スウィートキス

Novel

 華やいだ雰囲気の女性たちが目の前を通り過ぎていくのを、柏木栞は不機嫌な顔で眺めていた。
 本日は2月14日。
 いわゆるバレンタインデーである。
 誰もがとびきりのおしゃれをし、浮かれた様子に見えるのは、自分の僻みだろうか――そんなことを考えてしまうのは、栞がたった今、恋人という関係にあった男性に振られてしまったからだ。
 よりにもよって、こんな日、ということに腹が立ったが、その理由を思い出したとたん、額に青筋がたってしまうのは、仕方ないだろう。
『他に好きな人が出来たんだ』
 さっき聞いたばかりの言葉が、頭の中でぐるぐると回り始める。
『こんな気持ちではつきあえない』
 告げられた言葉は、確かに怒って当たり前のことだけれど。
 それはいいのだ。
 それほど、深いつきあいにはなっていなかった。
 元々は、友人の知り合いの知り合いから紹介され、強引にくどかれ、話も合うのでずるずると交際を始めたのだから。
 イベント好きなのには参ったけれど、一生懸命こちらに接してくるので、それなりに印象もよかった。今までつきあっていた男性や知り合いと比べて格段に真面目だったし、誠実そうに見えたので、安心もしていた。
 それがいけなかった。
 うっかり、あいつに会わせたりしなければよかった。
 何度も同じ過ちを繰り返してきたのに、どうして、今回に限って『大丈夫』だなどと思ったのだろう。
 絶対、なんてことはありえないのに。
「どうしようかな、これ」
 イベント好きな元恋人のために買った、チョコレートの入った袋をつつく。
 渡すつもりだったが、渡しそこねてしまった。
 自分で食べるというのも、むなしいような気がする。
「どうしようかな、ほんとに」
 困ったようにため息をついた。
 その時。
「何してんだ? こんな人目のあるところで、ため息ついて」
 頭の上から声が降ってきた。
 それは確かに聞き覚えのあるもので。
 しかも、今一番聞きたくないもので。
 栞の頬がぴくりと震えた。
 そこにいるはずの相手の性格を知っているだけに、無視などすれば何をされるかわかったものではないと、しぶしぶ顔をあげる。
 栞の身長よりも頭ひとつ半だけ高い少年が、かがみ込むようにして彼女の顔を覗き込んでいた。
「……諸悪の根源」
 思わずそう呟いてしまう。
 なぜならば。
 栞が恋人に振られる原因をつくったのは、他ならぬこの少年だったのだから。


