ふらりとその男が酒場に入ってきたとき、アスは目の前に座る少女に気付かれないように僅かに顔をしかめた。
よりにもよって、どうしてこの時間帯なんだと思ったが、男の表情の暗さに悪い予感がする。
男はアスとジーナの姿をちらりと見ただけで、こちらに近づくことはなく、離れた場所に腰を下ろした。そのまま少しの料理と酒を注文して、今一度意味ありげにアスに視線をおくる。
やはり何か話したいことがあるのだろう。
案の定、適当に話を切り上げてジーナを帰すと、すぐに席を立ち、こちらに移動してきた。
「神殿が動いたよ」
少女が出て行った扉の方向を見つめながら、男は呟く。
「まさか」
可能性は低いと言っていたのではなかったか。アスが顔を顰めると、男は大げさに溜息をついた。
「ああ、そのまさか。貴族のヤツが、よりにもよって、うちの姪っ子に目をつけた」
少女と同じ青い目が、忌々しそうに細められる。
「辺境だし、後ろ盾もないから、楽観視していたんだが、そこが都合がよかったのかもな。王族の一部と貴族が、あの子を押しているらしい」
やっかいなことになったと溜息まじりに告げる男の顔には疲労の色が濃い、
もしかすると、情報を得て、すぐにこの街へやってきたのかもしれなかった。
「で、いつ?」
だとすれば、それほど時間はないのかもしれない。そう思って尋ねると、男の口からまた深いため息が漏れた。
「はっきりしないが、おそらく3日以内には」
アスは思わず男の頭を小突く。予想以上に早い。一応、何が起こっても対処できるようにしてはいるが、いくらなんでも急すぎる。
「いた! 仕方ないだろ。秘密裏に動いていたみたいだし、ほぼ王側が示した巫女候補で決まりだったんだ」
「まったく。もうちょっと早く言ってくれれば、問題が起こる前に攫っていったのに」
「悪いと思っているから、俺も協力するって」
大柄な男が肩を落として俯いている姿はいささか気持ち悪いが、彼なりに焦っているのだろう。
いつもならばきっちりと整えている髪も、今日は乱れている。
そう思ってアスが改めて男を見ると、彼でもこうやって心底落ち込むことがあるのだと不思議に感じた。
普段は冷酷とも言えるほどで、一切の私情をはさまず、淡々と仕事をこなすというのに、身内が相手というだけで、これほど変わるものなのか。
しかも、身内であるはずの少女は、この男のことなど覚えていないだろう。二人が別れたのは、ジーナが物心つく前――男がまだまっとうな生活を送っていた頃だ。
それなのに、男の方は初めて出来た姪のことを、いつも懐かしそうに愛おしそうに話す。
もしかすると、まだ純粋だった頃のことを思い出しているのかもしれない。
男は、悪い仲間とともに村を出た後も、姪の事は気にしていた。村はそれほど豊かではなかったから、元気なのかお腹を空かせていないか、誰かに泣かされていないかと、酔っ払う度に繰り返していたのだ。
それが、久しぶりに帰った故郷で聞いたのは、彼女が無理矢理神殿に連れて行かれたという事実だった。しかも、どの神殿なのかもわからない。家族は、ここで暮らすよりはましだと諦めたようだったが、男は納得できず、そのまま再び故郷を飛び出したのだ。
何故なら、彼は知っていたからだ。
自分と同じ黒髪と青の瞳。両方を合わせ持った人間は少なく、それが巫女となる条件になることを。
運が悪ければ巫女に祭り上げられ貴族や王族たちにいいようにされてしまうかもしれない。もちろん条件に会う人間は彼女以外にもいるはずだから、彼の姪が選ばれる可能性は低い。
それでも心配だったから、男は姪の居場所を捜し回った。
ようやく見つけた預けられた場所は、中央神殿から遠く離れた場所で、姪自身も不自由なく暮らしているのに安心する。18歳になれば巫女になる資格を失うから、それまで何事もなければと思っていたのだが。
「あの瞳の色を見れば、巫女に相応しいと思うかもしれない」
アスの言葉に男は片眉をあげる。
それは、元々男が言ったことだ。だから、中央神殿の不穏な動きを知った時、そのことを理由に下げたくもない頭を下げ、アスに助けを求めたのである。
その時のアスの反応は好奇心半分、面倒だという気持ちが半分で、男の姪にはまったく興味を示さなかったはずなのだが。
今、それを口にするアスの声音が熱っぽい。
「あれほど奇麗な青は珍しい。俺の故郷の海と似ている」
アスの故郷はこの大陸から遠く離れた南の地だ。男も以前彼と共に訪れたこともあった。
確かにあの海は美しく、アスが何よりも大事に思っていることも男は知っている。
実際に、アスが海を見つめる姿は愛しい女でも見るようなもので、熱く語られた時は、微妙に引いてしまったことを覚えていた。
「いくらお前の好きな海に似ているからって、あの子に変な気起こすなよ」
「当たり前だろ。何言ってるんだ」
牽制のつもりで言った言葉にすぐ否定が返って来たので男は安心する。
だが。
「変な気とかじゃない。俺は結構本気だ」
アスが、にやりと笑う。
「俺は文字通り、攫うつもりだから」
「は?」
「一緒に海を見に行くんだ」
「なんだ、それ。どういうことだよ」
思わず立ち上ってしまった男に対して、アスは余裕のある笑顔を浮かべた。
そのことがさらに男の神経を逆なでする。
「だから、巫女のことがなくても、攫うつもりだってーの」
「ちょっと待て。俺はお前みたいなろくでなしに、可愛い姪っ子をやるつもりはないぞ」
「自分だってろくでなしの癖に何をいう」
「だいたい、お前、年が幾つ離れてると思っているんだ」
「親子くらいかな?」
「自覚してるんなら、止めてくれ」
力なく椅子に男は座りこんだ。普段はふざけてばかりだが、アスが本気だと言って手にいれなかった物も人間もない。
だからこそ、止めたい。
アスとの付き合いが長いぶん、彼がどういう男か知っているのだ。
神殿育ちの、どう考えても世間知らずであろう姪には、絶対にふさわしくない。
「やだね」
だが、当の本人は男の怒りなどまったく気にせず、そう言い切った。
「彼女の意思は? お前のこと、ただのおっさんとしか見ていない可能性もあるだろうに」
「こういうときこそ、俺の今までの経験が役に立つんだよ」
女に対して自分と同じように節操のなかったアスの過去を思い出し、男は青ざめた。
「何度も言っておくが、俺は本気だからな」
「だから、本気で止めてくれよ」
頭を抱える男に向かって、アスは豪快な笑い声を上げた。
もう引くつもりがないとアスは心に決めてしまっているのだろう。
こうなると、誰が止めても無駄なのだ。
大体、アスはいろいろな面で狡い。世間知らずの姪の逃げ道を奪いながら、自分に興味を持つように仕向けていくのだろう。
それでも。
「本気ならば、それでいい。だが、泣かせることがあったら、お前でも許さないぞ」
そう釘をさしたとき、わかっていると言うアスがあまりにも優しい眼差しをしたものだから、『でもやっぱり納得できない』という言葉は口にはできなかった。
ろくでもない男だが、本気だというのは真実なのかもしれないのだ。
だが、出来ることならば、邪魔してやろう。そんなに簡単に認めてやるものか。
内心、妙な闘志に燃えながら、とりあえずは、姪の安全が保証されるまでは保留だと、男はいつもの冷静な自分に戻る。
全てはそれからだからな。
そう呟くと、意味がわかったのか、目の前のアスは不敵に笑ったのだった。