「温度が違う場所というのがあるんだよ」
そんなことを言ったのは誰だったか。
「そこは、この世とあの世の境界なんだ。道の隅や、部屋の暗がりなんかに多いから、そこをじっと見てはいけないよ。でないと、連れていかれてしまうから」
必ず、最後にはその人はそう言った。
ひどく遠い記憶のはずなのに、言葉だけははっきりと覚えている。
「……おい」
低い声に呼び止められた、と思ったとたんに、腕をつかまれ、強く後ろに惹かれた。
振り返らなくても、それが誰だかわかったので、ため息とともに名前を呟いた。
「また、見ていたんだな」
とがめるような響きではないとは思う。
けれど、怒っていないわけではないらしい。口調が少し乱暴な気がする。
「だって、温度が違ったから」
周りとは違う空気の冷たさを感じたから、立ち止まってしまっただけだ。見ようと思ったわけでも、関心があったわけでもないけれど、彼は気に入らなかったようだ。
「そんなに、ああいうものを喜ばせたいのか」
今度の言葉には、はっきりとした苛立ちがあった。
「俺の傍では、不満だということか?」
「不満なわけがない」
ああ、そうだった。
この人の傍が、何よりもどこよりも冷たくて暗い。
あんなものを見ていなくても、ここにいるだけで、深くて暗い深淵を感じることができる。境界を見ることも容易い。
男の腕に手を回して、ぎゅっと抱きついた。
どうせ、ここ以外の居場所なんてないのだから。
「どこにもいかないよ」
そのことをわかっているはずなのに、ひどく独占欲の強い男は、「こんなところにいて、あんなものを見るのが悪い」などと言いながら私の頭をいつものように撫でた。