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  海の音  

 冬の海は、深く静かだ。
 深緑色の海。
 凝れた海。
 腐った海。
 深淵の底へと繋がるそこに、人という生き物が訪れなくなったのは、いつからなのだろうか。
 

 砂浜に、長く続く二つの足跡。
 一つは小さく、一つは大きい。
 小さな足跡は、少女のもの。
 大きな足跡は、ボクのもの。
 少女はボクの前を歩き、無言のまま、ボクはそれに続く。
『どこまで行くのかな?』
 ボクの言葉は、波の音に混じって、そのまま消えてしまう。
 彼女には聞こえているのだろうけど。
 わかっているのだろうけれど。
 頑ななまでに、ボクに背を向けた彼女からは、返事など返ってはこない。
 それでも、ボクは問い続ける。
『どこに住んでいるのかな?』
『身寄りはいるの?』
『なんのために、ここへ来るの?』
 すべての言葉は無視されて、拒まれて、ボクの前で、くすんだ風に変わった。


 どのくらい歩いていたのだろう。
 ふと、彼女は立ち止まる。
 彼女の向こうには、突然途切れた砂浜の変わりに、ごつごつとした岩が見えた。
 岩と岩の間に、かろうじて人が通れるほどの道がある。
 道とはいっても、岩を簡単に削っただけのものだ。
 細く不安定なそこは、降りかかる波によって、ぬめりを帯びている。
 けれど、彼女は器用にそこを歩きはじめた。その馴れたようすは、何度も彼女がそこを通っている証拠だ。
 この先に何があるのかボクにはわからない。
 彼女にとって、重要な何かがあるのかもしれない。
 ほんとうは、海の匂いはあまり好きではないのだけれど。
 彼女の行動が気になって、ボクは後ろに続いた。
 潮の匂いに、頭の片隅が痛むことを感じながら。


 不慣れな道と、ぬるぬるとすべる道をおっかなびっくりと進んでいたボクは、実のところ、どのくらい歩けばよいのかと心配していたのだけれど。
 実際は、それほど進むことなく道は行き止まりになってしまった。
 そこは、小さな入り江のようになっていて、入りくんだ岩の間の、砂が波にさらわれていく。
 岩にぶつかった波は細かな雫となり、あたりに花びらのように広がっていた。
 だが。
 波が引くたびにさらけ出されるのは、美しいばかりの風景ではない。
 どこから流れ着いたのか、薄汚れたゴミや海藻が波に洗われている。
 そんな風景の中――ただ、波と風が唸る音しか聞こえない世界を、彼女はずっと見つめていた。
 繊細な白い泡と、汚れた砂と、彼女。
 それは、まるで一枚の絵画のようで、眩暈を覚える。
 同時に香る、濁った潮の匂い。
 本来、海が苦手なボクには、ほんの少し息苦しい。
 このままだと耐え切れなる。
 恥もなにもかも捨てて、逃げ出したくなる。
 だから、ボクは、そうなる前に彼女に声をかけようとした。
 けれども。
 ボクが口を開こうとした瞬間。
 ゆっくり――ゆっくりと彼女は振り向いた。


 振り返った彼女は、ボクの顔をじっと見つめる。
 薄くほとんど色のない瞳は、真剣だった。
『あなたは私とおなじなの?』
 初めて聞いた彼女の声は、まるで波の音のようだった。
 単調で、柔らかく、そして儚い。
『同じだけど、違うよ』
 ボクは用心深くそういった。
 彼女に警戒されたら、なにもかもおしまいだ。
 ボクと同じ人間はそう多くない。
 長く旅をしてきて、久しぶりに見つけた仲間かもしれない少女。
 だから、嫌われたくないと思うのだ。
 だが、彼女の目の中に、ほんの一瞬浮かんだのは絶望。
 あわてて、ボクは言葉を続ける。
『キミは、海からやってくる――を食べるのだろう?』
 ボクの言葉に、彼女は答えなかった。ただ、ボクの顔だけを見つめている。
『ボクはね、風の――を食べるんだよ』
 その言葉を聞いたとたん、彼女の瞳が大きく見開かれた。
 何かを言いかけるように、唇が動く。
 その時だった。
 海から吹く風が、匂いを運んできた。
 何かが腐ったような、生臭く、ヌルイ匂いだ。
 海から、何かがやってくる。
 生きていて、生きていないものが。
 来た、と彼女は言った。
 来たね、とボクは少し上ずった声で答えた。
 数は多くはない。
 恐らくたった一つきり。
 ……どうするの?
 聞くまでもなく、ボクは知っていた。
 彼女がボクと同じならば、恐らく――。


