振り返った時、前にもこんなことがあった気がした。
濃い緑。
地面に陰影を作る木の影。
うるさいほどの蝉の声。
そして―――こちらを見つめる貴方の姿。
駅から家までの長い道のりは埃っぽく、歩きにくい。
駅前広場だけは辛うじて舗装されているが、少し歩くとすぐに土の道へと変わってしまうのだ。
こんなことならば、もっと歩きやすい靴を履いてくればよかった。
そんなことを考えながら、私は乾いた道を歩いている。
駅前といっても、何かがあるわけではない。
無人駅になって久しい駅舎はくたびれているし、数年前まではあったはずの自動販売機もすでになかった。
帰って来るたびに、人が減り、当たり前にあった家が無人になり朽ちていく。
そんな光景を見ながら、私は普段よりもゆっくりと歩いていた。
変わらない景色、変わっていく景色。
そのどちらも目に焼き付けておきたかった。
なぜなら、私がここに来るのはこれで最後になるかもしれないから。
大きいだけが取り柄の古ぼけた屋敷の裏口にに、鍵はかかっていなかった。
いつものことだし、昔から一度だって鍵などかかっていたことはないのだけれど、最近は何かと物騒だ。一応注意した方がいいのかなと思いながら、裏口の中をのぞき込む。
埃っぽい土間は薄暗く、人の気配はしない。
帰るということは言っていたから、誰もいないはずはないんだけれど。
まあ、いないならいないで、勝手に入ったからといって誰も怒ったりはしない。
「ただいまー」
一応そう声をかけると、奥の方から「はーい」というどこか気の抜けた返事が返ってくる。
やはり留守ではなかったようだ。
「入るよ―」
奥に聞こえるように声を張り上げてから、私は荷物とともに外とは違って居心地がよさそうな台所脇の部屋に上がり込んだ。
現在ここに住んでいる人間の趣味なのか、ここだけが妙に現代的だ。
大きなテレビも置かれた座椅子も、妙に新しいパソコンも、すり切れた畳の上で違和感を醸し出していた。
勝手に荷物を置き、遠慮無く古ぼけた卓袱台の前に座ってテレビでもつけようかとリモコンを手にしたところで、この屋敷の住人―――さきほど間抜けな返事を返してきた男が部屋に入ってくる。
「お帰り。思ったよりも早かったね」
にこにこと笑う彼は、去年よりもほんの少し痩せたような気がする。前はもっとがっしりとしていた気がするし、皺もちょっとだけ増えたのだろうか。
そういえば、彼ももう35歳になるのだ。
いまどきの35歳ならば、もっと若々しい気がするけれど、我が従兄殿は、どこかくたびれて見えた。
「ここに来るまでに、だれにも会わなかった」
そう言うと、従兄は困ったように笑った。
「ほとんどの家の人が、出て行ったからね。残っているのは年寄りが多いから」
「駅前も、すごく寂れてて驚いちゃった」
「乗る人も少ないからなあ。みんな車使ってる」
「でも、ネットは繋がるの?」
「そういうところだけは、なんとか」
本家を心配する親戚達が、あれこれと世話を焼いてくれるらしい。この村を出て、成功した親戚は多い。私の両親はごく普通の人だったから、あまり実感はないけど、いとこたちの中には、随分豪勢な生活をしている人もいる。
「どんな手を回したのかは、聞かないことにする」
「俺も聞かなかった」
なんか恐くてな、なんて笑う姿は、いつまでも本家の優しいおにいちゃんという感じで、変わらない。
「でも、やっぱり買い物とかは不便でしょ」
「家に籠もってても仕方ないしね。ドライブがてら、出かけてるから困らない。そうそう、山超えたところの県道にコンビニが出来たんだよ。後で行ってみる?」
このあたりはすっかり寂れているが、山を越えると、まるで別世界のように活気がある。
人もたくさん住んでいるし。別世界のようだと言ったのは、従妹の喜代ちゃんだったかな。
まるですり鉢の底にあるようなこの地区は、本当になにもかもから取り残されているという感じで、喜代ちゃんに言わせれば、ここを鉄道が通っているのも奇跡みたいなものだそうだ。
「でも、山道は、冬になると通れなくなるよね」
さすがに、雪が降ると、車で山を越えるには難しい。
私程度の運転技術では、到底無理だ。
残された手段は、日に数本だけある鉄道と、ご先祖様が利用していたお化けが出そうなトンネルがある細い道だけ。
世間では絶好の肝試しスポットだったんだよね。
今でも、時々、街の方から肝試しに来る人がいて、何か感じたという噂をばらまいているけれど、実はこの村の誰も、そこでお化けなんて見たことはない。
「まあ、いろいろと慣れてますから」
おどけたようにそう言って、彼はため息をつく。
「でも、正直、君がこの時期に戻ってくるなんて思ってなかったよ。県外の高校行くってここを出てから、夏休みにも正月にも帰ってこなかったからさ」
みんな心配してたよと笑ってくれたけれど、私は思わず俯いてしまった。
