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  貴方に甘い口付けを  

 純白のドレスに、白いベール。
 胸元に飾られた美しい宝石。踵の高い靴は不安定で、時々すっころびそうになる。
 隣には、騎士の正装に身を包んだ背の高い男が一人。
 短い黒髪と同色の瞳。整った顔は、横から見ても、やっぱり綺麗だ。すっと伸ばした背中は、見ていて気持ちがいいくらい真っ直ぐで、歩き方も洗練されている。
 どこをとっても完璧。
 いや完璧すぎて気持ち悪い。
 私がよろめくたびにさりげない仕種でそっと体を支えてくるのも、心配そうな視線を送ってくる回数も、完璧だ。
 でも、おかしい。
 絶対、この状況はおかしい。
 この男は私に向かって、馬鹿は嫌いだとか、胸がないとか、性格が悪いなど、散々言っていたじゃないか。
 それなのに、なんで、今、この瞬間にこの男が隣にいるの。
 どうして、私はこんなところで祝福されながら、司祭に向かって歩いているの。
 ああ、足が竦む。
 目の前が霞む。
 今すぐ走って逃げてしまいたい。
「逃げるなよ」
 腰がひけている私に気が付いたのか、笑顔を向けた男が優しい口調で言った。
 いや、あなた目は笑ってません。
「逃げたら、死んだ方がましだって目に合わせるぞ」
 顔が引きつった。
 こいつならやる。
 絶対やる。
 思えば昔からそうだった。
 やられたことは倍返し。
 まだ小さかった頃、あまり腹が立つことばかり言うから、げんこつで殴ってやったら、次の日ヒドイ目にあったのだ。
 よりにもよって、こいつ私の寝室に蛙を放りこみやがったのよ。
 私が蛙が苦手なのを知っていて、だ。
 あの恐怖は忘れていない。
 例え、その後私の好きなお菓子を持って謝りにきたのだとしてもだ。今でも蛙を見ると泣きたくなるのよ。
 それだけじゃない。
 用もないのに、屋敷へやって来ては、私にちょっかいをかけてきた。
 泣かされたのだって、1回や2回じゃない。その分こっちだって仕返ししてやったけれど、私の方が年下で女の子だったから、体力的には適わなかった。
 頭もいいから、出し抜くなんてことも出来なかったし、外面はいいから、両親は私がかわいがられていると思っていた気がする。
 そのくせ、私が本気で泣き出すと困った顔をして謝りにくるから、始末が悪い。
 そういうときだけ、物語に出てくる騎士のように礼儀正しく優しかった。……別人みたいで気味が悪かったけどね。
 まあ、父が死んでごたごたした時も、母が再婚して親戚と揉めた時も、かわらず接してくれたのはこいつだけだったから、その辺りは感謝しているけれど。
 でも、それとこれとは話が違う。
 それはあくまで古くからの知り合いに対する友情(と言えるかどうかもわからない)でしかなかったはずだ。私はともかく、あんたはそうだったんじゃないのか。
 神の前で愛を誓い合うような関係じゃなかったはずなのよ。
「本当に結婚するつもり」
 小声で尋ねた私に、男はにっこりと笑った。
「当然だ」
 ああ、やっぱり。
 どうして、これは夢じゃないんだろう。
 私は祭壇の上に飾られた神の像を縋るように見た。
 神様、夢ならすぐに目覚めさせてください。そして、私に平穏な日々を返してください。
 しかし、どんなに願っても、目が覚めることなんてない。
 当然なんだけどね。 


 そもそもの始まりはなんだったのだろうと思い起こせば、お城で舞踏会に出たのが間違いだったんじゃないかと思う。
 いや、それは完全に八つ当たりか。
 王室主催の舞踏会は定期的に行われているから、別に問題はない。
 問題はそこではなくて、第三王子がいつまでも嫁を貰わなかったせいだ。
 第三王子。
 今、私の横で笑顔を振りまいているこの男だ。
 正妃の2番目の子供で、その優秀すぎる頭脳と強すぎる剣の腕で、国内外に知れ渡っている。
 王位継承権は3位だが、あまり王座には興味がなく、体を動かす方が好きだという理由で騎士団に所属。確か1年前から黒騎士団団長だったはずだ。
 結構部下に慕われているらしいというのは、誰が言っていたんだっけ。
 義理の妹だったか、家庭教師だったか、母親だったか。
