海の彼方

後編 | ノベル

  前編  

 ジーナがその男に会ったのは、幼い頃から暮らしている神殿の裏庭でのことだった。
 裏庭には井戸があり、朝と晩に飲み水用の甕を満たすためにそこで水を汲むのが彼女の仕事の一つなのだ。
 その日の朝も、早起きしたジーナはいつも通りに裏庭へと向かった。
 この時間は、まだ神殿内でも起きているのは内向きの仕事をする使用人だけだ。彼女もその一人で、主に神殿内の雑用を行っている。
 ジーナに身寄りはなく、物心ついた時にはすでに神殿で生活していた。神殿は親を亡くした子供や事情があって親と生活できない子供を保護する場所でもあるのだ。
 引き取られた子供は、そこで最低限の教育と援助を受け、どこかへ養子として引き取られるか、自立出来るようになると、皆外へと巣立っていく。
 本来ならば、ジーナもそうするはずだったのだが、たまたま司祭から神殿で使用人として働かないかと打診され、それを受けたのだ。雇用期間としては18歳までということだが、それが済めば続けて働くのも、外で別の仕事をするのも自由だと言われいる。
 一緒に神殿で育った子たちは、退屈で自由が少ないから、早く出たがっているが、ジーナはどちらかといえば、ここでの生活は嫌ではない。
 確かに規律には厳しいが、少なくとも衣食住は保証されているし、静かで厳かな雰囲気が好きだった。
 例えば、今向かっている裏庭。
 人に見せるための庭ではないので、派手な花や手入れされた庭木などはない。申し訳程度の木と草があるばかりだ。そのせいで、ここには水を汲みに来る人間以外訪れない。
 神殿内でも、特に静かな場所だと言える。
 特に朝早い時間は、柔らかく差し込む朝日に照らされた裏庭は神秘的で綺麗だ。
 だからこそ、皆が嫌がる早朝の水くみを進んで引き受けているのかもしれない。
 今日も天気がいいからそういう風景が見られるはずで、彼女はいつも通り、軽やかな足取りで裏庭へと足を踏み入れた。
 だが、そこにいるはずもない人間がいたために足を止める。
 立っていたのは、背の高い男だった。
 褪せたような金の髪に日焼けした肌。
 帯剣しているから、剣士なのだろうか。それにしては、着ている服はおよそ剣士らしくない。
 派手な紅色の上着に、皮のズボン。どちらも服としては普通だが、剣士としてはおかしい。
 ジーナが知っている剣士は、大抵普段から簡単な防具を身につけている。靴も、男が履いているような薄い材質の皮ではなく、もっと丈夫で頑丈なものを使用することが多い。
 男は剣以外はあまりにも普通の服装だった。
 何者だろう。
 そうジーナが不思議に思うのも当然だった。
 それに、この場所にいる理由もわからない。
 裏庭といっても、休憩するような椅子も何もないのだ。奥に井戸がひとつあるきりで、その向こうは行き止まりのうえ通り抜けもできない。
 なにより、ここは関係者以外は入れない場所である。
 男が神殿の客ならば迷い込んだという可能性はあるが、誰か訪ねてきているならば、ジーナが知らないというのも妙だ。
 男は、ただ立ち尽くし、祈るように空を見上げている。
 それはどこか神聖な儀式のようにも見えて、声をかけるのを躊躇わせる何かがあった。
 しかし、いつまでもそうやって眺めているわけにもいかない。
 もし不審者ならば、人を呼ばなければならないのだから。
「誰だ?」
 だが、最初に沈黙を破ったのは男の方だった。
 不躾な目差しをぶつけていたのだから、気付かれて当然だったのだが、鋭い声にジーナは身を竦めた。
 男が刺すような眼差しでジーナを見ている。
 さすがに剣に手はかけていないが、こちらを警戒しているようにも感じる。
 だが、ここは神殿の敷地内だ。
 不法侵入なのか、用があってここにいるのかはわからないが、ここで咎められるべきなのは、ジーナではなく男の筈である。
「私はこの神殿で働くものです。あなたこそ、何をしているのですか」
 いつもより声が高くなっているのは、緊張しているせいかもしれない。少しだけ足が震えていたが、それを悟られないように、桶を持つ手に力を込めた。
「ここは、神殿の関係者以外は立入禁止です」
「へえ、知らなかった」
 男は大げさに肩を竦めて白々しくそう言う。
「俺はここでお祈りしてたんだよ」
「お祈り?」
「そう、お祈り」
 しかし、ここは一般の人が入ることが出来る祈りの間からは離れた場所である。
 祈る神の像もなければ、祭壇もない。祈りの言葉を紡ぐ神官も来ることはない。
 やはり何か目的があっての不法侵入なのか。
 警戒したように一歩下がるジーナを、男は面白そうに見ている。
「だが、それももう終わった。人を呼ばれても困るし、俺は退散するよ」
 男はそう言うと、止める間もないほど素早い動きで、彼女の横を通り過ぎ、去っていった。
 すれ違い様に何かされるかと思ったが、それもない。
 慌てて振り返って見たが男は引き返すそぶりも見せなかった。
 変な人。
 不思議には思ったが、怪しいことに変わりはない。司祭に報告しておいた方がいいだろうと思いながら、ジーナは井戸へと向かうために歩き出した。


