そもそもの始まりは、ノアの一言。
突然「花見がしたいですぅ」などと言い出したのだ。
大方、テレビか、部屋に転がしていた雑誌が情報の入手場所なんだろうけれど、「花見っていうのは、仲のいい人とお酒を飲んで暴れることなんですか?」と聞かれたのには参った。いったいどんな記事やニュースを見たのやら。
それでも、「是非花見に行きたいですぅ」と目をきらきらさせて期待に満ちた様子を見せられると、駄目とはいえない。
ここ何年か、まともに花見なんてやっていないし、行ってもいいかなという気に私はなっていた。
嫌いじゃないしね、花見。
で、そう決めてしまうと、行動は早い方がいい。
桜が散ってしまう前にということで、次の土曜日に予定を決める。
さすがに花見弁当なんていうのは作れないので、スーパーの特売花見弁当を注文することにして、後は家の押入れから、どこかの景品でもらったシートだとか水筒だとかをひっぱりだした。
当日は、いい天気だった。
絶好の花見日和だ。
ノアも、いつになくはしゃいでいる。
「わあ! 人がたくさんいますぅ!」
近所の桜で有名な公園は、昼だというのに既に花見客でいっぱいだった。
夜とは違い、ほとんどが家族連れやカップル、あるいは友達同士という雰囲気の人ばかりである。
適当なところに二人が座れる場所を見つけ、シートを引いて落ち着いたところで、ノアがあたりをきょろきょろと見回し始めた。
「おねえさま、見てください! あんなに食べ物屋さんがいっぱいありますぅ」
広場には、花見客を当て込んだ屋台が並んでいた。まるでお祭りにでも来たようなにぎやかさに、ノアは素直に喜んでいる。
「おいしそうですぅ」
きらきらと輝く目で屋台を見つめている姿に、連れてきてよかったと思う。
「食べたいものがあるの?」
「えーと、あのですね。フランクフルトとか、焼きそばとか、たこ焼きとか食べたいですぅ!」
そんなに食べる気なのか…。
じゃなくて。
「一応、お弁当があるから、ひとつだけにしなさい」
「ううう、選べません〜」
いや、だからそこで涙目になられると、折れてしまいそうなんですけど。
でも、だめだ。
こういうのはきっとノアのためにもよくないよね……たぶん。
「いろいろ見てきて、一番食べたいものを決めてきたら」
「あ、そうですね。そうしますぅ」
ぴょこんと立ち上がると、満面に笑みを浮かべたノアは、屋台に向かって勢いよく走っていった。
一人になった私は、持ってきた荷物の中からペットボトルのお茶を取り出すと、一息つくことにした。
どうせノアは当分は帰ってこないだろう。
桜は綺麗だし、のんびりしたい気分だし、こういうのもたまにはいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、ふっと、目の前に影がさした。
「運がいいな。こんなところで君に会えるなんて」
いつかどこかで聞いたセリフに、私は固まってしまった。
この声には覚えがある。
ちょっと気だるげで、甘い感じで、中性的で。
間違いなくあの人だ。
恐る恐る顔を上げると、思ったとおりの人が、思ったとおりの姿でそこに立っていた。
「久しぶりだね」
あの時と同じようにグレイのスーツにサングラス姿のその人は、唇の端をほんの少しつり上げて、笑ってみせる。
「ま、ま、間宮さん!」
どうしてこんなところにあなたが!と叫び出したい。
今日はお酒くさくはないけれど、明るい日差しと姿が妙にアンバランスで、うさんくさい雰囲気を漂わせている。
「水臭いなあ。名前で呼んでくれたほうが嬉しいよ」
そこまで親しい間柄じゃないはずなんですけれど、私達。
「ノア――じゃなくて、キャットに見つかったら……」
「大丈夫、彼女は屋台に夢中で、しばらくは戻ってこないよ。それに、私たちのことなんて、誰も見てないから」
そんな問題じゃないはずだ。
「今、君を見ているのは、私だけだね」
いつかと同じように、甘く囁く吐息のような言葉が耳元で聞こえる。
体温を感じるほどに近くなった間宮さんを振り払うこともできず、私は固まってしまった。
あの時もそうだったけれど、どうして、この人に対しては強い態度が取れないんだろう。
それほど親しくないし、本当はどういう意図があって近づいてきたのかさえわからない人なのに。
だからこそ、流されちゃいけない。
ここは、きっぱりした態度を取らないと。
とはいうものの。
するりと外したサングラスの向こうにあった、蒼くて綺麗な瞳で見つめられた瞬間、その決意はもろくも崩れ去った。
だめだ、本当に。
何やってるんだよ、私は!