 彼の評判はよく、女性にももてる。
 しかも身分は王子だ。これで、年頃の娘を持つ貴族や周辺の国が放っておくはずがない。
 実際、王太子である第一王子は結婚しているし、第二王子には許嫁がいる。
 当然第三王子である彼にもその手の話は幾つも来ているはずなのだが、その全てをことごとく断っているのだ。
 いつだったか会ったときに、鬱陶しいだの面倒だの文句を言っていたのを覚えている。
 だが、断り続けるのもだんだん難しくなってきたのだろう。王族の結婚には本人の思惑以外のものも絡むわけだし。
 最近では、舞踏会が開催されるたびに、周りから女性を紹介され、ものすごく機嫌が悪かった。立場上、出席しないわけにはいかないから、辛かったのはわかる。
 でも。
 だからといって、まさかこちらに結婚の話をふってくるなんて、想像しなかった。
 すべてはあの日から始まった。
 私は、ついこの間のことなのに、遠い昔に起こった出来事のような、運命を変えた日のことを思い出していた。

  * *

 その日は、王室主催の舞踏会だった。
 私も他の貴族の令嬢と同じように、当然出席した。
 踊るのは好きだし、華やかな場所も結構好きだ。普段会えない友達に会えたりもするし、鑑賞に値するようなかっこいい男性も見れたりする。
 けれども、その日の舞踏会は、いつもと雰囲気が異なっていた。
 ある噂が流れていたからだ。
 それは、いまだ相手のいない第三王子のこと。
 彼がこの舞踏会で、とうとう相手を選ぶのではないか、という噂だ。
 もちろん根拠のない話だけれども、まったくありえないとはいえない微妙な噂でもある。
 そのせいなのかもしれないが、その舞踏会には、名だたる貴族の娘たちが多数参加していた。未婚で婚約者もいない令嬢たち。おそらく、彼らの目当てはエジード。
 私もその中の一人。
 母親がめずらしく絶対参加しろといったから、間違いない。
 もちろん、エジードが私を選ぶはずはないと思う。
 だって、彼は私に恋愛感情を持っていない。
 いつだって、彼にとっては私はからかいがいのある生意気な女の子のままなのだ。
 それでも、ふてくされて行きたくないなんていうほど、子供じゃない。
 華やかに着飾って、母親と共に淑女らしく、他の貴族たちと踊ったり挨拶をしたり、とありきたりに舞踏会を楽しんでいたのだ。
 その全てをぶちこわすようなことになったのは、ダンスを終えて戻った後。
 その時、ふと目に付いたのは、王と話をするエジードだったのだ。
 陛下が座る王座はここから近かった。
 見たところ、二人は何かを揉めているように見える。
 困ったような陛下と、不機嫌な顔のエジード。
 切れ切れに、『面倒』だの『まだその気はない』だの聞こえてくる。
 それだけで、なんとなく話の内容が見えてきた。
 おそらく自身の婚姻のことだ。気の毒にとは思ったが他人事。あまり不躾に王族を見る物ではない。
 そう思って視線を逸らそうとしたところで、陛下とエジードは、私に気が付いた。
 まず反応したのはエジードだ。
 こいつは、私の方を見て、にっこり笑った。
 それこそ、王子様らしくすばらしい笑顔だった。
 そして、爆弾発言をひとつ。
「面倒くさいな。もういいです。これにします」
 これ、と言った彼は、確かに私の方を向いていた。
 間違いかと思ってきょろきょろするが、ここには私しかいない。
 陛下は私を見ている。
 エジードも私を見ている。ついでに周りの人達も。
 冷や汗が背中を流れた。
 しかし、ここで取り乱してはいけない。私はとりあえず、こちらを見ている陛下に向かって、腰を屈め挨拶をした。
 エジードの方は意識して見ない。見てはいけない気がしたのだ。
 それなのに。
 彼は陛下に何事か耳打ちすると、私へ向かって歩いてきたのだ。
 しかも、満面の笑み。
 こういう顔のエジードは、ろくな事を考えていない。
 どうやって逃げようかと考えている私の心を読んだかのように、彼はさりげなく手を伸ばし、私の手を取った。
 何この完璧で優雅な仕種は。
 旗から見れば、王子にダンスでも申し込まれたように見えるかもしれない。
 でも違う。
 彼の手があるせいで私はその場から動けなくなっているのだ。
 ものすごく嫌な予感がする。