どんなに遠くへ出ていっていても、お盆と正月の時期だけはこの古ぼけた屋敷に親族一同大集合する。
両親が亡くなるまで、屋敷から少し離れたところに住んでいた私は、家よりもここにいる方が多かった。他のいとこたちもそうだ。
みんなで庭や屋敷を駆けまわって、大騒ぎしては怒られていた気がする。
目の前の従兄は、私よりも随分年上だったはずなのに、何故か休みになると子供達と混じって遊んでいて、周りに呆れられていたはずだ。
懐かしい。
「今回も、もう夏休みが終わろうかって頃だし。いとこたちも、みんなもう帰ったし」
従兄のおにいちゃん、という顔をして、彼は私をのぞき込む。
「……何か、あったの?」
「別に。ただ、帰りたくなっただけ。それに夏休みや正月はバイトしてたんだよ」
特に意味なんてなかった。
私は大学生だし、卒業して就職してしまえば、ここからもっと足が遠のく気がしたのだ。
その前に、会っておきたかった―――目の前のこの人に。
「何もないなら、いいけど。君も年頃だしさ。おじさんたちにも頼まれてるから、何かあったら俺を頼れよ」
父と母が続けて亡くなってから、私は一時期この家で生活していた。
その頃はまだおばあちゃんやおじさんたちもいて賑やかだったんだよね。今でこそおにいちゃんっぽい口調でいるけれど、あの頃のおにいちゃんはもっとチャラチャラしていた。
私のことなんて、子供だって思っていたんだろうなっていうくらい、いろんな意味で相手にされてなかった。
「ああ、そういえば、実家の方、隣に住む直ばーちゃんが時々掃除とかしてくれてたけど、やっぱり人が住まないと駄目だな」
両親の話が出たせいか、彼がふいにそんなことを言い出す。
「結構痛んでる?」
元々、古い家だった。この屋敷ほどではないけれど、それなりの大きさはある。
「住めないほどじゃないと思うけど」
うーん、なんて唸りながら言うから、やはり老朽化してるんだろうなと想像する。
「思い出があるから壊したくはないけど、あそこに一人で住むのは大変そう」
掃除とか苦手だし。
古いなりに、結構すきま風があるから寒いし。
トイレは外だし! 親の残してくれたお金と、従兄の援助がなければ生活できない身としては、リフォームだの立て替えなど、絶対に無理だ。
「だったら、大学卒業したら、あっちで就職?」
「お世話になった分、返さないといけないからね」
「いいって言ってるのに」
そういうわけにもいかない。
「でも、あっちで就職したら、寂しくなるな。そのうち結婚でもしたら、俺のことなんて忘れちまうよなあ」
「だったら、嫁にもらってくれる?」
冗談めかしていったのに、従兄の目はまんまるになった。
「え、なんで?」
そして、予想通りの返事を返してくれた。
確かに15も下の従妹にそんなことを言われたら、驚くでしょうとも。
「だって、お嫁さんになるって約束してたでしょ。覚えてない?」
「いや、覚えてるけど。それって君が小さい頃の話だろう?」
そうそう。
私が10歳で、従兄が25歳の時です。
もちろん、あの時の私は本気ではなかったし、従兄は小さな女の子の言うことと聞き流していた。
「それに、あれって、俺のお嫁さんになりたいわけじゃなくて、この家に住みたかったってだけだろう?」
確かに私はこの家が好きだった。
大きくて、隠れるところがあって、見たこともない不思議なものがたくさんあった。だから、私はこの家に住みたいって叔父さんにいったら、嫁にくればいいって話になっただけで。
もちろん、それだっておじさんの冗談だった。
でもね。
初恋の相手が、貴方だったって、知らなかったでしょ。
年上の優しい従兄のことが、いつのまにか好きになってたって、知らなかったよね。
「まあ、誰かさんは次から次へと女をとっかえひっかえしてたし」
「あー、うん。そんな次期もあったな」
「結婚するって話が出たから、私、この村から出たのに」
「え、そうなの?」
そうなんだよ。
どうせ、年の差もあるし、片思いだってわかっていたから、思い切って外に出ようと思った。おじさんたちは心配したけど、説得したのは、淡い初恋を終わらせようと思ったから。
まあ、無理だったけど。
「なんで結婚しなかったのよ、馬鹿」
綺麗な人だった。
大人で、優しくて、笑顔がまぶしかった。
いっそ、結婚してくれていれば、こうやって引きづらなくてすんだのに。
「いろいろあったの。いろいろあって、駄目になった」
大人の顔で、従兄は私を見る。
小さな頃から知っている従兄ではなく、どこか一線を引いたような顔。
「……ごめんな」
そして、そんなふうに謝る。
「謝らないでよ」
今のは私が悪かったんだから。
「……俺には、謝る理由があるんだよ」
意味がわからない。
でも、彼はそれ以上は何も言わなかった。
もうこの話は終わりにしたいのかもしれない。やっぱり結婚が駄目になるなんて、辛いことだろうし。
