Top | Novel

  あれ  

 雨の中、無造作に置かれた金属製の水槽の中から、それはつぶらな瞳で私を見つめていた。
 見るつもりもなかったのに、立ち止まってしまったのは、臭いがしたからだ。
 水の臭い。
 いや、どちらかといえば海水。
 夏の、濁った海の匂いがしたのだ。
「おじょうちゃん、冷やかしなら勘弁だぜ」
『あれ』をじっと眺めていたら、しゃがれた男性の声がした。
 あまりにも薄暗かったから気が付かなかったけれど、水槽の横に人がいたようで、よく見ると一斗缶に腰を下ろした胡散臭げなおじさんが、ぷかぷかとタバコを吸っている。
 冷やかしのつもりはなかったけれど、確かにこんなところに立っていれば商売の邪魔かもしれない。
「あ、ごめんなさい」
『あれ』から目を逸らして、そこから立ち去ろうと歩き出した。
「ひとつ、300円。大特価だよ」
 その言葉に、また私の足が止まった。
 振り返ると、片眉だけ上げておじさんが笑った。
「気になるんだろ、『あれ』が」
 躊躇っている私に、おじさんは表情も変えずに水槽の中を指差した。
「餌は生の鶏肉でいいし、これ以上大きくならないし、大きな声では鳴かないよ」
 確かに空前の『あれ』ブームなのは知っている。
 近所のお姉さんも、タバコ屋のおじいさんも飼っていた。
 でも、そこで見せてもらった『あれ』は、もっと明るい色をしていたし、ぬるぬる加減も少なかった気がする。
「ここだけの話、これは天然ものなんだ。だから、飽きたら食べればいいし」
 いやいやいや。
 おいしいとは聞いているけど、自分で調理は無理。
 絶対無理。
「売れ残りだし、なんなら100円にしてやるよ」
 立ち去れない私を客と見なしたのか、それともただ単に売れ残りをなくしたいのかわからないけれど、値段がさっきより下がっている。
「正直、困っているんだよね。一匹だけ残ってさ。助けると思って買ってくれよ」
 おじさんが哀れっぽい声を出し、大きく溜息をついた。
 正直、あれをペットショップで買うと、ものすごく高い。おこづかいで買えるものじゃないってわかっているから、100円は魅力だ。
 でも。
「天然物って育てにくいってききました」
「そんなことないよ。養殖とちっとも変わらない。――ああ、ちょっとやんちゃなところがあるかもしれないが」
 やんちゃ?
 躾しにくいってことだろうか。うちは両親とも生き物を飼うことには反対はしないけれど、そういう部分はうるさい。
「やっぱりいい……」
 です、と最後まで言えなかった。
 なぜならば、いつのまにかおじさんの手には水の入った透明の袋がぶらさがっていて、その中から『あれ』が私を見つめていたからだ。
 あの、つぶらな瞳で。
「大サービスということで、50円でいいよ」
 ずいっと袋を差し出され――気が付くと、私は50円を払い、その袋を手にしていた。
「マイドありー」というおじさんの間の抜けた声が耳に痛い。


「というわけで、『あれ』を飼うことになったんだけど」
 というと、親友の美佐が見たいと言い出したので、彼女を自宅に誘った。
「うーん、でも、あんまり可愛くないよ」
 天然物のせいか、懐かないし。
 いたずらはするし。
 なにより。
「やんちゃが過ぎるんだよね」
 おじさんの言った通りだった。
 もちろん、飼い始めた以上、最後まで面倒見るつもりだけれど、そのせいで最近寝不足でもある。
「ちなみに、返品しようにもそのおじさん、それっきり見ないんだよね」
「うわー。最悪」
「ペットショップで聞いても、天然物はねえ…って渋い顔されるし」
 一応、ネットでもいろいろ調べたけれど、お店で聞くのが一番いいかと思って、行ってみたのだ。
 けれど、滅多に入ってこない天然物については、養殖と飼い方は同じだけれど、扱いが難しいとか、慣れれば可愛い程度のことしかわからなかった。
 飼えなくなっても、持ってこないでねと釘も刺されてしまったし。
「おじさんは、難しくないっていたのに」
「それ、完璧に騙されたんだよ」
 やっぱり美佐もそう思うか。
 実は、私もそうじゃないかと思いはじめていたんだよね。
 なにしろ―。
「ねえ、なんだか生臭くない?」
 自宅の玄関の扉を開けたところで美佐に言われ、私も気付いた。
 確かに生臭い。
 海の匂いだ。
 すごく嫌な予感がする。
「まさか、また!?」
 私は慌てて靴を脱ぎ、2階への階段を駆け上って自室の扉の前に立った。
 何度も家に遊びに来たことのある美佐も、迷うことなく私の後ろにくっついてきている。
「ここから匂うね」
 美佐の言葉に頷く。
 間違いなく、海の匂いはこの向こうからだ。
「開けるよ」
 そう言って部屋のノブに手をかけると、後ろで美佐が小さく「気をつけて」というのが聞こえた。
 わかってる。
 何かあった場合のことを考え、いつでも逃げられるようにしながら、私はゆっくりと扉を開けた。


