたと同じです。私、渡り人のくせに何にも出来なくて。そのことでいろいろ言われたから」
だから、泣いていた。
悔しくて、悲しくて。誰も庇ってくれないから……さみしくて。
彼は、なんとなくわかりますと言って、頭を撫でてくれた。
『渡り人』という存在が、この世界には存在する。
『渡り人』は『界渡り』によってこの世界へ落ちてきた人間。『界』とは文字通り世界を表していて、『渡り人』とはすなわち、他の世界からこの世界へ渡ってきた人を表すのだ。
私もその1人。
ある日、突然この世界にやってきて、『渡り人』として、王宮に保護された。
前の世界のことは、あんまり覚えていない。
曖昧で、夢みたいで、断片的。
これは、界を渡ることで起こる現象で、個人差があるという。人によってははっきり記憶を持っていたり、全ての記憶を失っていたりと、様々だ。
でも、『渡り人』を管理する人たちは、記憶がない方がこの世界に馴染みやすいのだという。それはわかる気がする。私みたいに、前の世界で親しかった人や家族のことを曖昧にしか思い出せなければ、あちらに帰りたいと思う気持ちも薄い。
帰る確実な方法がない今の状況で、あまりにも思慕の念が強いと、心が壊れてしまうことだってあるらしいのだ。
言葉だって最初は通じないから、勉強しないと駄目だし。
そして、不思議なことにほとんどの『渡り人』にはこの世界にない『魔法』みたいなものが使える。
何故『渡り人』だけが魔法が使えるのかはまだ解明されていないけれど、これも界を渡ってきた副作用なのではないかって言われている。
ちなみにこれにも個人差があって、魔力も千差万別。
大抵の『渡り人』はなんらかの力を持っているはずなのだけれど、稀に魔力がほとんどないものもいる。数十人に1人ってくらいの割合。
悲しいかな、その数十人に1人ってのが、私だ。
今この王宮には『渡り人』が何人かいるけれど、役に立っていないのは私だけ。
だからいつまでたっても独り立ちできないし、怒られてばかりいる。
このままだと、いずれ私は王宮から出されるかもしれない。彼らが欲しいのは役に立つ『渡り人』なのだ。いつまでも何も出来ない人間に金などかけてくれない。
彼らだって、善意で『渡り人』を養っているわけではないのだ。
これまでも、役に立たない渡り人が追い出されるのを何度も見ている。
生活能力のない彼らが王宮を出た後どうなるのか。
恐くて誰にも聞けないけれど、無事に生きていけるかどうかなんてわからない。
『渡り人』は魔法を使えること以外、普通の人間と変わらないのだ。しかも、こちらの生活習慣や理はほとんど知らない。私だってそう。今はこうやって、王宮の保護があるから、衣食住に困らず生活していける。
それがなくなったら、どうなるんだろう、本当に。
知らずに溜息をついたら、また頭を撫でられた。
それから、私たちはよくこの庭園で会うようになった。
お互いに約束したわけでもなく、ただなんとなくな始まり。
会えないことも多かったけれど、会えば二人でいろんな話をした。彼の故郷のこと、好きなこと、悲しいこと。
いっぱいいっぱい話をして。
いつのまにか、私は彼に恋をしていた。
その日の私も、庭園で落ち込んでいた。
あいかわらず私には何の魔力も現れない。私より後に来た人は皆なんらかの力を発揮して、もう独り立ちした人だっている。役立たずと言われ、こんなことなら近い内にここを出てもらうようになるだろうと告げられてしまった。
もちろん、何の保証もない。今まで掛かった費用を返せと言われないだけましなのかもしれない。
でも、悲しいのはそれだけではないのだ。
人づてに、兵士のうちの何人かが任期を終えて故郷に帰るのだと聞かされたから。その中には、いつもここで会うあの人もいて、私は結構へこんだ。
だって、随分前から決まっていたことなのに、一言もなかったんだもの。
別に教えてほしいっていうわけじゃないけれど、お別れくらいいいたかったのに。それとも、そういうことを伝えるほどの相手じゃないってことなのかな。
ここ以外では会わないんだから、ただの知り合い程度に思われてる可能性もあるけれど、やっぱり寂しい。『渡り人』だから、一線おかれていたなんて思いたくない。
彼と一緒に過ごした時間は、すごく楽しかったし優しい気持ちになれたから。
でも、これからは、ひとりぼっちなんだろうか。
あー、やだ。
なんだか、泣けてきた。
「大丈夫?」
ふいに聞こえてきた声に、私は顔をあげる。
そこにいたのは、今まさに考えていた人。
「また、泣いてたんだね」
悲しそうに目を伏せて、差し伸べられた手はごつごつしていて、マメだらけだった。
私の頭をいつものようにゆっくりと撫でた後、彼は私と目線を会わせるようにしゃがみこんだ。
「どうしてここにいるの? 今の時間は訓練中だよね」
問いかける私に、彼は照れくさそうに笑った。
「話したいことがあって、会いに来たんだ。さっき部屋を訪ねたらいなかったから、ここだと思って」
「会いに来た?」
それも、わざわざ王宮内の私の部屋まで訪ねたって、どういうことだろう。
「うん、任期が切れて故郷に帰るんだけど、一緒に行かないかって思って」
いきなりの言葉に、私は驚いた。
「でも……」
そんなこと可能なんだろうか。
役立たずでも、一応私は『渡り人』だ。勝手に出ていっていいわけがない。
確かに近い内にって話はあったけれど。行く場所が出来るのは嬉しいけれど。
「手続きのこととか、一応いろいろ聞いてみたんだ。身元引受人がいて、どこへ行ったかわかっているなら好きにしていいんだってさ。保証人がいるなら、戸籍も申請できるみたいだ」
「どうして、そこまでしてくれるの?」
ただここで会って話をしただけの仲なのに。
「そ、それは、その」
何故か急に彼はそわそわと視線を彷徨わせはじめた。なんだろうとじっと見つめていると、さらに落ち着きがなくなった。
「……きだから」
「え?」
「いや、だから! 君のことが好きだから、一緒にいてほしいんだ!」
私は、かなりおかしな顔をしていたんだと思う。
口もぽかんと開けた状態だし、目だってびっくりしすぎて見開いたままだし。
「もちろん、君がよければだけど。俺は見た目もいまいちだし、強くもないし、野菜しかつくれない男だけど」
そんなことないのに。
強くなくたって、こんなに優しい手をしているのに。
「あなたこそ、本当に私でいいの? 渡り人っていっても何もできないし」
「それこそ、関係ないよ。俺が好きになったのは、ここで泣いてた君だ。それに、いつだって俺のこと馬鹿にせずに、話を聞いてくれた」
すごく嬉しかったと、彼は笑う。
「私だって、嬉しかったよ」
そう言ったとたん、また涙が出てきた。でもこれはきっと嬉しい涙だ。
こんなことを言われたのは、この世界に来て初めてだったから。
だから、私は、今まで誰にも言ったことのない言葉を口にした。
幸せになるために。
「私もあなたが好きです」
その言葉に彼は真っ赤になって、「嬉しい」と小さく呟いた。
もう、きっと私はさみしいと思うことはないだろう。