 海からやってきたそれは、怪我をしているようだった。
 猫背気味の背中をまるめているのを見なくても、そうとわかるくらいに足元がおぼつかない。
 かろうじて身に着けている布から覗く肌は、うねりを帯びたような鱗に覆われ、光を反射している。
 離れた両目と飛び出した額。
 ぎょろりとした目が、ボクたちを捕らえた。
 虚ろなその瞳に、怯えのような色が見える。
 それは彼女の姿を見たことによって呼び起こされたものに違いなかった。
 彼女が笑ったような気がする。
『ここへ流れついてくるのは、弱ったやつばかり。だから、私でも大丈夫なの』
 そういった彼女の唇から、小さな舌がちらりと覗く。
 ふわふわとした足取りで、それに近づいた彼女は、優しい仕草で手を差し伸べた。白い指先が、それの首筋に触れる。
 たるんだ皮膚をそうっと撫で上げて、何かを探すような仕草をする。
 そして。
 エラのように首筋に広がっている割れ目を探し当て、ぐいっとその手を中に突っ込んだ。
 二度ほど、それの体が跳ねる。
 生臭い腐った海水の匂いが辺りに漂い――それは、動かなくなった。


 そのまま、ボクは、ずっと見つめ続けていた。
 彼女の小さな唇が、肉を食いちぎり、骨をすすり、内臓をしゃぶるのを。
 そうして、すっかりそれを食らいつくし指先についた血と体液をきれいに舐め取ったのを見届けてから。
 ゆっくりと訪ねた。
『おいしい?』
 そう訪ねられて、彼女は首を傾げて笑った。
『おいしくないわ』
 小さな唇を歪めて、彼女は言う。
『あなたはおいしいと思って食べている?』
 反対にそう聞かれて、ボクは苦笑した。
 もちろん、一度だってそんなことを思ったことはない。
 これまでも。
 きっと、これからも。
『確かにおいしくはないね』
 ボクが言った言葉を、無感動に彼女は受け止める。
『それでも、食べなくちゃいけないのよ』
 そうだ。
 それでも、ボクたちは食べなければいけない。
 ボクたちが命を繋ぐために口にできるのは、やつらだけなのだから。
 たとえ、それらがどんなにおぞましいものだとしても。
 ボクは、まだ生きていたいし、お腹が空いたままでいるのは嫌だと思っているのだから。
 
 
 冬の海は、深く静かだ。
 誰もこないから。
 ここへ人間がやってくることがないから。
『こんなにきれいなのにね』
 彼女は淡い水色のスカートを揺らしながら、呟いた。
 そのまましゃがみこんで、その白く細い指先で、砂を掬い取る。
 さらさらとこぼれ落ちた砂は、風に飛ばされた。
 欠片が海に落ち、波間に消えていくのを眺めながら、ボクは言葉を口にした。
『ボクは、ずっと旅しているんだ。もしよければ、ボクと一緒にくるかい?』
 彼女は立ち上がり、しばらく海とボクを交互に眺めた。
『海がないところでも、私は生きていけるのかしら?』
 その言葉に、ボクは薄く笑った。
『やつらは、どこにでも、いるよ?』
『そうね、やつらはどこにでもいるわ』
 確認するようにそうつぶやいて、小さくうなずいた。
 伸ばしたボクの手を、しっとりとした彼女の細い手が掴む。
 そして、ボクらは一緒に歩き出したんだ。


 白い砂浜の上に足跡をつけながら、ボクらは陸に向かって歩いていく。
 この足跡が行きつく先は、どこなのだろう。
 ボクは彼女の手をほんの少し強く握り締めて、思った。
 その先にあるのが、終焉だとしても、始まりだとしても。
 きっと答えなんてわからない。
 知ろうとも思わない。
 ボクらは人から生まれてきたはずなのに、ある日を境に人とは微妙に違う何かに変わってしまった。
 そうなるべきだったのか、そうされてしまったのか。
 原因を知るには、ボクらは無力なのだろう。
 ただ、世界は少しずつ澱んで壊れはじめている。
 やつらによって。
 やつらが信じるものによって。
 そして、やつらを信じない人の濁った思いによって。

『海がない場所というのを見てみたいわ』
 ふいに呟いた彼女の言葉に、ボクは現実に引き戻された。
 彼女の瞳の中にある好奇心にも似た感情に、ふと笑みがこぼれる。
 別に難しく考える必要なないのかもしれない。
 ボクらはここにいて。
 やつらもそこにいて。
 互いが互いを食らいあって生きているだけだ。
 生きていたいと、ただそう思っているだけだ。
 それでいいのかもしれない。
 ボク自身が旅立った時だって、知らないものを見てみたいという好奇心のせいだったではないか。
『まずは、どこへ行こうか?』
 言葉が風になり、知らない海に流されていくのをボクはそっと見送った。
 それは遥か昔、ボクがボク自身に問い掛けた言葉だった。
『どこでも、君が見たい場所、知りたい場所へ連れていってあげるよ』
 彼女が真剣な顔をして考え込むのを見ながら、ボクは笑った。
 そんなに急ぐ必要はない。
 答えはゆっくりと出せばいい。
 彼女とボクの旅は始まったばかりだ。

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