「イヴェット、俺と結婚しろ」
 いや、だから、どうしてそんなに上から目線。
 しかも、何もかもすっとばして、結婚ときた。
「エジード殿下、冗談、ですよね?」
「いや、本気だが」
「ははは。王子ともあろうお方が、舞踏会で唐突に求婚だなんて、ふざけているとしか」
 そう言うと、彼はにやりと笑った。
「父上には承諾してもらった」
「え」
「俺の妻になれ」
 恐い、恐すぎる。顔が笑顔なのに、目が肉食獣のようだ。
 しかも、きっとこれには拒否権がない。
 汗がだらだら流れる。
「イヴェット?」
 甘く優しい声が、私の名前を呼ぶ。
「返事をしないなら、承諾ととるぞ」
「何馬鹿なこといっているのよ」
 驚きのあまり言葉遣いがいつも通りになっていたけれど、気にしている暇もない。
「父上の持ってくる相手にはうんざりしているんだ。誰でもいいなら、お前の方がましだ」
 その理由は、ある意味ものすごく失礼になるんだけど。
「だから、俺と結婚しろ」
「嫌だといったらどうするつもり?」
 念のため聞いてみる。
「命令してもいいが、それは不愉快だろう? だからお願い、だ」
「充分、命令に聞こえるけど」
「では、言い直そうか」
 彼は私の手をとったまま、ふいに膝を突き、騎士が忠誠を誓う姫君にするように恭しく私の手の甲に口づけた。
 驚きのあまり固まった私を、唇を離した彼が見上げ、熱っぽい目差しを向ける。絶対演技だ。わかっていても、あまりにも様になっているから、心臓に悪い。
「イヴェット・フェン・アルヴァレス。私と結婚していただけないでしょうか」
 よく通る声が、辺りに響きわたった。
 これ、わざとだ。皆に聞こえるように大きな声を出したに違いない。
 その証拠に、周りにいた人たちが、こちらに注目している。中には顔を赤くしている令嬢もいるし。
 それに。
 まさか、これだけ大勢を前に求婚している俺に恥をかかせたりしないよな。
 エジードの目が、そう言っている気がした。
 くそー。やられた。まさか、こういう行動に出てくるとは思わなかった。万が一のことがあるとしても、ここで求婚なんてありえないよ。
「さて、返事は?」
 そう言われて、頷く以外の選択肢が、その時の私にあっただろうか。
 ない。絶対ない。
 私に出来たことは、ただ引きつった顔のまま頷くだけ。
 周りがものすごく盛り上がっているのを感じながら、文句を言いたいのを必死で我慢するしかなかった。

  * *

 そして、今私は国最大の神殿の神の間にいる。
 あの日から、今日までは短かった。
 次の日には、王室から正式な使者がやってきて、あっというまに婚約が整ってしまった。
 心の準備もできないうちに全てが進んでいて、気が付けば私はエジードの隣に立っている。
 いや、別にエジードのことが心から嫌いというわけではない。
 子供の頃は、王子様そのものの容姿にときめいたこともあった。
 今だって、貴族の令嬢としてではなく、イヴェットとして接してくれる彼のことは好きだ。ただ、それは恋人とかそういうのではなく、馬鹿なことをいいあったりケンカしたり本音で話すことが楽しいということであって、決して恋愛感情じゃない、はずだ。
 私はともかく、彼は絶対そうだと思っていた。
 だから、これは契約みたいなものだ。
 面倒くさいから。
 いい加減結婚しないと周りがうるさいから。
 それなのに、神の前での彼の言葉は、本当の愛を誓い合うかのように、優しいものだった。


 式典だの、お披露目だの、王族への挨拶だの、とにかくこれでもかという婚儀絡みの行事から私が解放されたのは、すでに真夜中近くのことだった。
 疲れた体を休ませる暇もなく、文字通り湯殿に放り込まれる。
 これが花嫁に対する仕打ちかと文句を言いたくなるほどごしごしと磨かれ、香油を塗りたくられ、ちょっとこれ淑女としてはどうよっていう薄手の衣を着せられて、送り出されたのは、もちろん寝室。
 それは当然だろう。
 私とエジードは夫婦になった。
 いきなり初日から別々の部屋なんてことは、ありえない。
 そして、何故か寝台の上で面倒そうに横になっている男が一人。
「遅いぞ」
 あれ、こういう場合って、普通、花嫁の方が先に待っているものじゃないの?