「ねえ、これからどうするの? ずっとここにいるの?」
話を変えてしまおうと、ぐるりと部屋の中を見回しながら、私は聞いてみた。
男性の一人暮らしにしては、綺麗な方だと思う。さっき、ちらっと見た台所も、ちゃんと片付いていた。
でも、一人きりで暮らすには、この家は大きすぎると思う。
「まあ、これでも本家の当主だから」
残るよ、と笑う。
「そう、だよね」
「君は大学生か。俺が大学生だった頃は、遊びすぎて、それはもう親父にどれだけ怒られたことか」
知っている。
留年しそうだとか言って、大騒ぎになったんだっけ。
結局、単位が足りなくて一年余分に大学に行ったものだから、その後ずっと叔父さんはお酒に酔うと、うちの息子は情けないを繰り返していた。
勉強が出来なくて留年ならわかるが、遊びすぎて単位を落とすとは何事だってね。
その叔父さんももういない。4年前、突然亡くなってしまった。だから、彼はここへ戻ってきて、本家を継いだのだ。
この広い屋敷の中、親戚が集まる意外の時は静かで寂しいだろうに。
「……コンビニ行ってみる?」
なんともいたたまれない気持ちになって、私はそう言った。
「そうだな」
彼もそうだったのか、苦笑とともに立ち上がり、車のキーを手にした。
コンビニで買い物して、直ばあちゃんにお土産を渡しにいって、自分の実家を確かめて。
私は、そろそろ帰る時間なのだと気がついた。
駅まで送っていくと言われたけれど、歩いていくと答えると、物好きだと笑われた。
なんとなく、自分の足で歩きたかったのだ。
「じゃあね。今日はいろいろありがとう」
私が頭を下げると、玄関先まで見送りに出てきた従兄は、こちらこそといって笑った。
「たまにはメールくらいくれよ」
戯けたように言うから、うん、と答えた。
でも、また来るとは言えない。
彼も、またおいで、とは言わない。
私はもう一度深く頭を下げて、彼に背を向けて歩きだそうとした。
その時、聞こえてきたのだ。
「あっちで、ちゃんと幸せになれよ」
優しい、優しい声だった。
懐かしいと、思う。前にもこの言葉を聞いたことがあると。
思わず、振り返ったら、そこにいたのは笑った彼だった。
屋敷が埋もれるほどの緑の色。
くっきりと影を作る木々の影。
そして―――こちらを見つめる従兄の頼りない姿。
私がこの家を出て行った時のことだ。県外の高校に行くことを選び、旅だった日のことだ。
まるで取り残された子供のように、私を見ていたのは、確かに彼だった。
あの時、あなたは笑っていただろうか。
―――違う。
あれは涙だった。
笑いながら、でも目は潤んでいた。
今だって、そこで笑っているくせに、浮かんでいるのは涙じゃないか。
「なによ、本当は寂しいんじゃないの」
思わず、呟いてしまった。
そして、呟いたことによって、それは現実のこととして、私の中に入ってきた。
あんな目をされたら、放っておけないじゃないの。
あの時は、別れても彼にはもう心許せる人がいるとわかっていたから、ふっきれたけど、今は違う。
私が行ってしまったら、一人ぼっちになる。
そう思ったとたん、私は駆けだしていた。
そのまま、勢いをつけて彼に飛びつく。
「え、何。なんで戻ってくるわけ」
「帰るのはやめ。今日はここに泊まる」
「え、ええ!?」
驚く彼の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「私、やっぱりあなたのお嫁さんになるべく、頑張ることにする!」
宣言して見上げると、そこには途方にくれた従兄の顔があった。
「お嫁さんじゃなくて、妹でもいいけど。一人でここは寂しいよ。だから、ここを私の家にして」
「なんだよ、それ」
呆れたような困ったような顔をしているくせに、いつのまにか、私の背中に回った腕はほどかれない。
「君は本当にばか、だなあ」
抱きしめてくれた手は震えていた。
「ここに残ったら、もう一生逃げられなくなるよ」
「いいよ、一緒に生きていこう」
家族でも、夫婦でも、兄妹でも、なんだっていい。
一人じゃなくて、二人で生きていこうよ。
「参ったなあ。君はいつでも直球勝負だね。だから、困るんだけど」
「わかりやすくて、いいでしょ。それに夢だったんだから」
「この家に住むこと?」
そう。
「でも、ちゃんと大学は出なさい。―――俺はここで君を待っているから」
「本当に?」
待っていてくれる?
不安そうに尋ねる私に、彼は力強く頷いてくれた。
約束だからね。
子供の時したように、指切りげんまんした私達は、その大きな屋敷で、ずっと一緒に暮らすことを誓い合った。
瞬間、かつての小さな私と大人の彼の姿が頭をよぎる。
果たされなかった約束。
他愛ない約束。
その全てがまるで昨日のことのように思い出される。
でも、今日の約束はちゃんと叶う。
叶うように頑張ろう。
小さな私の、小さな願いを忘れなくてよかったと、私は思った。