 男との二度目の出会いは、町へ出掛けた時だった。
 休みの日に買い物に出たジーナは、偶然通りかかった宿屋の入り口で、酒瓶を抱えて座りこむ男を見かけたのだ。
 あの日以来、男はまったく神殿には現れなかったから、ジーナ自身も存在を忘れてかけていたところだった。司祭も、一応気をつけるが、間違って入り込んで来ただけでしょうと最近では言っていたくらいだ。
 その男が目の前にいる。
 しかも、ただの酔っ払いとして。
 酒臭い息がこちらにも届くような気がして、ジーナは俯いたまま通り過ぎようとした。
 相手も自分を覚えていないだろうと思ったし、本音としては、酔っ払いとは関わりたたくないというのもある。
 それなのに。
「あんた、神殿にいた子だろう?」
 呼び止められて、しかも腕をぐいと引かれた。
「何するんですか!」
 叫んで手を払おうと振り返ると、思いがけない近さで男の顔があった。
 すぐそこにある藍色の瞳に、息を飲む。神殿で会ったときには気が付かなかったが、男はこの地方では珍しい目の色をしていた。
 その色の中に、怒った自分の顔が映っている。
「逃げるなよ。ちょっと話がしたいって思っただけなんだ」
「私にはありません。離してください」
 男はやはり酒臭く、匂いになれていないジーナは顔をしかめた。神殿では基本的に酒の類は飲まない。客に振る舞われることはあるが、神殿勤めの使用人が飲むことは稀である。
 例外は祭の時くらいだが、それでも羽目を外すまで飲む者はいなかった。
 だからだろうか。
 こんなふうな状態の人間と間近に接するのは初めてで、足が竦んで動かないし、大声を出して逃げればいいのにと思っても、実行できない。
「あれ。あんた、震えてる?」
「震えてません!」
 嘘だ。
 足なんて、がくがくしている。今だって踏ん張ってようやく立っている状態だ。
「あー、怖がらせるつもりなんてなかったんだよ」
 本当だろうか。
 でも、手を離さないのは何故だろう。
「ただ、あんたと話をしたいなって思ったんだ。綺麗な青い目をしているからな」
「え?」
 男の言葉に、ジーナは目を丸くした。
 そんなことを言われたのは初めてだった。
 この国では、青い目は少ない。
 特にジーナのような緑がかった青い瞳はこの街にはおらず、珍しがられることはあっても、褒められたことはなかった。
「あなただって、青いじゃないですか。私よりもずっと綺麗だと思いますが」
「でも俺の目は暗いからな。地味だし。その点、あんたの目は明るくていい」
「明るい、ですか?」
 戸惑ってしまう。確かに男の目よりも色は明るいが、それだけの理由でジーナを呼び止めるというのは不自然だ。何か意図があるのではないかと、いくら鈍い彼女でも勘繰ってしまう。
 結局、まだ手を離してもらえていないのだ。
「そうだ。南の大陸の海の色だな」
「南の海? 見たことがあるんですか?」
 問い返してしまったのは、以前神殿に来た旅人が話していたことを思いだしたからだ。
 この国の海は暗い色をしているが、遥か遠く南の方には鮮やかな青い色の海があるのだという。そこで泳ぐ魚も、珊瑚も、明るい色をしていて、人々の目を楽しませているのだと言っていた。
「海に興味があるのか?」
 男はにやりと笑う。藍色の目が熱っぽく見えるのは気のせいだろうか。
 男慣れしていないジーナは、それだけのことでどきどきしてしまう。
「だったら俺と話をしよう。望むなら海の話もしてやるよ」
 甘く囁く言葉に、一瞬目眩がした。
 ただの小娘に、何を言っているのだろうとか、本当は酒に酔った勢いで、見境なくなっているのだろうとか、そんなことが頭をよぎっている。
 流されてはだめだ。
 海の話は聞きたいが、相手は酔っ払いなのだ。
 頭の中の欲求を振り払うと、ジーナは男を睨む。
「手を離してください」
 きつく言わなければと思い、勇気を出して口を開いたのに、掠れた声しか出てこない。
「逃げないならね」
「逃げませんよ」
 思わず言ってしまってから、しまったと顔を顰める。
 気が付けば、すっかり男の言いように話を進められてしまっているではないか。
「別に、どうこうしようってわけじゃないよ。ただ俺はこの町は初めてで知り合いがいないからな。現在友達募集中なわけ」
 友達?
 ありえないだろう。通りすがりの少女を捕まえて、友達になろうなんて、怪しすぎだ。
「あんた、神殿の人間みたいだし、馬鹿正直そうだから、俺を騙したりはしないだろう?」
「騙したりなんかしないです」
「だったら、可哀想な俺と知り合いになってくれよ」
 哀れっぽく言われ、とうとうジーナの方が折れた。
 どうせ、ここには滅多にこない。適当に話をして、適当なところで帰ればいい。
 幸いこの町は小さく、大抵の人間は顔見知りだ。何かあれば大声で叫べばいいし、治安がいい町で、衛兵もしっかりしている。
 結局、ジーナは男の隣に腰掛け、話をすることを了承してしまった。
 後になって考えると、彼にうまく乗せられてしまったのではないかと思うわけだが、その時の彼女は、そんなことは思いつきもしなかった。
 良くも悪くも世間知らずだったのだ。