 別にどっちでもいいけれど、エジードは広い寝台の真ん中に陣取っているし、ものすごく面倒そうな態度を隠さないし。
 さて、私はどうするべきなのか。
「どうした、こっちへ来ないのか?」
 とても魅惑的な笑顔を浮かべて、彼は問いかけてくる。
 いけない、今ちょっとくらっときた。しかもよく見ると、エジードは上半身裸で腰のあたりから下を掛布で隠しているだけだ。
 ありえない。
 というか、なんで、夫の方が誘惑するような立場にいたりするの?
「ひとつ聞いてもいい?」
 扉を背にして突っ立ったままの私は、質問してみた。
「どうして、あなたの方が先にいて、私を迎えているの? うちのうるさい乳母あたりは、逆のことを言っていたような気がするんだけど」
「お前の用意が整うまで別室で待っていろというのか。疲れているのに」
 ああ、そうか。私の支度は結構時間がかかっていた。その間、寝室に入らず待たされるとしたら、私だって結構辛い。
「確かに、今日一日、笑いっぱなしで疲れたかも」
「そうだろう。さすがに俺も疲れた」
 そうだよね、彼は王族だから、行事関連に丸一日参加なんて、よくあることだ。
 私だって一応貴族の端くれ。そういう行事が大変なことは知っている。しかも、こう見えてエジードは仕事に関しては真面目だ。面倒だといいつつも、公務はきっちりとこなしている。手を抜いたところを見たことがない。
 明日だって、まだいろいろ控えている婚儀絡みの行事があるのだ。
 私も早く寝てしまいたい。
 幸い、王太子と違って、第三王子である彼に対しては、昔のように隣の部屋で、本当に二人が夫婦になったかの確認のために聞き耳をたてているなんて、とんでもないしきたりは行われない。
 だから、別に二人が何もしなくたって、怒られたりはしないはずだ。
 うんうん、そうだよね。
「イヴェット。いつまでそこで突っ立っているつもりだ?」
 苛立ったような声に、私はエジードを見た。
 やっぱり疲れているのだろうか。顔が恐い。
「ごめん、眠いでしょう、だから」
 私のことは気にせず、寝ていいよと続けるつもりだったんだけど。
「いつまで俺を待たせるつもりだ、奥方様?」
 笑みを浮かべて寝台の中から私を誘う男の真意を測りかねて、私は扉の前で立ちすくむ。
「え、何。待たせるって、どういうこと」
 とりあえず、すっとぼけてみたが、彼にそんな態度は通じなかった。
「俺は別に嫌じゃないんだそ」
 含みを持たせるような言い方と艶っぽい目差しに、頬が一瞬熱くなった。
 どうしてそんな眼差しでこっちを見るの。
 まるで、普通の恋人同士みたいな。ああ、今は夫婦か。 
「せっぱ詰まって、仕方なく“私で妥協”して結婚したのよね?」
「そう言ったかもしれないな」
「それなら、別に一緒の部屋で、夫婦みたいに生活しなくてもいいのでは?」
 無駄な抵抗だって、頭ではわかっている。
 私、こいつに勝てたことって一度もないんだよ。
「別に一緒の部屋で、夫婦みたいに生活しても俺はかまわない」
 あっさりと言うエジードは、本当に別人みたいだった。
 いったいどうしちゃったのよ。いつもの意地悪な態度は何処へ行った。
「それに、そんな格好で立っていると、寒いんじゃないか」
「確かに寒いけど」
 着せられた夜着は、肌触りがいいが生地は薄い。もう春とはいえ、さすがに寒い。
「だったら、こっちへ来い」
 エジードが、自分の隣をぽんと叩く。
「うぅ」
 隣。エジードの隣。
 同じ寝台で、エジードの側。なんだか、いろんな意味でまずくない? 私だって健全な女性。エジードだって、そう。一応夫婦なんだし、なるようになるのは間違いない気がする。これで、顔だけはいいし。体だって、騎士だけあって、やっぱり引き締まっているし。
 じゃなくて。
 何考えているだ、私。
「何もしない……なんてことは」
「ないな」
 あっさり言ったな、こいつ。
 うう、やっぱりいい加減、覚悟を決めた方がいいんだろう。
 そうよ、何も知らないどこかの男よりは、エジードの方がずっとまし。意地悪だけど。
 女は度胸。そうお母様も言っていた。
