その小さな黄色い花を差しだすと、旦那様は驚いたように目を見開いた。
いつも穏やかな表情の旦那様がそんな顔をするのは、めずらしい。
読んでいた本を閉じると、私と花に交互に視線を移す。
「いったいどうしたんだい?」
ああ、やっぱり。旦那様ってば、今日が何の日か忘れている。
自分が納める領地内の行事の日付は忘れないのに、自身のことは誕生日だって忘れている人だ。
わかってはいたけれど、私としてはかなり悲しい。
「だって、私と旦那さまが出会ってちょうど1年ですよ。だから記念です」
この花は、旦那さまが好きな花だ。
私がこの地に初めてやってきた日も、部屋にはこの花が飾ってあった。私の誕生日の時には、花を象った髪飾りを贈ってくれたし、森の奥の、この花が群生する秘密の場所を教えてくれたのも旦那さまだ。
だから、今日は早起きして、敷地のはずれにある湖まで、この花を摘みにいったのに。
「ああ、そうか。あなたと結婚して、もうそんなになるのか」
感慨深げに呟いた旦那さまの顔は、まるで孫の成長を見守るおじいちゃんのような雰囲気だ。
だめだよ、旦那さま。そんな顔をするから、屋敷のみんなから私達のこと『夫婦』じゃなくて『親子』に見えるなんて言われてしまうんだよ。
確かに、私と旦那さまは政略結婚で、年も離れていて、初めてあったのは結婚式の当日という貴族にありがちな関係からはじまったけれど。
でも、私は旦那さまのことが嫌いじゃない。
大きいしすごく大人だったし、素っ気ないしで、最初はどうなることかと不安にもなった。
けれど、旦那さまは自分の子供くらいの年齢の私ときちんと向き合ってくれたから、ちょっとずつ私は旦那さまのことが好きになったんだ。
「ありがとう、ライラ。嬉しいよ」
花を受け取った旦那さまは、空いている方の手で、私の頭を撫でる。
いつもの癖だ。最初の頃は、子供あつかいされているようで嫌だったけれど、今はそれほどでもない。
「ねえ、ライラ。記念の日だというのなら、ひとつお願いしてもいいかな」
私が渡した花を自分の手で部屋に飾ったあと、しばらく考え込んでいた旦那さまが急に何かを思いついたように言った。
その目が、随分と楽しそうだ。
こういうときの旦那さまは、要注意だ。
とんでもないことを言い出して、周りを慌てさせるのだから。
身構えた私に向かって、旦那さまは、にっこりと笑う。
「できれば、旦那さま、じゃなくて名前で呼んでほしいんだが。どうだろう。あ、様とかさんとか付けるのもなし」
「ええ!」
大声で叫んだあと、私は慌てて口を閉じた。
どんな時でも、優雅に振る舞い、大きな声をあげてはいけない、と皆に言われている。領主夫人らしく、貴婦人らしく振る舞わっていないと、後で怒られてしまう。
旦那さまもあきれたかもしれない、とそっと上目遣いに確かめると、いつもと同じ穏やかな顔が私を見ていた。
変わらないっていうのが、ちょっとだけ恐いかもしれない。
「でも、旦那さま。旦那さまは、やっぱり旦那さまだし……」
いくらなんでも、親子以上に年の離れた人を、呼び捨てになんてできない。
「じゃあ、私も君のことを奥さん、としか呼ばないよ」
それもおかしい気がします、旦那さま。
「う、うーん。難しいことをお願いしますね、旦那さま」
「そうかな。そんなことないと思うよ、奥さん」
旦那さまは時々意地悪になる。
年上に癖に、こういうところは変に子供っぽい。
うんうん唸っていると、旦那さまがまた笑った。
「仕方ないな。しばらくは一日一回で許してあげるよ。慣れてきたら、ちょっとずつ増やしてもらうということで」
「そんな……」
頭の中で、旦那さまの名前を呼ぶ自分を想像する。
いや、しようとしたけれど、なんだか頭が拒否している。
だって、だって。ずーっと、旦那さまって呼び続けていたんだから。今更、そんなの恥ずかしいよ。
「で、今日はいつ名前を呼んでもらえるのかな」
そう言うと、旦那さまは、嬉しそうに笑った。
出会った頃にはあんまり見ることができなかった優しい笑顔に、私は弱い。こんな顔でお願いされたら、絶対断れないのだ。きっと、旦那さまもそれをわかっている。
仕方ない。
恥ずかしいけれど、頑張ってみよう。こんなの、礼儀作法を習うことよりもずっと簡単、なはず。
私は覚悟を決めて、旦那さまに顔を近づけると、小さな声で呟いた。
「ええと、だったら、夜、みんなのいないところで」
旦那さまは、『夜に二人きりでなんて、うちの奥さんは大胆だね』と笑った。
そういうイミじゃないのに。そう思ったけれど、あんまり旦那さまが楽しそうだったので、否定するのはやめておいた。
記念日だからね、一応。