365のお題

Novel | 目次(番号順) | 目次(シリーズ別)

  066 雨の日  

 雨の日に、家の前で変なものを拾った。
 落ちていたのは、大きなヒト。
 赤い髪に、浅黒い肌。濡れた服は、妙にツルツル黒光りしていて、身体にぴったりと張り付いている。
 本当は拾うつもりはなかったけれど、家の前で勝手に死体になっても困る。ここら辺は、案外獰猛な獣が多いのだ。あっという間にやってきて、血なまぐさいことになるに決まっている。そうなると片付けるのも大変だし、血の匂いはなかなか取れない。
 最近植えた雨の日でも可憐な花を咲かせる植物も、踏み荒らされてしまうだろう。
 塗り替えたばかりでまだ汚れの少ない家の外壁だって、ダメになるかもしれない。
 それだけは、やっぱり避けたいのだ。
 私は、男の腕を掴むと、家の中に引き入れるために引っ張った。
 こう見えても、私は力持ちだ。このくらいの男なら問題なく抱えられるけど、服が濡れてしまうのはいただけない。男には悪いが、ここは引きずらせて貰おう。
 もしかすると、玄関の角とか、床の出っ張りでひっかかっちゃうかもしれないけれど、頑丈そうだし、きっと大丈夫だ。


 玄関で文句を言いながら、服を脱がし――これが継ぎ目もわからない代物で苦労したんだけど――思ったよりもいろんな面でりっぱな身体を乾いた布で拭き、来客用のベッドに男を移した時は、結構疲労困憊だった。
 見たところ、少し前にうけたであろう傷跡はあったけれど、どこにも最近出来たような大きな怪我はないようだった。だから、単に疲労で倒れていたのかもしれない。
 元々、この家は、人里からかなり離れた場所にあるし、道だって険しい。ちょっと訪ねる、みたいな感覚で来る場所じゃないのだ。来るのは、知り合いか、知り合いから聞いた人くらいのものだし。
 それに、今は雨期。
 雨の量は、半端ない。視界が遮られるほどの雨と、滑りやすい山の斜面に、命だって失うこともあるのだ。同事に靄も発生するから、山の中は迷いやすく、うっかりすると雨期で食べ物を十分に取れない獣に襲われることだってある。
 この辺りの人間なら皆知っていることだけど、余所の国の人なのだろうか。
 どちらにしても、男の体温の高さから、かなり長い間雨の中を移動してきたのは間違いないと思う。ひょっとすると今晩あたり熱を出すかもしれない。
 拾ってしまったものは仕方ないから、目が覚めるまでは面倒をみよう。
 そんなことを考えながら、私は男が熱を出したときに必要なものを用意するために、部屋を後にした。


 男が目を覚ましたのは、翌日のことだった。
 ちょうど、熱が下がってきたことを確認しようと額に手を置いたところだったから、お互いに目があってしまって、なんともいえない気まずい空気になる。
「誰だ……?」
 かすれているけれど、結構良い声だ。
 開いた瞼の奥の瞳の色は、赤色。初めて見る色である。あんまり綺麗なので、つい飾っておきたくなってしまう。無理だけどね。
 こんな目をした人間はこの大陸にはいない気がするから、やっぱりどこか遠いところから来た人間なんだろうか。
「あんたが、生き血を啜る魔女?」
 しかし、男は私の顔をしばらく見つめた後、そう言った。
 いきなり失礼な奴である。
 魔女という発言もどうかと思うけど、生き血を啜るって何。そんなこと、生まれてからこれまで一度だってしたことない。
 確かに、生活するために、山の中で狩りだってするから、血を見て倒れるなんてことはないけど、血は啜らないでしょ普通。
「想像していたのと違う」
 何故そんなにがっかりした顔をする。
「もっとおどろおどろしくて、皺だらけで、爪は尖っていて、黒い服を着ていて、ひっひっひっと笑う魔女がいるんじゃなかったのか。そんな魔女が住んでいるって聞いたはずなんだが」
 そんなこと、真顔で尋ねないでほしい。