 そろそろと、私は寝台に近づく。
 警戒していたのに、端まで来たところで、彼の手が私の腰に伸びてきて、そのまま絡め取るように引き寄せられた。
 あっさりと彼の腕の中に収まった私は、あせるよりも驚いてしまって、彼の顔をまじまじと見つめる。
「ちょっと、やっぱり本気なの?」
「本気だよ、奥方様」
「その言い方、気持ち悪いからやめて」
「では、昔のように呼ぼうか?」
『俺の愛しいお姫様』
 耳元で囁かれて、どわーっと叫びたくなった。
「や、やめて、はずかしいから、すぐやめて」
「どうしてだ?」
「お姫様って柄じゃないでしょ! というか、それ、褒め言葉じゃなくて、あんたが私に仕返しするとき言ってた言葉じゃないの!」
 それとも、これは仕返しなのか? 私、何かした? 確かに心当たりはありすぎるくらいだけど、だからといってこれはないよ。
「そうだったか?」
 涼しい顔でそう言われて、悔しさのあまり、男の胸をぽかぽか叩いた。
 このくらいの非力な力じゃ、全然痛くもないだろうけどさ。
「あきらめろ。俺は最初から、お前を選ぶつもりだった。少し予定が早まっただけだ」
「何ー!」
「馬鹿だし、胸がないし、性格も悪いが、初めて会った時から面白い奴だって思っていたからな。どうせ結婚するなら、こういうのがいい」
 ちょっと待て。
「初めて会ったときって、私まだ8歳だったよね?」
「ああ」
「あんた、13歳になったばかりだったよね」
「そうだな」
「あの頃からそんなこと考えてたの」
「いや。ただ、俺がお前に引き合わされたのは、将来的にそうなる可能性を大人たちが望んでいるのだろうとは思った」
 そうかもしれない。
 あの頃実父は生きていたし、父にそういう思惑がなかったといえば、嘘になる。
 母の方も、エジードのような息子が欲しいと言っていた気もするし。
「俺は、お前に会わせてもらったことは感謝しているぞ」
 今までの態度を見ていると、とても感謝しているとは思えないんだけど。
 しつこいようだけど、意地悪だったし。
「俺を含めて王子たちに子供らしさは必要ない。そう育てられていた。だから、お前に会うまで、取っ組み合いのケンカをしたり、いたずらをしたり、大声を出したりしたこともなかったよ。面と向かってケンカを売ってきたのは、お前が初めてだった」
「いや、アレは初対面でいきなりあんたがちびって言ったからだし」
「小さかったじゃないか」
「子供だったのよ」
「同じ年の子は、もっと大きかった」
 そうかもしれないけれど。あれでも一応気にしていたんだからね。
 大体、目の前に現れたかっこいい男の子にあんなこと言われたら、普通怒るでしょう。
 まあ、それがあったから、今のような関係になれたとはいえるけど。
「でも、楽しかったのは確かだ」
 懐かしむように細められた目は、あの時と同じだった。
 いたずらっ子で生意気な少年だったエジード。
「お前以外の女は、みんな俺を“王子”として見る」
「私も一応、王子として見てましたけど」
「あれで?」
「あれで、よ」
 そこで笑うことはないじゃないの。
「だって、アレが他の男の子だったら、容赦なく報復してたもの。エジードだから、ちょっとは遠慮したのよ。それに」
「それに?」
 真剣な目で見つめられて、口ごもる。
 これは、本当は言わないでおこうと思っていたのに。
「エジードも同じだった。私を侯爵令嬢として扱わなかったもの」
「そうだったかな」
「そうだったよ」
 だから、ちょっと嬉しかったのよ。
「お互い様だったのよ」
 私が言うと、そうかと呟いてエジードは笑った。今日のエジードはよく笑う。
 普段皆の前で浮かべているような、王子らしい笑顔じゃない。
 えらそうだけれど、どこかちょっと子供みたいな笑み。イタズラをするときによく浮かべていたものだ。
 最近では、滅多に見ることはなかった、私だけが知っているエジードの素の表情。
「さて、俺のお姫様。朝まではまだ時間があるが、どうする?」
「どうするって」
「夜に夫婦がすることは、そうたくさんはない気がするが」
 そうでしょうとも。
 わかっているわよ。
