遅い夏がやって来た頃、イヴェットは王宮近くに建てられたエジードの別邸にいた。
エジードが所領するアルベール領は王都から近いが、それでも来るのに一日はかかる。
結婚して間もないとはいえ、王族の一員になったイヴェットは夫とともに式典や行事、貴族たちが王都の私邸で主催する晩餐会に招かれることも多い。
自然と、領地と王都を行き来することにもなる。もちろん今回の別邸滞在も、幾つかの行事と晩餐会へ出席するためだった。
ちなみに、肝心の夫の方は騎士団の仕事が忙しく、領地へは殆ど帰って来ない。そのため、領地の方は慣れないイヴェットが周りに助けてもらいつつなんとか取り仕切っているという状況だ。
忙しさからいえば、領地にいる方が大変なのだが、気分的には別邸で過ごす方が憂鬱だった。屋敷内では、ほとんど一人きりということも原因の一つだ。
自身の両親が住む領地は遠いし、王都に気安く話せるほどの親しい友人は少ない。
それに、独身だった頃に比べ、自由に外出したり人を呼んだりすることも頻繁には出来なくなった。
アルベールならば少々の融通は効くのだが、さすがにここではそうはいかない。
故に、イヴェットは少しばかり一人の時間を持て余していたのだ。
そんな時、彼女を訪ねてきたのは、友人のフェリシテである。
彼女は3年前結婚し、夫の領地であるブランシャールに住んでいた。
今回、夫と共に王都へやってきていると知ったイヴェットが、彼女をお茶に招いたのだ。
「で、どうなの、新婚生活は」
訪ねてきたフェリシテの第一声はいきなりそれである。
「久しぶりにあった友人に対する最初の言葉がそれってどうなのよ、リシー」
扇で口元を隠しながら、フェリシテは上品に笑った。
どこからどう見ても完璧な子爵夫人だが、昔はイヴェットと共にに野山を駆け回った仲だ。
「あら、だって、親友の新婚生活よ。おまけに相手はアルベール公ですもの。これで気にならない方がおかしいのではなくて?」
「確かに立場が逆だったら、気になるけれど」
「そうでしょう?」
その目の中の溢れんばかりの好奇心をフェリシテは隠すつもりはないようである。
今日はとことん話を聞き出すわよ。
そう言っているようにも見えて、イヴェットは思わず苦笑してしまった。
「で、先ほどの質問に答えてもらいたいのだけれど」
客間に落ち着いたところで、再びフェリシテが尋ねてくる。
目の前に出されたお茶にさえまだ口をつけていないというのに。
せっかちなところは、昔と変わらないらしい。
「思っていたよりも公務が忙しいかな。今は落ち着いてきているけれど」
王族は忙しい。
視察だの、慰問だの、式典だの、とにかく頻繁に行事に参加しているような気がする。
「覚悟はしていたけれど、大変だわ。しばらくは第三王子の噂の妃を見たいって人が多いから仕方ないんでしょうけど」
「アルベール公は人気があるからね」
それは知っている。出会う人に、いかに自分の夫になった相手がすばらしい人間なのか、選ばれたイヴェットがどれだけ幸せなのかを、嫌味ったらしく聞かされているのだ。
その殆どが、エジードに娘を嫁がせたかった貴族の夫人やその令嬢だったのだが。
「あんなに意地悪なのにね。みんなエジードに夢を見すぎよ」
「意地悪なのは、イヴ限定でしょう?」
そんな限定はいらないと思うのだが、どうやらフェリシテの中では、そういう認識らしい。
「ところで、エジード殿下は? いらっしゃらないの?」
「それが」
イヴェットの顔が曇る。
「騎士団の方が少しごたごたしていて、夕べから帰ってきていないのよ」
「あら、それならば、イヴ一人なの?」
「そう。ここのところ、慰問や行事も一人で参加っていうことが多いの。明日招かれている晩餐会も私だけになりそう」
考えるだけで憂鬱だった。やはり新婚の妻が一人というのは格好がつかない。
「代理で出ることは一度や二度じゃないから、いいけれど。忙しすぎて、というか、エジードは騎士団の仕事が好きなのか、どうもあっちを優先するんだよね」
「あら、まあ。うちの主人と一緒ね」
「ダルベルト子爵も?」
「そうなのよ! ちっとも私にかまってくださらないわ。今日だって、仕事絡みで人に会うからって、いなくなってしまったし」
男どもは、どうしようもないわね、と二人で笑い合う。
「それにしても、今回の晩餐会は憂鬱でしょう。私も出席するのだけれど、あまり乗り気ではないわ」
「そうね、エジードにも気をつけろって言われてる」
エジードが側にいなければ、いろいろな思惑がある人間が近づいてくる。彼らは、イヴェットを懐柔して、なんとか王族と繋がりを持ちたいのだ。中には夫がいないのを知っていて、露骨にイヴェットに誘いをかけてくるものもいる。
特に、今回招かれた相手は、現国王に対してあまり良い感情を持っていない貴族だ。
楽しい晩餐会になるとは思えなかった。
「とりあえず、馬鹿で無知なふりをしていろって言われているんだけど」
「殿下らしいわね。もちろん、ただ馬鹿なフリをしているわけじゃないでしょう?」