「魔女はそんな容姿はしていないし、そもそも私は魔女じゃないし」
「……そうだな。確かに、見たことがある魔女とは違う。生意気そうな女にしか見えない。だいだい、こんな山の中で、そんなひらひらふわふわした服を着ている神経もわからない」
 男は遠い目をしている。
 ここまでの道のりを思い出しているのかもしれない。崖あり谷あり毒草の生えた湿地ありの、とんでもないところだからね、この山は。
「では、ここは魔女の館ではないのか?」
「たぶん、間違っていないよ。ここはそう呼ばれているから。でも住んでいるのは私で魔女なんていない」
 そうなのだ。
 私は別に特別なことなど何もしていないのに、勝手に余所の人間が魔女だとか言いだしたのだ。
 誰が噂を広めたのか、見つけ出して問いただしたいところだけど、気がついた時には大陸のあちこちに広まっていたので、結局あきらめたんだっけ。
「俺を逃がしてくれた人が、ここに助けを求めろと、そう言ったのに、全て無駄だったのか」
 悔しそうに歪む顔を見ながら、私は首を傾げる。ここに行けといった人が、私のことを知っている人だったら、魔女だなんて口にしないはずなんだけど。
「その人が、魔女の館って言ったの?」
「いや、その人は、この山に住む女を頼れといっただけだ。魔女の話を聞いたのは、逃げている途中だった」
 ……逃げる?
 何か不穏な言葉を聞いた気がする。この人、逃亡者なんだろうか。
 けれど、もしこの人が本当に私を頼ってきたのならば、どんな素性であろうとも関係ない。
「あなたが私の“お客”なら、私にはあなたの話を聞く必要があると思う。でも、その前に、体調を元にもどしなさい」
 まだ、熱は完全に下がっていない。
 逃げてきたというのが本当ならば、結構ぎりぎりの状態だったんじゃないかと思う。
「俺の話を信じるのか?」
 男は私を疑っているのだろう。
 疑心暗鬼なのは、目を見ればわかる。
「あなたが、私の敵じゃないっていうのは、わかるのよ」
 何故かは言わない。
 そもそも彼が私に危害を加える気なら、山に入ることさえ出来なかった。
 ここへ来るための道は巧妙に隠してあり、場所を知らなければ絶対にわからない。
 私の知り合いを名乗る人が本物だったからこそ、男は正解の入り口を見つけ、この家にたどり着いたのだ。
 つまり、道を知っているということは、その相手が、男を信じたということ。
 それだけで十分なのだ。


 彼の熱が完全に下がり、ベッドから起き上がれるようになったのは、さらに1日たってからだった。
 思ったより早いのは、体格同様、基礎体力もあるからだろうか。
 汗でべたつく身体が気持ち悪いだろうからと、お風呂を勧め、弱った内蔵に優しそうな料理を食べさせた後、私は彼の正面に座り、話を聞くことにした。
「逃げているって言っていたけれど、何かやらかしたの?」
 回りくどいことを言うのも面倒だったので、とりあえず思ったことを聞いてみた。
「やらかしたといえば、そうだな。事情があって、オベール国軍に追われている」
 国軍ときたね。
 それって、つまり国に追われているってことじゃないか。
「つまり、あなたはお尋ね者だと?」
 ずずっ、とお茶をすすりながら私は言った。
「そうみたいだな」
 同じく、ずずっとお茶をすすった男が投げやりに言った。
「なんで追われているか、聞いても?」
 興味があった、純粋に。
 男の顔は確かにちょい悪ではあったが、それほどあくどいことをしていそうな感じではない。
 窃盗か、強盗か、略奪か。そんな感じの犯罪をしでかしたような雰囲気しかないのだ。それなら軍ではなく、犯罪を取り締まる部署に追われるはずである。
「……王女を浚おうとした」
 ……爆弾発言じゃないか。
 とんでもないじゃないか。
「俺をこの世界に呼び出した王女を浚い、復讐するつもりだった」
 呼び出した?