 扉の向こうは、黒く霞んでいた。
 それほど広い部屋ではないのに、向こう側が見えない。
 床の上には、奇妙な文様。まるで魔法陣のようだ。
 これは、ヤバイ。よくわからないけれど、すごくヤバイ感じがする。
 部屋の水槽にいたはずの『あれ』の姿も、よく見えない。
 ただ、どこからか、変な呪文のような音が聞こえる。
 やっぱりものすごくやばい状況のようだ。
「こ、こ、これって」
 後ろにいたはずの美佐の声は震えていた。
「これってやんちゃの域を超えてるって!」
 そんなこと、私だってわかっている。あれほど、叱ったっていうのに。
「どうするの?」
「消す」
 魔法陣を消すしかない。
 どうすれば、と思った時には、手が動いていた。
 持っていたカバンを部屋の中央に向かって投げる。自慢じゃないが、コントロールには自信がある。
 見事、それは床の魔法陣を横切って、ずずずと滑っていき、幾つかの模様が滲んだ。
 そのとたん黒い霞みが消え、床の上にちょこんと座るあれが見えた。
 何が起こったのかわからないのか、頭をしきりに動かして周りを見ている。
「なにやってんの!」
 思わず怒鳴ってしまう。
 なにしろ、部屋の中は湿っているし、なんかよくわからない魚とか落ちているし。
 今日もまた掃除をしなければいけない。考えてみたら、昨日も一昨日も、その前も、部屋を掃除していた気がする。お母さんにだって、絨毯が臭いって怒られた。確かに私が断り切れずに『あれ』を買ってしまったのがいけないけれど、でも。
 その時、私の中の何かが切れた。
「勝手に部屋を汚しちゃいけませんっ」
 ばしんと、『あれ』の頭を叩いた。手加減なしで。
 ぎゅぐぅう、と鳴いた『あれ』が、長い触手を体に引き寄せ、縮こまる。
 大きな瞳が、驚いたように大きく開いていて、ぶるぶる震えていたが、気にしない。
 いけないことをやったんだから、怒るのは当たり前のことだ。
「ここはね、家の中なの。床を汚しちゃいけないし、変なものも召還しちゃいけないの」
 ごめんなさいとでもいうように、どんどん『あれ』が縮こまっていく。
 こっちの言葉がわからなくても、私が怒っているということは理解できているらしい。
「いいつけを守れないのなら、なにがなんでもあのおじさんを探し出して、返品するんだからね!」
 考えてみれば大人げないし、そんなことをするつもりはなかったんだけれど、とにかく私はきれていた。
 だって、部屋の中は、まだ生臭い。
「い、い、わ、ね!」
 ずいっと指を突き出すと私は念を押した。
 ますます小さくなった『あれ』は、わかったというように触手をゆらゆらと動かしている。
 そこで、ようやく私の怒りが治まってきた。
「わかればいいの」
 なでなでなで、と頭を撫でてやる。
「やりたいんなら、散歩の時に、外でやりなさい」
 近所の森とか空き地なら、生臭くなっても大丈夫だ。
『あれ』を水槽の中に戻しながら、明日の散歩は遠出しようかな、なんて考える。
「あのー」
 その時、後ろから、小さな声がした。
 美佐の声だ。
 あ、そういえば、美佐のことをすっかり忘れていた。
「ごめん、美佐。散らかってるから、下に……」
 振り返ると、後ろにいたはずの美佐がいない。
「ちょっと怖かったよ、あんたの顔」
 そう言った美佐は、何故か廊下の壁にへばりついたまま引きつった顔で私を見ていた。
 失礼な。


 私は『あれ』を飼っている。
 今巷で評判の手軽に飼える水生の生き物だ。
 かわいい…かどうかわからないけれど、あの事件以来それなりに懐いてきている。
 時々変な物を召還しようとするのが悩みだけれど、まあいいか。
 私は、ぎゅるぎゅると鳴きながら餌をねだる『あれ』の頭を撫でながら、今日はお手でも教えてみようかと思った。

Top | Novel
Copyright (c) 2009 Ayumi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-