で、結局。
「あの、少し離れてもらえると、ありがたいんですけれど」
そんな情けない拒否しかできなかった。
「人も見てますし」
そのことも、一応付け足してみた。
けれども。
「嫌だ。せっかく会えたのに、すぐにさよならなんて、寂しいからね」
離れてくれるどころか、いたずらっぽく笑った間宮さんの顔がさらに近くなる。
そして。
ふいに、唇に何かが触れた。
というか、本当に、軽く触れ合う程度のものだったけれど、キスされてしまった。
いやいや、ちょっと待って!
ここには人がたくさんいるのに!
絶対、誰かに見られてる。
知り合いじゃなくても、まったくの赤の他人でも、こんな大勢の前でこんなことをされるなんて、恥ずかしくて情けなくて、どうしたらいいんだかー!
「本当に見ていてあきないね、君は。キスしたこともないの?」
私から体を離した間宮さんは、おかしそうに笑う。
人前でなんて、あるわけないじゃない!
あわあわと慌てる姿を、間宮さんが面白そうに眺めているのがわかる。
「ふーん、あるんだ。妬けるね」
「ち、違います! 違わないけど、違う!」
「やっぱり可愛いなあ」
絶対からかわれてる。
間違いなく、面白がられている。
だって、こんな背も高くて見た目が怖いと言われてる私のこと、可愛いなんて冗談じゃなかったら言えないことだ。
「本当に思っているんだけど。信じてもらえないかな」
悲しそうに顔を伏せるけれども、口元が笑っているように見える。
やっぱりからかわれてるんだ。
そうでも思わないと、やってられない。
「さてと。もう行ったほうがいいかな。キャットがこっちに向かってる」
ふいにまじめになった間宮さんが、ちらりと後ろを振り返って言った。
え。
それはまずい。
こういう場面を見られたら、ノアは怒るだろう。
怒るだけじゃなく、ひょっとすると間宮さんに攻撃してしまうかもしれない。そういうのは、あんまり見たくない気がした。
「そんなにがっかりした顔しないで。また会いに来るよ」
いやいやいや。がっかりなんてしていないから。
そもそも、私は間宮さんい会ったことが嬉しいとか、そんなことはちっとも思っていない。そのはずだ。
むしろ、2度と会いたくない存在。
ノアの敵だというし、得体が知れない人だし、胡散臭いし。
「大丈夫、すぐにまた会えるよ」
「会いたくないです」
「そう? 私は会いたいけどね」
間宮さんの手が、私の頭をくしゃくしゃとかき回した。
自然で優しい仕草だ。
さっきまでのからかうような雰囲気でなく、大切なものに触れるような柔らかい動き。
あれ、なんだかキスされた時よりも、ドキドキしてきた。
「名前、聞こうと思っていたけれど、聞き損ねたな」
残念、と笑うと、間宮さんは私からすっと手を離した。
一瞬、寂しいと思ってしまう。
……一瞬だけだ。別に未練があるとか、そんなわけじゃない。
「それじゃ、また」
唇の端に笑いを残したまま、そう言い残し、間宮さんは背を向ける。
すぐに、その後ろ姿は人込みに紛れて見えなくなってしまった。
ぼんやりと間宮さんが消えていった方向を眺めていたら、後ろから手をひっぱられた。
ノアだ。
「おねえさま、お待たせしま……ってどうしたんですか? お顔が真っ赤ですぅ」
「な、なんでもない」
何故だか罪悪感を感じながら、「なんでもない」を繰り返してしまう。
「なんか、変ですぅ。何かありましたか?」
「何もないよ」
そういいつつも、結構心臓はばくばくしている。
なんだか、とんでもない深みにはまっていっているような気がしてきた。
ノアのこともそうだけれど、間宮さんの行動は唐突でいきなりで絶対おかしい。
だけど。
だけど、この胸に残るもやもや感はなんだろう。
本当に嫌なら、ノアを呼ぶなり、その場から逃げるなりすればいいのに、どうしてそれを自分はしないのか。
ひょっとして、間宮さんに会いたいと、心の奥で思っているんだろうか。
まさかと思う反面、否定できないということにも気づく。
次にもう一度会ったら、このもやもやの答えが出るのだろうか。
そんなことを、散る桜を眺めながら考えていた。