腕の中で眠る少女は、精神的にはまだ子供だ。
一応成人しているっていうのに、色気も何もない。
酔っ払いの腕の中で、こんなに安心しきった顔で眠るってこと自体、おかしいって思わないのかよ。
俺に、このまま部屋へ連れ込まれるとか。
以前した口付け以上のことをされちまうとか。
その程度のことくらい、頭の片隅に入れておくべきなんじゃないのか。
だいたい、俺がロクデナシだって言ったのはこいつの方だろう。俺だって、自分が清廉潔白、女性に対して紳士的な人間だなんて思っていない。
むしろ、目的のためなら、手段は選ばないんだぞ。
世間知らずを一人、上手いこと丸め込むことに、心も痛まない。
そんな相手だって、知らないわけでもないだろうに。
少しばかり意地悪い気持ちのまま、腕の中の女の顔をのぞき込むが、やはり、起きる気配もない。
「アス、ここで手を出しちゃだめだよ」
俺が用心棒をしている宿屋の女将が、笑いを堪えながら、俺の頭を小突いた。さっきからこちらの様子を伺っていたのはわかっていたが、何も小突くことはないだろう。
「出すかよ」
「そんなにやけた顔しといて、よく言うよ」
「いつ、俺がにやけた顔をしたっていうんだ」
「今」
言葉に詰まる。
そんなはずはない、と言い切れない自分がいるからだ。
腕の中の少女――ジーナが、自分に対してまだ『淡い思い』しか抱いていないことはわかっている。
自身の身に降りかかった出来事に動揺して、そこから助け出した俺を信頼しているだけなのだとも知っている。
だが、俺はこいつを捕まえた。
俺がしかけた罠は、わざと穴だらけにして、いつでも逃げられるようになっていたというのに、あっさりとこの腕の中に落ちてきたのだ。
簡単すぎて、やっぱりこいつは世間知らずだ、それだけでなく他人を信用しすぎるとあきれてしまったが、俺にとっては好都合。
捕まえた以上、逃がすつもりなどないが、嫌われてしまうのは困る。
だからこそ、俺としては、自分の中の邪な部分は全て押し込めて、いろいろ我慢しているわけだが。
まったく。
こんな年下の少女相手に、何しているんだって感じだよな。
いつもだったら、ここまで時間をかけたりしない。
多少強引でも、いろいろ仕掛けて、適当な時期まで関係が続けば、互いが割り切って別れる。
泥沼な展開になったことも、こっちが必要以上に入れ込んで拗れたことがないとは言えないが、色恋に関することでは、俺は恐らく卑怯で卑劣で碌でもない男だ。
最初は、他の女と同様、いつかは飽きるんじゃないかと思っていた。
青い目が気に入ったが、いつまでその思いが続くのかと、恐れてもいた。
だからこそ、その思いが消えず、本気で側に置きたいと思ったとき、すぐに行動したのだ。
今度の女は、絶対逃がさない。
じわじわと、本人に気づかれないように囲い込み、手に入れる。
結果として、ジーナはもう俺の腕の中だ。逃げようとしても、手遅れだ。
俺は、ジーナの長い髪に指を滑らせた。
黒かった髪は、今はこの国の殆どの民と同じ金色だ。黒は目立つという女将が、その色に染めることを勧めたのだ。
さすがに目の色は隠せないが、髪を変えただけで、随分と印象が変わる。
服も、今まで着ていた清楚で飾り気のないものとは違う、派手で胸元が少し開いたものを身につけさせた。これで、見た目だけならば、酒場で働く女性のようだ。
女将は、俺の古いなじみで、今回の事情を知っている。
最初からの協力者だったが、ジーナのことをえらく気に入って、彼女が追っ手に見つからないようにと、いろいろ心を砕いてくれた。
宿屋に泊まる幾人かの商人や傭兵達も、ジーナを自分の子供のようにかわいがっていたから、理由はわからなくとも、追っ手をごまかしてくれるだろう。
今の変装が、一時しのぎでしかないことはわかっているから、正直これはありがたかった。
「どちらにしても、こいつは、本当に運が悪かったな」
俺が呟くと、女将が呆れたように肩を竦め、離れていった。
きっとジーナは知らない。
神殿で騙されていたことよりも、巫女に祭り上げられるよりも、俺に捕まっちまったことの方が、運の悪いことなのだと。
「諦めてくれよ」
囁き、唇に軽く口付けを落とすと、ジーナは身じろぎした。
そのまま、ゆっくりと瞼が上がる。
2、3度瞬きを繰り返すと、少しずつ焦点が合い、何かを捜すように、海の色の瞳が動いた。
「どうした?」
問いかけると、まっすぐに俺の方に視線が向けられる。
「よかった。アスのことだから、私を置いて飲んだくれているのかと思った」
「いや、飲んだくれていたけど」
机の上には、何本かの酒瓶が置いてある。その幾つかはすでに空き瓶だ。
「わ、何この酒の瓶」
わずかに目を開き、呆れたようにそう言われた。
「落ちつかないんだよ」
わざと困ったように笑ってやると、ジーナの方が何故か挙動不審になる。
「アス。本当に大丈夫なの? 私を連れてきたことで、アスが困ったことにならない?」
ジーナが心配しているのは、俺が彼女を攫ってしまったことで、罪に問われてしまう、あるいは酷い目に合わないかということなのだろう。
自分のことではなく、まず俺のことを気にするというのは、随分な進歩だ。
だから、俺は、お姫様を助けた王子様のように、優しく笑いかけてやる。
「その点は、うまくやっている。だから安心してもう少し寝ていろ。船が出るのは夜中だ」
「うん」
「大丈夫、俺が絶対無事に海へと連れて行ってやるから」
「……うん。信じてる」
照れたように笑った後、恥ずかしそうにジーナは俺の胸に顔を埋めると、上着をぎゅっと握りしめた。
わずかに体が震えているのは、まだ怖いからなのだろうか。
「心配すんな。何があっても、俺が守ってやるから」
俺の小さな海。
弱くて、すぐに壊れてしまいそうなくせに、俺だけをまっすぐ見てくれる女。
守ると決めたからには、どんなことがあっても、俺はお前を守ろう。
幼い頃から焦がれてやまない海の色を持った少女は、もう一度上着を握る手に力を込めると、小さな声で、ありがとうと言った。
「おやおや、また寝たのかい」
ゆっくりとあやすように背中を撫でていたら、ジーナはやはり安心しきったような顔で、俺の腕の中で眠ってしまったのだ。
俺達の様子を見に来た女将は、少し心配そうにジーナの顔をのぞき込む。
「いろいろあったからな。疲れていたんだろう」
「だったら、ベッドに寝かせてやればいいのに」
「いやー、それだと俺がいろいろやばいし」
いますぐむさぼり食いたい、という衝動は、きっと二人きりになれば抑えられないだろう。
今それはまずい。
この町を出るまでは、彼女を必要以上に怯えさせるわけにはいかないのだ。
「まったく。子供じゃないんだから、酒で誤魔化そうなんて、どうだろうね」
「ごまかしてない」
女将には、俺の気持ちはお見通しだったのだろう。
否定したにも関わらず、ものすごく疑り深い目を向けられた。
「とにかく、一度助けた以上、最後まで見捨てるんじゃないよ。私たちと違って、その子は普通の子なんだからね」
「わかってる」
ろくでなしと呼ばれる俺だが、大事なものは間違えない。
閉じられた瞼に、そっと口づけると、俺はいつまでもジーナの安心できる場所であろうと、ろくでなしの顔を隠したまま、閉じ込める腕の力を強くしたのだった。