 私は、自分の顔が知らず知らずに険しくなるのを止められなかった。
「ひとつ質問してもいい?」
「ああ」
「あなたは、異世界人?」
「ああ」
 なるほど。道理で、見たこともない目の色をしていると思った。
「落っこちてきたの? それとも、喚ばれた?」
 この世界には、時々よその世界からやってくる人がいる。多くはないが、少なくはない。
 異世界人には迷い込んでくる人と、“召喚”によって喚ばれてくる人がいるけれど、現在召喚は禁止されているはずだった。
 なぜなら異世界人は、こちらの世界に対応できず、迷い込んできたとたん死んでしまうことが多いからだ。それは召喚された人間でも同じ事で、そのほとんどが死体の状態で現れるとも言われている。
 理由はわからないけれど、界を渡った時、こちらの世界に適応しようとする作用が強く働きすぎるからではないかと推測されている。理の違う世界なのだ。普通の状態で来たのならば、言葉だけでなく、生態だって違うはずなのに、異世界人は、最初からこちらの言語を話し、物を食べることができる。
 根本的に、体が作り替えられてしまうのではないか。
 以前よりそう不思議がられていて研究もされているようだけど、なにしろ生きてこちらに来る人間は少ないのだ。なかなか解明されるところまではいかないらしい。
 しかも、それを乗り越え生き残ったものには、“加護”と呼ばれる力を持ち、こちらの世界ではないような能力を発揮するのだ。そういう意味でいえば、権力者などは、異世界人がいれば生死に関わらず欲しがるだろうし、研究者だって同じだ。
 生きていても、死んでいても、異世界人にとってはここは平穏な世界とは言えないかもしれない。
「喚ばれたんだと思う。体中痛くて目が覚めたら、変な石造りの建物にいた。喚んだのは、魔力の強い王女で、その場で隷属の魔法とやらをかけられた。もっとも、これは詳しいことは、後から俺を逃がしてくれた人間が教えてくれたことだがな」
「東の国の魔女ね」
 東の国――オベール国の第2王女は、魔女だ。元々魔力が強く、自身が望んで魔女に弟子入りし、正式に魔女になったのだという。そのせいで、王位継承権は失ったけれど、発言力や影響力は、強い。
「目的は聞いたの?」
 男は口を閉ざした。
 言いたくないことなのだろうか。こちらを睨み付けるような目には、怒りさえ感じる。もちろん、その怒りは私に向けられているものではないはずだが、身をすくませるには十分のものだった。
 私は、繊細ではないが、一応人並みの感情はある。そんな視線を受けたら、やっぱり怖い。とはいっても、にらみ合っていても、仕方ないので、私は残ったお茶を一口飲むと、口を開いた。
「オベールは軍事国家だったはずよね」
 簡単に想像できることとしては、単なる戦力として“加護”を持った異世界人が欲しかったということ。落ちてきた異世界人を地道に探すよりは手っ取り早い。
 もっとも、成功するまでに、どれだけ失敗するかを考えれば、そんな無駄なことをする意味があるのかと思うのが、普通だ。
 魔女の力だって、万能ではない。
 何度も失敗を繰り返せば、魔力は疲弊するだろうし、“召喚”自体が、失われたはずの魔法だ。
 何かがきっかけになって、王女自身の身体に変調をきたす可能性だってある。
 曲がりなりにも一国の王女に、そんなことをさせるだろうか。例え王女自身がそれを願ったとしても。
「今はあの国は安定しているし、少し閉鎖的なところがあるとはいえ、おかしな噂は聞いていないし、召喚なんて必要なのかなあ」
 自分が最初に考えたことを否定したのは、オベール国がそこまで戦力を必要としているかと不思議に思ったからだ。
 現在、どことも戦はしていないし、彼が召喚された理由というのが、さっぱりわからない。