 男はアスと名乗った。
 数日前から、この宿屋で用心棒のようなことをしているのだという。
 昼間から酒の匂いをさせていて、役に立つのかと気になったが、問い返してもはぐらかされそうな気がしたので、黙っている。
「ところで、あんた幾つだ? 見たところまだ子供みたいだが、こんなところでうろうろしていると、変な奴につかまるぞ」
 すでに“捕まって”いるのではないだろうか。しかも捕まえた本人がそういうことを言うなんて、ますますおかしな男だ。
「失礼です。私、これでも16歳なんですから」
「はあ? 本当か? どこもかしこもぺっちゃんこじゃないか」
「そういうおじさんこそ、いい大人な癖に、昼間からこんなところでお酒なんて、ろくでなしに違いないです」
「おじさん?」
 男が反応したのは、ろくでなしという言葉ではなく、おじさんだったらしい。
「そうだよなー。あんたから見たら、確かに30歳過ぎている俺は、おじさんだよな」
 さっきまでの元気はどこへいったのか、そう悲しげに呟くと、肩を落として酒の瓶に手を伸ばした。
「ちょっと、おじさん。また飲むんですか」
 すでにアスの前には空になった酒瓶が2本並んでいる。
「おじさんじゃなくて、せめてアスと呼んでくれよ」
「……アスさん。いい加減飲んだくれるのはやめたらどうですか」
「いやだ」
 酒瓶を抱えて駄々をこねる男に、心底あきれる。
 やはり放っておいて帰った方がいいだろうか。そう思って腰を上げかけたとたん、男がジーナの方を見た。
「そういや、あんたの名前を聞いてなかった」
 人懐っこい笑顔を向けられ、気が抜ける。
「あんたの名前は?」
「ジーナ」
 どうせ今話さなくても、いずれは誰かから聞くだろう。神殿に住む青い目の少女は一人しかいないのだ。そう思って素直に答える。
「ジーナか。割と普通だな」
 いったいどういう名前を想像していたのだろう。男はとても残念そうだった。
「神殿に住んでいるから、立派な名前でも付いているかと思っていた」
「そんなわけないです。見寄りがないただの平民が、どんなすごい名前を付けるっていうんですか」
「でも、黒髪に青い目だ」
「それと名前は関係ないでしょう」
 わけがわからないというふうにジーナが顔をしかめると、僅かにアスの目が見開かれた。
 口に持って行きかけた酒瓶を直前で止めて、ただジーナの顔を見つめている。
「そうか、知らないのか」
「何が?」
「いや、なんでもない」
「途中で止めるの気持ち悪いんですけれど」
「本当に、何でもないんだ。そうだな、お前が神殿住まいっていうから、ちょっと勘違いしただけだ」
 本当にそうなのだろうか。
 アスの言葉は妙に歯切れが悪かった。
「それよりも、海の話をしよう。聞きたいんだろう?」
 それ以上、話すつもりはないらしい。聞きだそうとしても無理だと判断して、ジーナの方も気持ちを切り替えた。
「聞きたいです。遠い海の話」
 ジーナの答えに、男は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 なんだか、子供みたいだ。
 そう思うと、無性におかしくなった。ただの酔っ払いのはずなのに。
 
