「アルフォンスさまなんか、だいきらいー! もう口なんか聞いてあげないー!」
そう叫んだ小さな塊は、ものすごい勢いで廊下をかけていった。
「逃げられましたね」
困ったように笑う傍らの男性は、まるで孫でも見ているような様子で塊が消えてしまった廊下の先を見つめている。
「よいのですか?」
追いかけなくて、という思いを言外に忍ばせて、エスターは男に問いかける。
外には出られないとはいえ、彼らがいる離宮はそれなりに広い。隠れる場所はたくさんあるのだ。
もちろん、それとて根気よく探しまわれば見つけてしまえるほどのものだが。
「かまいませんよ。今日の予定は終わりましたから」
なるほどとエスターは思う。
アルフォンスは、先ほどの塊―――カティーナの教育係だ。恐らく、さきほどまで彼女に勉強を教えていたのだろう。
真面目で優しいアルフォンスはカティーナのお気に入りだ。
今まで教師達の言うことなど聞かなかった彼女が、大人しく椅子に坐っているのがその証拠。
そして、勉強が終わった後、アルフォンスと二人でお茶を飲むのをとても楽しみにしているのだ。
だが、今日はその予定が狂った。
狂わせたのはエスターで、たまたま離宮に用事があって訪れていた彼女に、アルフォンスが声をかけ、あろうことか『一緒にお茶を飲みませんか』と誘ったのだ。
せっかく二人きりでのお茶の時間だったのに、余計な邪魔が入ったうえに、アルフォンスがエスターに向かって笑顔で話しかけるものだから、カティーナの機嫌はとても悪くなった。
「アルフォンス殿は、いつでもそうですね。彼女は、あなたにもっとかまってほしいのだと思いますよ」
「ですが。かまって懐かれて、それでどうなるというのでしょう。私はあくまで彼女の教師兼監視役です」
冷たく言い放つが、男の悲しげな目差しに、エスターは溜息をついた。
「あなたが真面目なのはわかっていますが。もう少し女心というのを理解しないと」
「陛下ならともかく、私がカティーナ様のお心を理解しても仕方ないでしょう」
確かに、カティーナはまだ幼い。
だが、まだ10歳にもならないといえ、彼女とて気持ちは淑女なのだ。
仄かに憧れているアルフォンスに大人として、淑女として扱って欲しいと願っていてもおかしくない。それなのに、自分は子供扱いで、大人の女性―――この場合エスターだが―――にばかり愛想を振りまかれれば、傷つくのも当たり前だ。
もちろん、アルフォンスの気持ちもわかる。
カティーナは、名目上は国王陛下の側室。
正確にいえば、側室と言う名前の人質として、小国からやってきた王女だ。あまりにも幼い故に、陛下は随分と側室にすることを渋ったというが、身分からいえば、アルフォンスよりも上。
彼の陛下への忠誠心がどれほどのものかをエスターは知っているから、例え名目上の側室だったとしても、一線を引いて接するのも当然といえば当然だった。
「カティーナ様は、私がただの教育係だと信じているから、無邪気に笑っておられるのです」
彼の役目は教育係。だが、それも名目上のものだ。彼の真実の役目は王女の監視。
彼女の故国が裏切れば、彼女を殺すのも彼の役目。そのためにつけられた存在なのだ。
「私は最初からカティーナ様を裏切っているのですよ」
幼い故に、彼女は自分の置かれた状況を半分しか理解できていない。
自分はただ純粋に陛下の側室というものになりにきたのだと思っている。
否、そう誤解するように仕向けているのは、他ならぬアルフォンスだ。
教える知識と、知らせない事実。それを巧みに使い分け、王女を無知にさせている。
「全てがわかってしまえばいいと思う時があります。私がしていることを知って、怒ってくれればいいと。私のことなど、一生許さないでいればいいと」
それが彼の贖罪なのだろうか。
「……私は、あなたを信じていますよ。あなたは、例え陛下の命令だったとしても、カティーナ姫を切リ捨てることはできない」
口では何を言っても、きっとこの優しい青年は、それを出来ない。
いや、自分がさせない。
「そうならないために、私や陛下は頑張っているんですからね」
任せておいてください、と笑いかけると、アルフォンスは眩しそうに目を細めた。
「私だってカティーナ姫のこと、嫌いじゃないんです。本当に小さい頃から知っているから、妹のように思っていますし。せめて彼女が大人になる頃には、人質などという悲しい立場ではなくなってほしい」
離宮に来た時は、本当に小さくて、周りの人間に怯えていた。
知らない大人ばかりで、どれだけ恐かったのだろうと思う。
「まったく。あなたには叶いません。どうして、そんなに簡単に私を信じるのですか」
「私の方が、あなたには叶わないと思っているからですよ。カティーナ姫に笑顔を取り戻させたのは、陛下や私ではなく、あなただったんですから」
癇癪を起こす小さな子供の扱いに、皆困っていた。
そんな中、たった1人手を差し伸べたのは、アルフォンスだけだったのだから。
「彼女がいつか真実を知って、この国を許さないというのなら、その罪はあなただけではなく、陛下や私にもあります。一緒に怒られましょう」
そう言って、エスターはアルフォンスに微笑みかけた。
「本当に、あなたには叶わない」
いつか、遠くない未来、起こるはずのことに、怯えていた。
カティーナは馬鹿ではない。例え、事実を隠していたとしても、いずれ気づいてしまうだろう。
自分の立場。自分がここにいる意味。
そして、アルフォンスが意図的に隠していたのだと、理解するはずだ。
その時、カティーナに糾弾されるのが、本当は恐かった。逃げ出してしまいたかった。
でも。
罪は消えないのだとしても。自分は1人ではない。
「大丈夫ですよ。きっと大丈夫」
根拠などないはずなのに、エスターのその言葉にいつも自分は救われている。