 王位継承に関しても問題はないようだし、内乱もない。不満を持っていない貴族や平民ばかりではないはずだけど、王族を退けてまで何かしようとするほど、国の中の治安も悪くなかったはずだ。
 男が何か言ってくれるかと思って、しばらく見つめてみたが、結局、彼は口を紡いだまま、全然しゃべってくれないから、あっさり私は諦めた。
 無駄なことに時間を費やすのも、もったいないもの。
「話たくないならいいけど、答えてほしいことがあるのよね」
 男との会話で、気になったことは他にもある。
 彼が追われているという理由だ。
「王女を浚ったっていったけど、あなたさっき、隷属の魔法をかけられているっていったはずよね? かけた本人に逆らって、その身を浚うなんてことは、普通できないはず」
「……ああ、あれは、ものすごい苦痛だったな。王女に逆らうたびに、身体が焼け付くように痛み、頭も朦朧としてきて、自分を保てなくなることも多かった。あまりにも抵抗したせいか、結局、薬で意識を操作され、知らないうちに何かやらされていたらしいが――覚えていない」
「まさかとは思うけど、意識がある間は、ずっと逆らい続けてきたの?」
「なぜ、俺が言うことを聞かねばならない?」
 ぎらぎらした目で言われて、出てきたのはため息だった。
「すごい精神力ね。あきれるというか、根性があるというべきか。……むしろ、よくあなた死ななかったと思う」
 隷属の魔法は、身体の苦痛だけでなく、精神的な責めも伴う。起きている時の苦しさも相当なものらしいけれど、寝ている時でさえ、恐ろしい悪夢を見るという。
 だから、この魔法を掛けられた者は、短い間に従順な存在になってしまうか、感情を失い、主の言うことしか聞かない人形のようになってしまうのがほとんどだ。
 本来ならば、これも人道的ではないという理由で使ってはいけないという風潮ではあるけれど、秘密裏に行われることはよくあった。
「そんな状態で、よく王女を浚おうとしたわね」
「そうだな。どうやら、現実の痛みの方が、精神的な痛みよりも強く感じるらしい。暴れた時怪我をして、そのことに気がついたんだ。まあ、王女が度重なる魔法の行使で弱っていたってのもあるから、あの程度の痛みで意識を保てたんだと思うが」
 いやいや、普通は耐えられないと思うよ。弱っていたとしても、東の国の魔女の力は桁外れなんだもの。
「でも、それで納得した。あなたの身体にある治ったばかりの傷はその時のものなんだ。他人に付けられたとしては、変なところに傷があると思ったのよ」
「見たのか?」
「身体を拭いた時にね」
 太ももの内側とかには、あまり手で抉ったような傷はつかないものね。拷問でもされたならともかく。ただ、それだと、そこだけに複数の傷があるのもおかしな話だし。
「ただ、その目論見は失敗して、俺はその後、さらに強い隷属魔法をかけられたようだ。殺されなかったのは、異世界人だったからかもしれないし、他に意味があったのかもしれない。薬を使えば意識を操れるようだし、まだ生かしておいてもいいと思ったのかもしれないな」
 意外に冷静に男は言う。
「その時は、さすがにこれで終わりかと思ったんだが、俺の悪運はつきていなかったようだな。助けてくれるという人間が現れた」
「それが、私を知っている人だったのね」
「旅芸人だと名乗っていたが、そもそもそんなヤツが何故俺を助けようとしたのかわからない。俺がいる場所は警備も厳しそうだったし、そんなに簡単に忍び込めないはずなのにな。それに、俺を助けるのは、面白そうだからとふざけたことを言っていたが……あんたの知り合いは、みんなあんなのか」
 否定はしない。
「ああ、そうだ。そいつから、伝言があったんだ。『そろそろお腹が空いているころだろう?』ってな。どういう意味だ?」
 ということは、その知り合いは、雨期になると私が飢えていることを知っていて、わざわざ“お客”を送ってくれたということなのだろう。
