『時間があるのならば、桜でも見に行かないか』
先輩からの久しぶりの電話は、そんなふうに始まった。
特に行きたい場所があったわけじゃないから、先輩の会社の近くにある公園へなんとなく向かうことになった。
桜の木の下には、すでに幾つかのグループが陣取っていて、かなり遅い時間にもかかわらず、座れるような場所は見当たらない。
「結構多いっすね、花見客」
平日だというのに、異様なほどに盛り上がっている様を眺めながら苦笑する。
だが、隣に立つ先輩は、どこか上の空で、オレの言葉には反応しなかった。
「先輩?」
「あ、ああ。すまない。もう一度、言ってくれないか」
視線が微妙に定まらない。
いや、オレの方をまっすぐに見てはくれない。
普段から、それほど口数が多い方じゃないとはいえ、今日の先輩はいつもよりずっと無口だ。
「別に対したことじゃないですから」
オレの返事にも、短く『そうか』と呟いただけで、すぐに視線は遠くへ行ってしまう。
自然と、オレの言葉も途切れがちになる。
今、この瞬間に、オレたちの間を流れているのは、ぎごちない空気だけだった。
結局、座れる場所は見つからず、公園の隅でフェンスににもたれかかったまま桜を眺めるはめになった。
相変わらず先輩は黙ったままで、来る途中に買った缶ビールを煽るように飲んでいる。
そういうところも、いつもの先輩らしくない。
嫌な予感がした。
一番知りたくないことを知ってしまいそうな気持ち悪い感覚だ。
いや――本当は、オレは今から先輩が口にしようとしていることをわかっているのではないか。
知らないふりをしようとしているだけではないか――そんな思いに囚われる。
心の中のもやもやとした思いが形になることをどうしても避けたい。そうしなければ、きっと今まで通りに先輩とは会えなくなる。
「江藤」
先輩がふいにオレの名前を呼んだ。
聞きたくない。
話題を変えてしまいたい。
そんな衝動に駆られるが、結局何も言うことができない。
「お前には、きちんと言っておかなければと思っていたんだ」
うつむいたままの先輩の表情は、よく見えなかった。
オレはといえば、その場で固まったまま動くこともできずにいる。
「火足くんのことなんだが。彼と、私は……その……」
言いよどむところが、先輩らしいと思う。
どう言葉を繋いでいいのか迷っているんだろう。
オレに気を遣ってのことだとはわかってはいたが、やりきれない気分になってしまう。
「知ってますよ、火足とつきあっているんでしょう」
普通に言ったつもりだった。
少なくとも、声は震えていなかったはずだ。
だが、笑うつもりだった顔はどうやっても強張ったままだ。
「……そうか」
ようやく顔を上げて、こちらを見た先輩の笑顔も、どこかぎごちない。
知っていた。
二人を会わせたのはオレだったから。
気付かないはずもなかった。
二人の間を流れる、親密でどこか危うい空気を、オレは取り残された気持ちで眺めていたのだから。
二人を会わせたのが間違いだったとは思わない。
もし、これがきっかけで火足と昔のように話すことができるようになればいいと、そんなことも考えていたのだから。
ただ先輩が間に立つことによって、オレと火足との関係は、昔ほどにはぎすぎすしたものではなくなったが、それはオレが戻りたかった関係と違っていたというだけだ。
「お前が、火足くんに対してどういう感情を持っていたか、十分すぎるほど知っている。だから、私はずっと謝らなければならないと思っていた」
真面目すぎる先輩は、こんな時でも正直だ。
そんなふうに言われたら、『納得できない』とか『許せない』とか、絶対口に出来なくなる。
そもそも、先輩がオレに謝る理由なんか、ひとつもない。
最初にあいつの手を離したのはオレ自身だ。
火足のためといいながら、取り返しのつかない傷を、あいつに負わせてしまった。
大事だったのに。
誰よりも守りたい存在だったのに。
すべてを壊してしまったのは、オレ自身だ。他の誰でもなく。
「先輩が悪いわけじゃない」
「だが……」
「謝らないでください」
謝られるとみじめになる。
どうしようもなく情けない自分を再確認してしまうだけだ。
「そうだな。謝るのは、お前にも火足くんにも失礼かもしれないな。それでも、謝りたかったんだ。勝手だな、私は」
そうじゃない。
オレが言っているのは、そういう意味じゃない。
「許してくれとはいえないが。私にとっても火足くんにとっても、お前が大切な存在だから、このまま隠し続けることはしたくなかったんだ。……これも勝手な言い分だな」
苦笑する先輩に、ますますオレは何も言えなり、ため息とともに手にしたビールに口をつけた。
「……もうこんな時間か」
先輩の呟きに、オレは顔を上げた。
会話らしい会話もなく、気がつけば随分と時間が立っていた。
公園内にいる花見客のほとんどが、帰り支度を始めている。
まばらに残った青いシートや残されたゴミが、さっきまでの喧噪を思い出させて、やるせない気持ちになった。
オレの今の心境にはぴったりの景色かもしれないが。
「そろそろ、お開きにするか」
先輩が律儀に足下に転がるビニールの袋を拾おうとするのを、オレは制した。
「いいですよ、オレが捨てておきますから」
「そうはいかないだろう」
そういって、先輩が取ろうとした袋をオレは、無理矢理奪い取った。
これじゃあ聞き分けのない子供みたいだ。
先輩は、それ以上無理にオレから袋を取ろうとはせず、かつてと同じ、困った後輩を見つめるような優しい目をした。
一人になりたいと思っているオレの心に気がついているのかいないのか、先輩は立ち上がりかけた動きを止めてしまう。
「私はもう帰るが、お前はどうする?」
「……もう少し、ここにいます」
「そうか」
「すみません」
「あまり飲み過ぎるなよ」
「わかってます」
昔のように、後輩を心配する顔になる。
「それから、無理もするなよ」
先輩の優しさは今のオレにはきつい。
「……ありがとうございます」
そういうと、先輩はひどく複雑そうな顔をした。
去っていく先輩の姿を見ながら、オレは自分自身が情けなくなる。
結局、オレは最後まで、みっともないままだ。
一言くらい祝福の言葉を口にしたかったのに、それさえも出来ない。
いつかこの想いが風化する日が来るのだろうか。
二人の前で、ただの後輩として――あるいは、従兄として、うまく笑えるだろうか。
舞い散る桜の花びらを眺めながら、オレはすべての想いを断ち切るように一息にビールを煽った。
オレにとっての春は、まだ遠い。