思い返せば、先月の14日。
バレンタインのプレゼントなどと言って、路上でいきなりキスしてきた幼馴染の水田隆哉。
悔し紛れに、ホワイトデーには三倍返しにすると宣言したものの、何も考え付かなかった。
しかも、そのとき感じた『もやもやした感情』のことも整理がつかない。
落ち着かない気持ちのまま、日々は過ぎていき――気がつけば3月14日は目前になっていた。
電話だけでもしておくか、と思って覚悟を決めたのが、4日前。
自宅にいるだろう時間を見計らって携帯を鳴らすと、待つこともなく、隆哉が出た。
話すこともないので、挨拶だけ簡単にして、用件を切り出す。
「隆哉? 15日って暇?」
なんとなく、14日とは言えない。
ホワイトデーくらいは隆哉だって恋人と過ごすのだろうという思いがあった。
それとも、学生だから、試験の最中だっただろうか。
『15日? 忙しい』
「ふーん、じゃあ、13日とか?」
15日がだめなら、13日、と軽い気持ちで考えて、そう言ったのだけれど。
『13日?』
聞き返してきた声が、いつもより少し低くて、不機嫌だ。
電話の向こうの気配にも不穏なものを感じてしまう。
怒っている? でも何故?
「あ、だったら16日とかでも……」
「俺、暇だから」
「はい?」
「14日。暇。だから、家に来い」
「はぁ?」
それってどういう意味?と聞き返すよりも早く、電話を切られてしまった。
それ以降、何度掛けなおしても着信拒否され、自宅にかければ居留守を使われて、いい加減頭にきていた私は、3月14日の夕方、嫌味なくらい可愛らしくラッピングしたチョコレートケーキを持って、水田家を訪れた。
ちなみに、隆哉はチョコレートケーキが嫌いである。
「……あがれよ」
私の顔を見るなり、それだけ言うと、隆哉はさっさと奥へ引っ込んでしまった。
「ちょっと隆哉! 私、すぐに帰るつもりだけど」
返事がない。
仕方がないので、お邪魔することにした。まさか、玄関にケーキを置いて帰るわけにもいかないしね。
何度も訪れている家なので、迷うことはない。隆哉が入っていったのはリビングだ――そう思いながら覗き込むと、不機嫌な顔でソファーに座っている隆哉がいた。
「あれ? おばさんたちは?」
リビングの中は、妙に静まり返っている。いつもだったら、すぐに現れるおばさんの姿もない。テレビもついてないし。
「旅行」
「じゃあ、誠さんは?」
誠さん、とは隆哉の5つ年上のお兄さんだ。
「彼女のとこ。今夜は帰ってこない」
「ふーん、そう……って、あんたと私、二人きりってこと?」
「……」
だんまりですか。
別にいいんだけどね。
「ああ、これ、あげる」
お互いに黙っていても仕方がないので、ケーキを隆哉に向かって差し出す。
「何?」
「バレンタインのお返し」
「三倍返しじゃなかったのか」
指摘されると困る。
覚えていた、ということには純粋に驚いたけれど。
「なんだ、思いつかなかったのか」
唇の端を吊り上げて笑わなくても。
その通りなんだから、わざわざ言わないでくれればいいのに。隆哉にそんな気遣い期待するだけ無駄ってことかな。
「一応、もらっておくよ」
立ち上がって私からケーキを受け取ると、そのまま、興味なさそうにそれをテーブルの上に置く。そんなに不服ならば返しなさいという言葉を、無理矢理飲み込んだ。怒ったってしょうがないし。
「じゃ、私は帰るから」
「……」
だから、どうして黙り込むのかな。
それがいけないというわけではないけれど、イチイチそんな態度とられると、気になってしまう。
おかげで、胸の中に湧き上がってきたのは、イラついたような感覚。
棘みたいに心の中に刺さっていて、痛い。
「言いたいことがあるのなら、さっさと言えば? そんな怖い顔で睨まれると、すごく悪いことしてる気になるんですけど」
言ってしまって気がついた。
隆哉の様子が変だ。
いつもなら、私が何か言えば、すぐに言葉を返してくるのに。
「どうしたの? なんだか、めずらしく元気がない?」
急に私は心配になった。
隆哉が黙り込むときって、例えば体調不良の時とか、悩み事がある時。
「もしかしたら、今までの悪行三昧がばれて、振られちゃったとか」
「……栞とは違うだろ。振ったのは、俺」
へえ、そうなんだ……って、え?
振ったって今言ったよね?
隆哉が、あの年上美人と別れたー!!