 ものすごく厄介な“お客”だけどね。
「で、あなたは何をしてほしいの? あなたを助けた人が、私に頼れって言ったということは、私は、あなたに力を貸すことが出来るかもしれない。でも出来ないこともある」
 ならば、さっさと話を進めてしまおう。確かに、私はお腹が空いている。
「申し訳ないけれど、私にはあなたを元の世界に帰すことはできない。正直に言っちゃうと、一度この世界になじんでしまった身体で、元の世界へは帰った人はいない。……誰も教えてくれなかった?」
「そうだな」
 俯いた男を気の毒には思うが、嘘を教えることもしたくない。
「薄々、そうではないかと思っていた。俺を逃がしてくれた人間もそのあたりのことは言葉を濁していた。まあ、あっちの世界に未練がないわけじゃないが、現状は受け入れる方なんだ。迷っていたら、生き残ることも出来ないからな」
 以外なほどにあっさりと男は帰りたいという願いを否定した。
「俺の願いは、この隷属の魔法を解くことだ。王女を殺せば、魔法は解けるんじゃないかと思ったが、実行できなかったし。ん……そういえば、今は身体が痛くないな」
 突然思い出したかのように男は言う。
 戸惑っているのか、自分の身体をしげしげと眺めている。その仕草が、身体の大きさに似合わず可愛らしくて、思わず笑ってしまう。
 だいたい、意識がはっきりしてから数日たつのに、今更そのことに気がつくなんて悠長すぎるし。
「この山は特殊なの。魔法を無効化する作用がある」
 どんな小さな魔法でも、ここでは使えない。
 魔力の発動はしても、効果が取り消されるのだ。
 そのことを知っている魔女たちは、決してここには手を出さないし、近寄りもしない。それなのに、何も知らない人は、こんな得体の知れない場所に住む私を魔女だと言うのだから、本当に不思議。
「だから、魔物や魔獣は出ない。代わりに、天敵がいない普通の猛獣が育っているけど」
「生き物には会わなかったぞ」
「雨期だからね。巣穴に近づかなければ出会うことはないの。あなた、本当に運がいい」
 私は笑うと、男の目を見つめた。
「あなたの願いは、隷属の魔法を解くこと。そう思っていいの?」
「できるならばな」
「それなら、可能よ。私は、あなたの隷属の魔法を消すことができる」
「本当か!」
 立ち上がった男は、私を見た。
 その射貫くような赤い瞳は綺麗で、飾っておけないことが、やっぱり残念だと思った。


「とりあえず、服を脱いで」
「は?」
「あなたの隷属の契約印がどこにあるのか、知りたいのよ。普通は契約印があれば魔力の匂いがするものだけれど、ここでは魔力そのものが無効化されちゃうからね。直接触れて、確認しないとわからないの」
「なるほどな」
 納得すると、男は思いきりがいい。
 ためらうことなく上着に手をかけると、脱いでしまった。ズボンも脱いで、次いでに下着まで脱ごうとしたので、そこまではいいと制した。
 いくらなんでも、その当たりの部分に隷属の契約印はつけないと思うのよね。よほど変な趣味でもなければ。
 私は男に触れる。
 堅い胸はよく見ると細かい傷があった。いつついたものだろう。
 古いものも、新しいものもある。
 比較的盛り上がった新しいものは、ここへ来てからの傷かもしれないけれど、こんな傷がつくなんて、いったい彼は何をやらされていたのだろう。
 男は覚えていないようだし、私も知るつもりはないけど、きっと碌でもないことだ。人を――他人を魔法で従わせようってことが、そもそも碌でもないことだし。
 私はゆっくりと手を這わせ、男の身体にあるはずの契約印を探す。隷属魔法は精神に作用する魔法だ。漠然とかけるよりも、その身体に魔法陣を小型化した印を刻み込み、定期的に魔力を送った方が楽なのである。これならば、常に対象者の側にいなくてもいい。
 裏表――じゃなかった、背中とか足の裏とかいろいろ触らせてもらう。