 彼の名前は隆哉という。
 水田隆哉。栞より二つ年下で、現役の高校生だ。
 すらりとした長身で、足も長い。
 男の子にしては整った顔立ちをしているけれど、どこか冷めたような眼差しのおかげで、かろうじて『女の子みたい』といわれるのを免れている――そんな顔だ。
 幼い頃から見慣れているはずの栞さえ、間近で見ると、心臓のあたりがどきどきしてしまうのだから、さぞかし学校では持てるだろうと思う。
 少しばかり素っ気無い態度をとるせいで、人間関係で損をしているのではなかろうかと、昔は栞も心配したものだが、実際は、『そんなクールなところがいい』などと騒がれたりもしているらしい。
 栞にとっては、幼馴染でもあり、どう繋がっているのか説明に難しいほど離れてはいるが、一応親戚という間柄。親同士も仲がいいので、いとこ達よりは付き合いがあるほうだ。
 親しい友人などは、綺麗な幼馴染がいて羨ましいというが、彼が生まれたときからずっと近くにいるのだから、恋愛対象として見たことはない。
 むしろ一緒にいると比べられたり、あらぬ誤解を受けたり、男性がよってこなかったりする。
 昔は弟みたいにかわいがっていたし、今でも別に嫌いではないのだが、栞がつきあう相手のほとんどに、隆哉のせいで振られているのだ。
 そういう経緯があるので、最近は道で出会っても、素直に喜べない。
「誰かと待ち合わせか?」
 そんな栞の思いを知っているはずの隆哉に涼しい顔で尋ねられ、余計に腹が立った。
「待ち合わせしていたのは事実だけど、さっき思い切り振られた」
「へー、原因は?」
「あんた」
 失礼にもびしっと隆哉を指差した栞に向かって、無邪気に『俺?』と笑っている。
「それは、驚いたな」
 言葉とは裏腹に面白がっていることを隠そうとはしていない。
「ふーん、そういうこと、言うんだ」
 まさに地の底から這い登ってくるという表現がぴったりの声音である。
 普通の人間が聞いたら、引いてしまうような迫力である。
 自分が悪くなくても、『ごめんなさい』と言ってしまいそうな雰囲気である。
 だが、目の前の少年は表情ひとつ変えない。
「俺のせいじゃないだろ? 俺は何もしてないし」
 さらっとした口調で、断言した。
 その通りである。
 理屈ではもちろんわかっている。
 恋人といた時、偶然、道端で隆哉に会っただけだ。
 幼馴染で親戚で弟みたいな男の子、と紹介した。
 そのまま別れてそれきりになるはずだった。
 が。
 その日を境に、恋人の様子がおかしくなり。
 会ってもぼうっとするようになり。
 今日、告白されたのだ。
 好きな人が出来たと。
 そして、それが隆哉なのだと。
 こんな気持ちは初めてだ、とマジメな顔して言われた日には、もう笑ってしまうしかない。
 しかも、だ。
 この理由で振られたのは、一度や二度ではない。
 確かに顔は綺麗で、人を惹きつける目をしてはいるが、黙って立っているだけでもてるなど、世の中間違っているような気がする栞である。
「そうね、あなたのせいじゃないわね。あなたのせいじゃないけど」
 だからといって、腹立たしい気持ちが消えるわけではない。
 むしろ増幅されているような状況だ。
「これで何度目だと思う?」
 栞がそう言うと、隆哉はふんと鼻で笑う。
「どっちかっていうと、迷惑なのは、俺の方だろ?」
「……面白がっているくせに……」
「興味ない奴のことなんて、どうでもいいし」
 こういう男だった。
 興味ある人間や物にはマメなくせに、どうでもいい相手には限りなく冷たい。
 そのくせ、表情を隠すのはうまいものだから、よほど親しい間柄ではないと、隆哉が相手を嫌っているかどうかもわからない。
「あの男は、栞には似合わないよ。栞のこと何も知らないくせに、ずうずうしく彼氏だなんてどうかしてるし」
 隆哉の顔は言葉とは裏腹に笑顔だ。
 こういう時の彼は、絶対何か隠し事をしている。
「……ほんとうに、何もしてないよね?」
「さあ?」
 笑みの向こうに、黒い影が見えたような気がして、栞は眩暈を覚えた。
 小さい頃から、この性格に散々振り回されているのだ。
 深く追求すれば、真実を教えてくれるかもしれないが、世の中には知らない方がいいこともある、と栞は隆哉から教えられたようなものだった。
 話題を変えた方がいいかもしれない。
「ところで、あんたは何してるのよ」
 用事がなければ出かけないとか、人の多いところは嫌いだとか、普段から言っている隆哉である。
 何もないのに、こんな待ち合わせの人間で溢れる駅前にいるはずもない。
「七時から人と会う約束がある。まだ早いから、時間つぶし」
「なるほど。人の恋路は邪魔しておいて、自分はちゃっかりデートときたか」
「デートとは限らないだろ」
「違うの? この間一緒にいた年上美人とは、まだ続いているんでしょ?」
 今年に入って付き合い始めたのは、一度だけあったことがあるが、目の覚めるような、といってもいいような美人だった。
 華奢で凛としていて、隆哉と並んでいても、違和感がない。
 さすが顔にはうるさい隆哉が選んだだけのことはあると、感心した覚えもある。
 隆哉にはもったいないくらいだ。
 くやしいくらいにお似合いの二人だった。
「綺麗な人だったよねー」
「まあな」
 どこか興味なさそうに言ってみせるが、ほんとうは自慢したいくらいに思っていることは、一目瞭然だった。
 伊達に長い間、幼馴染をやっているわけではない。
 相手をしているのも莫迦らしくなってくる。
「はいはい、とっととデートにでも何でも行ってください。私は一人寂しく、渡し損ねたチョコでもやけ食いするから」
「ひがんでる」
「悔しがっているの」
「ふーん」
 隆哉の顔が、何かたくらんでいるかのように、歪んだ。
「じゃあ、これは俺からのバレンタイン・プレゼント」
「はい?」
 反論する間もない。
 すっと細く長い手が伸びてきた――と思った次の瞬間には、顎に伸びたその手が顔を上に向かせて。
 キス、された。


