『それ』を通して見る世界は曖昧だ。
柔らかく、薄暗く、そしてぼやけている。
ふわり、ふわり、とゆるく上下しながら飛ぶ『それ』は蝶。
淡く光を放ち、羽も触覚もなにもかもが白い。
私の意識は、自らが生み出した『それ』と同化し混じり合い、遠く離れた場所に行き、いろいろな物を視ることが出来る。
何故こんなことが可能なのか。
そう聞かれても、答えられない。
気がつけば、こうやって私は『それ』に自分の意識をのせ、いろんなものを視ることが出来たのだ。
母は気味悪がったが、父はすごいねと褒めてくれた。
ただ誰にも言ってはいけないと。
知られると恐ろしいことになるのだといつも口にしていたはずだ。
知られなければ、私はまだ普通の家で普通に暮らしていただろうか。
両親が死んだ時、うっかり口にしてしまわなければ、当たり前に日の当たる場所で生きていただろうか。
だけど、そうなれば、あの人とは会えなかった。
一生その存在を知ることもなく、闇に溺れることもなかっただろう。
ふわり、ふわりと、薄暗い部屋の中を飛び回りながら、私はそんなことを考える。
部屋の中には、私を闇へと引きずり込んだ相手がいて、その視線をずっと感じていたのだ。
黒く深淵をうつす存在。
『それ』を通してみても、闇そのものにしか見えないそれは、人だ。
けれど、いつも『それ』から見るたびに、本当に『人』なのかとも思う。
私が、こうやって人からはずれた存在であるように。
あの人も、きっと人とは違う存在なのだ。
ふわふわと、部屋の中を飛び回っていると、開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。
流されるように揺れていると、部屋の隅にいたあの人が動いた。
あの人の手が、『それ』に触れる。
優しくも丁寧でもない仕草で、手の中に囚われた。
あ、と思った時にはくしゃりとつぶされる。とたん、意識が体に戻った。
「起きたか?」
そう言ったあの人の手にまとわりつくのは、私の残り香。
それをぼんやりと眺めながら、文句を言うために体を起こす。
「ひどい」
気持ちよく飛んでいたのにと文句を言うと、あの人は笑う。
「ならば、勝手にどこかへ飛んでいこうとするな」
「ただ、風に煽られただけだし、外に出るつもりなんてなかった! それに、いきなりつぶすのはどうなの。これでも、私はデリケートなの!」
「デリケートね。意味がわかってつかっているのか?」
おかしそうに笑われて、ますます私は不機嫌になった。
男の方は、ちっとも気にする様子はなかったけれど。
「それにしても、何故蝶なんだ? 鳥の方がもっと遠くへ飛べるだろう」
「知らない。最初からそうだったもの」
他のものになろうとしても無駄だった。
せいぜい変えられるのは色と大きさ。大きな鳥に憧れなかったといえば嘘になるけれど、蝶も悪くない。なんどかあがいて、結局その結論に達した。無理な物は無理なのだ。
「蝶の方が捕まえやすいがな」
伸びてきた手が、私の体を引き寄せた。
近くなった顔が、私を見下ろす。
深淵よりも深い闇が、その瞳の中にはある。
「知っているか。魂は蝶に例えられることもある」
そういえば、昔そんな話を聞いたことがある。
意識したことはなかったけれど、それが形に関係しているのだろうか。
「だったら、やはりあれは俺の物だな。そうだろう?」
どこまでも勝手なことを言う男の腕の中、ため息をついた。
確かに私は男と契約しているから、魂は彼のものだ。いまさらそのことについてどうこういうつもりもないし、ここから自分が逃れられないことなど、わかっている。
でも、男の言葉に素直に頷くのは嫌だったから、私は彼を見上げたまま、意地悪く笑ってやった。
「そうしたいんなら、ずっと私に『それ』を見せて」
手を伸ばして、男の目元に触れた。
蝶を通して視た時の曖昧な闇じゃない。
誰よりも深く、何よりも黒いその目が見たい。
「お前が望むなら、永遠に」
そして、結局のところ、男は文句を言いながらも、私の欲しい言葉をくれるのだ。