「相手が言ったことを正確に覚えていて、教えてほしいって言われたわ」
どこまで出来るかはわからないし、駆け引きなどが苦手なイヴェットには、それも憂鬱になる要因だった。
それに気になることは、それだけではない。
イヴェットは、自身の左手をちらりと眺めた。それに気が付いたフェリシテも顔を顰める。
イヴェットの手首から手の甲には真新しい包帯が巻かれていた。
「その怪我、例の事件で?」
「子爵に聞いたの? そう、別邸に来てすぐの時襲われちゃった。たいしたことはなかったし、相手は私よりももっと重症だから」
ふんなぐったうえに、蹴り飛ばしたから。
そう言ってイヴェットは笑うが、フェリシテの顔は強張っている。
「大丈夫なの?」
「まあね。エジードが邪魔だって人間も、いないわけじゃないから、覚悟は出来てるし、警戒はしているよ。エジードの慌て方は面白かったけれど」
イヴェットの怪我を知らされたエジードは、厳しい顔で部屋に駆け込んできたのだ。あんなに慌てる彼は初めてみたし、その後しばらくは彼女の手の傷を見るたびに、不機嫌になっていた。
「あらまあ。そうなの? 殿下も、心配ならちゃんと側にいればいいのに」
「そうもいかないでしょう。それに、信頼出来る騎士をつけてくれてたわ」
「ああ、あの綺麗な顔の」
「そうそう、顔はああだけど、強いのよ」
今はいないが、フェリシテを出迎えた時、イヴェットの側には騎士が一人いた。
黒騎士の紋章を付けていたから、エジードの部下だとは思っていたのだが、彼がつけた護衛なのだろう。ここには他にも屋敷を守る者がいるはずなのだが、わざわざ騎士を屋敷内に入れるとは、エジードはイヴェットのことがよほど心配らしい。
「いいわね、騎士団の方――特に黒騎士は皆のあこがれよ。側で見ることが出来るなんて羨ましいわ」
フェリシテの言葉に、イヴェットの目が輝いた。
とっておきの秘密を話すかのように、わずかに身を乗り出す。。
「実は、エジードから、騎士団の詰め所や訓練所への出入りを許してもらっているの。いいでしょう」
騎士はやはり軍人としては特別だ
誰でもなれるというものではないし、身分や血筋だけが必要というわけではない。
コネがないとはいえないが、きちんと実力がなければ、騎士として周りに認められないのだ。
それに、心身共に鍛え上げられている彼らは、見ていて気持ちいい。イヴェットも幼い頃、憧れたものだ。剣の扱いがまったく駄目という悲しい事実がなければ、2番目の姉のように騎士になっていたと思うくらいに。
「女性の騎士もたくさんいるし、みんな優しいよ。エジードが構ってくれない分、相手をしてくれるし」
「ああ、それでか」
「何?」
「殿下ったら、『俺の愛しいお姫様は、自分といるより騎士団にいる方が楽しそうだ』なんて主人に愚痴っていたらしいもの」
そういえば、ダルベルト子爵とエジードは親しい。一緒の師に剣を習ったとも言っていた。ダルベルト子爵の領地には国境を守る砦も含まれているから、騎士団長としてのエジードと連絡を取り合っているということも聞いている。
とはいえ、夫婦の内情をそうべらべらと話されるのは面白くない。
「何いっているのよ、あの男は」
「イヴにかまってもらいたいんじゃないの?」
充分かまっている。
というより、仕事が忙しすぎてエジードが領地にいないことがすべての原因ではないのだろうか。
はっきりいって自業自得である。
「大体ね、前から、楽しそうに騎士団の仕事をこなしているとは思っていたけれど、あそこまでとは思わなかったのよ」
「確かに、殿下は、騎士の仕事の時はいきいきしているわね」
「でしょう? 剣だって、他の人間には任せられないって、自分で手入れしているし。馬の世話もしたいみたいだけれど、それはさすがに止められていたかな」
「……ますます主人に似ているわね。だから友人をやっていられるのかしら」
「そうかも」
お互いの夫のことを思い出し、二人して溜息をついた。
「本当に、どうして私たち、こうやっかいな男と結婚しているのかしらね」
フェリシテは困ったことだという顔をしながらも、楽しそうである。
「そうよねえ。男運が悪いのかもね」
そう言うイヴェットも、それほど悲観的ではない。フェリシテと同じく、楽しそうであった。
「でも、イヴェットが元気でよかったわ」
いろいろ心配していたのだと言い、フェリシテはイヴェットの怪我をしていない方の手をぎゅっと握った。
「私はいつでもあなたの味方だから。困ったことがあったら、頼ってね」
「ありがとう、リシー」
「当然よ。あなたが独身の時、私散々あなたに愚痴っていたんだから、今度は私の番。それからいつかブランシャールにも遊びにきてね。不本意だけど、殿下も一緒に」
「とても嫌がりそうだけれど、きっと連れていくわ」
普段は静かな客間に、明るい笑い声が響き渡った。
その日、別邸では、お互いの夫の愚痴あるいは惚気が散々話されたのだが、もちろん夫たちはそのことは知らない。
奥方達だけの秘密なのである。