 ……柔らかい唇だ。
 いい匂いもする。
 それに。
 ただ、触れるだけのキスだと思ったのに。
 舌をいれてくるというのは、反則だ。
 どこか陶然とした意識の中で、ぼんやりと思う。
 高校生のくせに、キスが上手すぎるような気もするし。
 もしかしたら、上手いのはキスだけじゃないのかも。
 そうすると、こういう経験が豊富だということだろうか?
 昔から、生意気で、早熟な子だとは思っていたのに。
 いつのまに、『男の子』じゃなくて『男』になっていたのだろう。
 知っているのに、知らない誰かみたいだ。
 他の人とも、こんなふうに、絡みつくような激しいキスをするのだろうか。
 そんなことを考えたとたん、ふと周りの視線も感じた。
 見られている、とはっきりわかるような感覚。
 そうだ。
 ここは、公衆の面前だから。
 たくさんの人がここで、待ち合わせをしていたから。
 滅多にお目にかかれないような綺麗な少年が、いきなりキスしたりすれば、目立たないはずがない。
 きっと皆思っているのだろう。
 不釣合いだとか。
 似合わないとか。
 遊ばれているのだろうとか。
 思っただけで、むかむかもやもやとしてくるのは何故だろう。
 それに、バレンタインっていうのは、少なくとも日本では女の子が好きな男にチョコその他をプレゼントする日ではなかっただろうか。
 どう考えても、これでは逆である。
 そもそも恋人でもなんでもない隆哉にこんなことをされるなんて、普通の状況ではないはずだ。
 なのに。
 いつのまにか栞は目を閉じて、むさぼるような隆哉のキスを受け入れていた。

 どのくらいそうやって唇を合わせていたのだろう。
 ようやく隆哉から解放されて、栞は目を開いた。
 こんなキスするなんて、ずるい……とか思っている場合でもない。
 そう、とりあえず、何故だか胸の奥はむかむかしたままだ。
「……なんだか、むかつく」
「ふーん」
「あたしは怒っているんだけど」
「なるほど」
 そういいながら、指先は触れるか触れないかのぎりぎりの近さで、頬をなぞっている。
 優しい瞳で、自分を見下ろしている。
 この状況は、非常にやばい、と栞は思う。
 放っておくと、公衆の面前にもかかわらず、また何かされそうだし、なにより。指先から微かに感じる温もりを失いたくないと思い始めている。
 だから。
 隆哉の手を掴んで、そっと頬から離した。
「タァちゃん」
 そう呼ばれることが一番嫌いなことを知っていながら、わざと栞は幼い頃の呼び方を口にする。
 案の定、それまで余裕たっぷりだった隆哉の顔が、むっとしたものに変わった。
「君はいつから恋人でもなんでもない相手にそういうことするようになったのかな」
「いつからだと思う?」
 そんなことは知らない。
 いや、知っていたのだろうか?
 昔から、いろんな相手にもてる存在ではあった。
 年上だったり、年下だったり、男だったり、女だったり。
 一緒にいることで、やっかみを受けて、意地悪されたり、怒鳴り込まれたりしたことも、一度や二度ではない。
 選り取りみどり……といえば、聞こえは悪いが、経験豊富になる基盤はいくらでもあった。
 ふと、近いところにいると思った隆哉が遠く感じられた。
「誰にでも、こんなことするなんて」
「違うよ。あんたは特別だから」
「どこらへんが特別なのか、是非一度教えてもらいたいものだけど」
「ほんとに、知りたい?」
「……」
 普段は感情のあまり見えない瞳が、いつになく熱を帯びているのを見て、驚いた。
 彼でも、こういう顔をすることがあるのだと。
「知りたいなら、今すぐ教えるけど?」
「やめとく」
 素直な感想だった。
 それは、知らない方がいいような気がした。
 その代わりに。
「3月14日、三倍返しは覚悟しておきなさいよ」
 幼馴染の自分に戻って、そう言った。
「できるものならな」
 隆哉もいつもと同じ顔に戻って、不敵に笑う。
 それを見て、栞はほっとした。
 さっきみたいな彼よりも、生意気な隆哉を見るほうが好きだ。……今は。
「……やってやろうじゃないの。楽しみにしてなさいよ」
「もちろんだ」
 そういい残して、まるで何もなかったかのように、立ち去っていく。
 悔しい。
 悔しいけれど、結局のところうまく丸め込まれている気がしている。
 その後姿を眺めながら、ため息をひとつ。
 小さな頃から知っている相手だけにキスされたって、ときめいたりしない。
 はず……なのだけれど。

 嫌いではない。
 でも。
 とても好き、というわけでもない。
 特別だけれど、特別とは言えない関係。
 そのはずだったのに。
 隆哉のキスで、胸の中がもやもやとしたままだ。
「どうしてくれるのよぉ!」
 そう叫んでみたけれど。
 とっくに視界から消えてしまった隆哉にもちろんそれが届くはずもなく。
 周りの人たちに好奇の眼差しで見られただけだった。

 とりあえず、3月14日はまだ先だ。
 それまでに考えればいい。
 どうしたいのか、どうするのか。
 このもやもやはいったい何なのか。
 まだまだ時間はあるはずなのだから……たぶん。

Novel
Copyright (c) 2003 Ayumi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-