 
 ジーナにとっては、その出会いが最初で最後のつもりだった。
 それなのに。
 気が付けば、一度の出会いが二度になり、三度目、四度目と続き、だんだんと二人は親しくなっていった。
 最初は敬語だった言葉遣いも、今では砕けたものになってきている。
 酒臭いことが多いのには顔を顰めるが、男の話は面白く、聞いていて楽しい。
 ここではない国の話。
 街から出たことのないジーナには、どこまでが本当のことなのかわからない。
 どれも真実であり、荒唐無稽な与太話にも思える。
 お伽噺でも聞かせるような口調は、おそらくジーナを子供扱いしているせいなのだろう。
アスは決して彼女に対して、甘い言葉や態度を示したことはなかった。女性としてジーナを見ていないのだろう。その証拠に、宿屋で働いている女性や客には、きわどく冗談には出来ないような口説き文句を口にしたり、どこかへ誘ったりしているのを見たことがあった。
 もちろん女性といい雰囲気の時にジーナが現れるても、困ったような顔をするが、邪険にされたことはない。ただジーナの方が気まずくなって、帰ってしまうだけだ。
 アスは男の人で、大人だから、いろいろとあるのだと、頭ではわかっているから。
 それなのに、こうやって男に会うために、時間を見つけては宿屋に出掛けているのは何故なのだろう。
 彼のことが好きなのかとも思ったが、それは親しい人に向けるもののようにも思えて、はっきりしない。
 彼女より年上の知り合いたちは、恋というのはもっと胸が焦がれるようなものだと言う。
 夜も眠れず、ご飯も食べれないくらいだという。
 そんな物語に出てくるようなことがあるのだろうか? それも、こんなに年の離れた男に対して。
 わからない。この気持ちは何なのだろう。
 ただ、会いたいと思う。
 あの藍色の目をした男に会って、話をしたい。顔を見たい。
 例え、一時のお遊びにしか思われていなかったとしても。


「出掛けないか?」
 めずらしく酒を飲んでいないアスが、ジーナに向かってそう言ったのは、もうすぐ夕暮れという時刻だった。
「あまり遠くへはいけないよ。遅くなると怒られるもの」
 神殿には門限がある。
 ジーナは年齢的には成人だが、神殿では使用人も神官にも厳しい規律がある。雇われている以上、勝手は出来ない。今日は休みとはいえ、外泊など出来るはずもなかった。
「そんなに遠くにはいかない。丘の上から海がよく見えるって聞いた。そこへ行ってみないか」
「いいよ」
 頷いたのは、丘の上が近いだけではなく、今日のアスがいつもと違うからだ。
 飲んだくれていないアスは、不思議と普段よりもいい男に見える。
 そんな彼と連れだって登った丘の上から見た港町は、淡い橙色に包まれていて、まるで作り物のようだった。
 前に見た時は、そんなことは感じたこともなかったのに。
「ちっちゃい町だよなあ」
 つまらなそうに言う男の目は、街ではなく広がる海へと向けられていた。
「ジーナは、見渡す限り海っていうのを経験したことはあるか」
「ない。だって、この町から出たことないから」
「そうか」
 それだけを言って男は笑った。
「俺が連れて行ってやろうか」
「どこへ?」
「海しかない場所」
 ジーナは、背の高い男の顔を見上げた。
 本当に連れて行ってくれるのだろうか。海を眺めたままの男の表情はジーナには読めない。
 本心なのか、ただの戯れの言葉か。
 ちっぽけで世間知らずの子供をからかっているのかもしれない。何しろ、彼女は男と親子ほども年が離れている。
「本気にするけど」
「本気にしてくれ」
 男の目がジーナに向けられた。いつもとは違う優しい瞳に、ジーナの方が戸惑う。
 こんな彼は知らなかった。
 居心地の悪さに、視線を逸らしてしまう。きっとからかわれているのだ。
「うーん、やっぱり本気にはできない」
「俺が飲んだくれだからか? おじさんだからか」
「違う、ろくでなしだから」
 男が喉を震わせるように笑った。アスがこんなふうに笑うのは、心底おかしいときだけだ。
「確かに俺はろくでなしかもな。で、どうしたい?」
「何が?」
「お前はそんな海を見たいのか。見たくないのか」
 見渡す限りの海。
 それはどんな光景なのだろう。
 思い浮かばない。
 綺麗なのだろうか。
 それとも、恐ろしいのだろうか。
「……見たい」
「そうか」
 アスの手が伸ばされ、ジーナを引き寄せた。
 いつもとは違う柔らかな眼差しを感じて、ジーナは緊張する。
 それでも、触れあった部分が暖かく、すぐに強張っていた体から力が抜けた。
 アスの隣は何故か居心地がいい。
「いつか見せてやるよ」
「うん」
「神殿で働くのは18歳までなんだろう」
「そう、あと2年」
「それまで約束を覚えていたら、連れていってやる」
「うん、期待せずに待ってます」
 守られるかどうかわからない約束だった。
 それでも、それに縋り付きたいと思ったのは、恋ではないのかもしれないけれど、彼が好きだったからだ。
 言葉にはまだ出来ないけれど。

後編 | ノベル
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