 背の高い分、顔とか頭とかはかがんで貰うしか無かったのが、ちょっと悔しい。
 だって、男は大きくて、私の背は男の胸の下あたりしかないのだ。背伸びしたって、絶対届かない、というのはなんだかむかつくし。いちいちかがんで貰ったりするのも面倒。
 でも、男は、こちらの言葉に逆らうことはなかったから、思う存分あちこち触って、確認して、私はため息をついた。
「……ひとつじゃないのね」
 ぽつりと呟く。
 これはひどい。ひどいというか、ここまでされても、男は魔女に逆らったのか。
 異世界人、恐るべし。
「あなたに刻まれた契約印は、全部で6つ。どれも強い」
 私の言葉に、男は驚いたらしい。同事に、怒りも沸いてきたのだろう。険しくなった顔からは、逃げ出したいほどの怒気が漏れ出ている。
「あの女……!」
 まるで今からすぐに王女を殺しに行きそうな勢いだ。もっとも、この山を出れば隷属の魔法はすぐに有効になるから、無理だろうけど。
 男もすぐにそのことに気がついたのだろう。深く息を吸い込むと、わずかに唇をかみしめた。気持ちを落ち着かせようとしているのだと思った私は、男が何か言葉を口にするまで待つことにする。
 やがて男の目から怒りが消えた。
 もう一度息を吸い込み、表情を消したまま、私に問いかける。
「いまさら、かけられた魔法の数を言っても仕方ない。問題は、どうやって消すかということだ。お前は魔女じゃないのだろう?」
 その質問は当然だと思う。
「そうね。まあ、隠すほどのことなどないわけだし」
 尋ねられれば素直に答える程度の、秘密とはいえないことだ。それに、私みたいな人間は、少ないけれど、一人だけってわけでもない。
「私は、魔力喰いなの」
「マリョクグイ?」
 不思議そうに男は言う。ああ、やはり、男の世界にはいない存在なのだろう。
「ごく稀にだけどね、魔力を食べることができる人間が生まれるのよ。もちろん、普通の食事も取るんだけど、定期的に魔力を食べないと、体が維持できなくなるの」
「なるほど。伝言の意味はそういうことか」
 察しがよくて助かる。
「というわけで、あなたの魔法印を食べさせて?」
 ちょっとだけ可愛くおねだりしてみると、大爆笑された。
 そこまで笑うほどのこと? とはいっても、笑ってくれる方が実はいい。大抵のこの国の人間は、怖がっちゃうからね。
「まずは、胸のここ」
 ぺろりと舐めると、あふれ出てくる黒い魔力に、舌がびりびりと震えた。
 ああ、これは確かに東の魔女の魔法。極上で、良質な魔力を感じる。
「なかなか、そそるものがあるな」
「はい?」
 視線を上げると、男が私を見下ろしている。
「いつも、そうやって食べるのか?」
「時と場合によるけど、ね」
 直接肌に付けられた魔術印なら、この方がおいしいんだもの。
「それから、右手」
 私は、男の手を取り、その甲を舐めた。
 その次は、左手、そして右と左の足。
「最後は?」
「……目を瞑って」
 私の言葉に、男は目を細める。
 だけど、何も言わず、目を閉じてくれた。
「ついでにかがんで」
「こうか」
 男がかがむ。
 近づいた男の顔に、私はそっと手を添えた。
「最後の場所はね、ここ」
 男の唇の中。舌の上。
 魔女は、男がいたく気に入っていたらしい。こんなところに、隷属印を刻むとはね。
 確かに、皮膚よりも魔法の影響は受けやすい。敏感な場所だし、他人にわかりにくい。私だって、うっかり気がつかないところだった。
 私は男に口づける。一瞬、相手の体が硬直したのがわかった。そりゃ。驚くよね。いきなりこんなことされたら。
 でも、仕方ない。ここが一番魔力を込められているし、力も強い。
 王女、意外にやるわね。
 でも、おいしい。いろんな意味で。
 つい夢中になって食べていたら、ふいに背中に暖かな感触を感じ、ぐいと持ち上げられれた。
 え、あれ?