「10年待ったんだ。これ以上、もう待たせるな」
 10年? とんでもないことを言い出すわね。
「口説くのが遅くない? それに今まで散々意地悪してきたくせに」
「いや、遊んでいただけだ」
「あれを遊びといいますか」
 散々な目に合わされた記憶が蘇るんですけれど、そうか。あれはエジードにとっては、遊びだったのか。
 ふふふふふ。
 なんだか、変な笑いが溢れてくる。
 そんな私をエジードは、ちょっと恐いものでも見るような目でみた。
「泣かせた時は、ちゃんと謝っただろう?」
「泣かせた時しか謝らなかったじゃない」
「でも、最後には俺を許してくれた。俺から逃げず、側にいてくれた」
「それは」
 あんたがいつも一人だったからじゃない。
 側に誰もいなかったからじゃない。私は、可哀想だから側にいただけなんだから。
 それに、心の底ではわかっていたことがある。
「エジードは、本当に嫌なことはしなかったから。……蛙以外はね」
「あれは、悪かったと思っている」
 エジードが珍しく落ち込んだ顔をした。
「あの時は、本気で嫌われたと思った。どうしたらいいのかわからなかった」
「本気で嫌いになるかと思ったわよ。でも、必死で謝るから」
 普段、すごくえらそうなのに、あの時のエジードは泣きそうだった。
 お菓子を持って差しだす手が、ちょっとだけ震えていた。
 あなたは、そんなことなかったって言うだろうけれど、あんな悲壮な顔で何度も謝られたからこそ、心からの謝罪だってわかったのよ。
 されたことは今でも思い出すと腹立たしいけれど、それ以降、彼は決して同じことはしなかった。
 反対に、滑稽なくらい蛙に関しては気を遣うようになったのよね。
「あの時気付いた。お前に嫌われるのが俺は一番恐い。お前に見捨てられたら、俺はどうすればいいんだ? そう思った途端、頭が真っ白になった」
 彼の思わぬ告白に、私の方も真っ白になった。
 何、あの時、そんなことを考えていたの?
 たかが生意気な女の子相手に、そんなことを悩んでいたなんて。
「馬鹿だよ、エジード」
 確かにものすごく怒ったけれど、私があなたを見捨てるなんてありえないのに。
 それよりも、あなたの方が私を嫌うんじゃないかって、そう思っていた。
 私は頭もよくないし、性格も悪いし。他の令嬢のように完璧な淑女にもなれない。だから、友人として、あなたの側にいられるだけで嬉しかったのに。
 そんな私に嫌われるのが、あなたは嫌だという。
 あー、だめだ。
 負けた。
 なんだか、本当に負けたって思った。
 そこまで言うなら、もうこっちだって覚悟を決めるしかないじゃないの。
「仕方ないから、一生つきあってあげるわよ。神様の前で誓ったわけだし」
「そうだな、もう誰に邪魔されることのない関係だ」
 嬉しそうに笑って、彼は私の腰に回した手に力を込めた。
 お菓子をもって謝りにくる時に見せる、素の笑顔。
 なんだかんだいって、私はこれに弱い。結局、許してしまうのだから。
「しかし、細いな。胸ももうちょっとあった方がいい」
「余計なお世話だし」
「まあいい。俺が毎日努力すればいいだけだ」
 何を?
 何を努力するっていうの。
 いや、これは聞いてはいけない。聞いたら負けな気がする。うん、絶対聞いてやるものか。
「愛しているよ、俺のお姫様」
 真顔で言うな。
 ちょっとは嬉しいけれど。……正直、結構嬉しいけれど。
 お姫様はやめてほしい。
「まずは、口付けから」
 優しい声でそう呟くと、エジードは私の頬に触れた。まるで壊れ物を扱うように慎重で繊細な動きだった。
「やっと、手に入れた」
「え?」
 聞き返す間もなく、私は彼に引き寄せられた。
 さきほどまでよりは、更に互いの体が近づく。
 目が合った、と思った瞬間、彼の唇が私の唇と触れあった。
 とても甘い口付け。
 彼がいつも持ってくる砂糖菓子よりも、もっと、ずっと。
 ああ、やっぱり彼には勝てない。
 私はエジードにされるがままに、その甘い口付けを受け入れた。

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