 なんだかちょっと宙に浮いちゃっている?
 慌てて視線だけで見上げると、いつのまにか目を開けた男が私を見ていた。潤んだ目が色っぽいんですけど。それに、赤い瞳がとても近い。
 そして。
 こっちが始めた口づけのはずが、気がつけば男の方に主導権が移っていた。


「お腹いっぱい」
 長椅子にだらしなく寝転んで、私はうっとりと目を細めた。
「それはよかった。俺の方も、体が軽くなった気がしている。……ところで、ここはお前一人で住んでいるのか?」
「どうして?」
「これは、男物の服だろう?」
「……ああ。たまに父が来るからね。あの人も、大きいヒトなのよ」
 母さんも大柄な人だ。生まれた私だけがどうしてこんなに小さいのかと、いつも思うんだよね。
「あなたの服は洗って乾かしてあるから、ここから出て行くなら、持って行っていいよ。他にも必要なものがあれば提供する」
「随分親切だな」
「おいしく頂かせてもらったからね」
 6つも魔法印を食べたんだもの。しかも、どれも極上だったし。すごく幸せだ。
 もうこれで、雨期が終わるまで、魔力を食べなくても大丈夫なはず。ありがとう、彼を紹介してくれた誰か。
 けれど、男は何をするでもなく、そのまま立ち上がると、何故か私がいる長椅子に近寄り、そこの空いた場所にどっかりと座った。しかもふんぞり返って。
「何しているの?」
「ここに住む」
「………はい?」
「よく考えたら、俺はこの世界のことを何も知らない。それに、今外は雨だ。こんな中出て行っても、また倒れるだけだ。隷属の魔法が消えても、俺が国軍に追われているのは変わらない」
 心許ないような発言だけど、見知らぬところに放り出されても、うまくやっていけそうに見えるのは気のせいだろうか。
「雨期は、まだまだ続くのよ。居座られても困るんだけど」
「いいじゃないか。俺はお前が気に入った」
 男の手が、私の髪を掬いとった。
「面白い色だな。俺の世界にはこんな髪の女はいない」
「確かに私には異国の血が混じっているけれど、めずらしくない色よ」
「そうなのか? 王女のところにいた人間は、あの女を含め、ほとんどが黒い髪をしていた。たまに色が薄い者もいたが、金は見なかった」
 男が私の髪を梳く。
 妙に気持ちいい。
「あなたの世界の人は、みんな赤い髪なの? こっちの世界では、あまり見ない。瞳の方は、もっとめずらしい」
「……多いな。赤、青、緑。濃い色ばかりだ。だから、薄い色の髪は不思議に思う」
 綺麗だ、と耳元で囁かれた。
 変なの。その言葉が嬉しいと思ってしまう。お腹いっぱいで気持ちが高ぶっているせいだろうか。
「まあ、いいわ。どうせ雨期は暇なんだもの。おいしいご飯を食べさせてくれたお礼に、面倒を見てあげる」
 拾ったものの面倒はちゃんと見ろと、父さんもうるさくいってたし。
 異世界人と暮らしてみるのも面白いかもしれない。
「ねえ」
 私は手をのばし、男の頬に触れた。
「もっと、その綺麗な瞳を見せて」
 赤い瞳が間近にあることが嬉しくて、私はそう言った。
 この赤を部屋に飾ることはできないけれど、側にあるならそれもいい。そんなことを考えてしまうぐらい、それは美しい宝石のような瞳だったのだから。

 雨の日に拾いものをした。
 それが、私に何をもたらすのか――まだわからない。

Novel | 目次(番号順) | 目次(シリーズ別)
Copyright (c) 2013 Ayumi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-