「えええ! どうして? 勿体無い!」
「そのリアクション、何?」
「悪かったわね」
驚いただけだし。
隆哉とあの人、似合ってたのにな。隆哉だって、あの美人を見るとき、いつもと違って楽しそうにしてたくせに。自分から振った、なんて。
「隆哉って、ちょっと莫迦?」
「その言い方、なんだよ。」
「結構好きだったんじゃないかって思って」
「そう見えた?」
「見えた」
ため息が隆哉の口から漏れる。
「嫌いじゃなかった」
一言ずつ、確かめているようだった。
「嫌いじゃなかったんだ」
繰り返す言葉の中には、いつもの偉そうな隆哉が感じられない。
これはおかしい。絶対おかしい。
「隆哉。やっぱり少し変だよ。どうしたの? 悩み事なら、幾らだって聞いてあげるし。ほら、私たち、幼馴染で、下手な友人より長いつきあいだし……ね?」
「幼馴染、か」
隆哉の顔が微妙に歪んだ。
「お預けくらって、そのままほっとかれた犬みたいな気分だな」
「何それ」
「もう限界かもって感じだ」
「お腹すいてるの?」
恐らく違うだろうとわかっていて、聞いてみた。
「………」
だから、そこで黙り込むのは、なしにしてほしいんだけどな。
「栞」
やっぱりいつもの隆哉とは違う……ような気がする。
「この間の特別の意味、知りたくないか?」
それって、2月14日にも言っていたことだ。
『違うよ。あんたは特別だから』
真顔で言われて、戸惑ったのだ。
「知りたくないって言ったら?」
「……」
隆哉の手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。
この前、キスされた時のことを思い出して、身をすくめる。
嫌だったわけじゃない。
だけど。
またキスされたら、自分でもどうにかなってしまいそうな感覚が残っているから。
私の中にある感情に、答えを見つけてしまいそうで、怖かった。
知ってしまったら、隆哉と今までと同じには付き合えなくなる。
隆哉のことを、ただの幼馴染とは思えなくなる。
「栞」
懇願するような響きで、名前を呼ばれた。
すがりつくような目で、見られた。
「特別なんだ。ずっと、特別だった。栞に触れたい。独占したいと思ってた。でも、俺のことをちっとも『男』扱いしてくれない。今までも、俺以外の誰かが、栞の体に触れているんだと思うと、自分でもどうしようもないくらい腹が立って、そいつが憎くてしょうがなかった」
「隆哉……」
自分自身の声が掠れているのがわかった。
それはつまり私とそういうことをしたい、ということなのかな。
それを望んでいるって、要するにそういうこと?
「俺とキスしてどうだった? やっぱり許容できない? 許せないと思った?」
「それは……その、困る、とは思ったけど」
嫌ではなかったんだよね。
嫌ではなかったから、ものすごく困ってるんだってば。
けれど、私の言葉は、隆哉に違う意味で取られたらしい。
「そうか、困るよな」
掴んでいた私の手を離して、隆哉は大きく息を吐いた。
そのままずるずると座り込む。
「俺、今、すごく情けないよな」
隆哉が。
絶対、他人に弱味は見せない隆哉が、座り込んだまま、自嘲気味に笑っている。なんていうか。唐突に、隆哉のことをかわいいと思った。小さい頃、弟みたいに思っていた少年に感じる『可愛い』とは違って。胸の奥とか、頭の芯の奥にしびれのような感覚を伴った『可愛い』だ。このどうしようもない感情を、私は知っている。
「隆哉?」
所在無く天井を見上げている隆哉に、そっと声を掛ける。
「あー、何?」
ちょっと投げやりな、掠れた声で返事が返ってきた。これは、相当落ち込んでいるのかなと思うと、無償に抱きしめたくなった。思ったとたん、どうしても、それを実行したくなって。そのまま隆哉に近づいた。隆哉の肩に両方の手を置いて、斜め上から顔を見下ろす。あ、やっぱり綺麗だ。睫毛長いし。額の形、いい感じだし。
「何? 人の顔をじっと見て」
形のよい唇が動いて、言葉を発する。あの時――キスしたときの感触が甦った。柔らかくて、温かくて、気持ちよかった。
純粋に特別に、もう一度触れてみたいと思った――その唇に。
「んー、ちょっとキスしてもいい?」
「は?」
返事をまたずに、そのまま覆いかぶさるように、唇を寄せた。
気持ちにまだ遠慮があるから、軽く触れるだけ。
そのままの状態で目線を動かすと、すぐそこに、隆哉の戸惑った視線があった。
困っているわけでもなさそうだし、動揺しているみたいじゃないし。
嫌なのかなとも考えたけど。
抵抗しないどころか動かないので、今度は少し開いていた唇を押し分けて舌を入れ、ついでに歯茎を舐めてみた。
やっぱり動かない。
ただ、こちらを見ている目だけがどこか熱っぽい。 その眼差しにつられるようにして、もっと舌を差し入れる。
すぐに絡み付いてきた隆哉のそれを強く吸い上げた。
互いの目を見ながらキスをする、という経験はなかったので、少し新鮮。
いつもの余裕ある表情の隆哉とは違い、細められた目元がほんのりと赤く色づいている。
そんな隆哉を色っぽいと感じてしまう自分に、ちょっと苦笑して。唇を離した。
「栞」
「何?」
「なんで急にキスした?」
「したかったから」
それ以外に理由が見当たらない。
したいと思ったから、してみた。
すごく単純で、実はちっとも単純じゃない理由だ。
でも、今隆哉にキスしたことで、私の中にあった『もやもや』の答えが見えてきたような気がする。
「なあ、これって嫌がらせ?」
それは違うんだけど、まあ、いいか。
そのまま、ぽふっと音をさせて、自分の顔を隆哉の頭の乗せる。
柔らかい髪の感触が気持ちよく、頬擦りしていると、くすぐったそうに頭が動いた。
「意図が全然見えねえ」
そうかもしれない。
「ねえ、隆哉」
目の前の壁を見ながら、自分の中にある気持ちを口にしようかと思う。
それを聞いた隆哉はどう思うだろう。
嫌に思うだろうか。
それとも、あきれるだろうか?
それはないだろう、と妙に確信めいた予感がした。
隆哉は私を抱きたいと思っている。そして、たぶん、私も――。
「しようか」
単純明快にそれだけ告げると、隆哉の体に一瞬力が入った。
『何を』と聞かない代わりに、素っ気無い言葉がその口から漏れる。
「何だよ、急に」
「いやなら、やめるけど」
「襲われてる気分」
「襲っているから」
「……」
あ、今笑った。
むかつく。
「冗談じゃないから」
そういって、両手を肩から離して、隆哉のシャツに手をかけた。
とりあえず、一番上のボタンをはずしてみる。こちらからシャツを脱がせるのは、初めての体験だったけど、意外に楽しい。
隆哉は相変わらず動こうとしないので、調子に乗って、全てのボタンを外してしまった。露わになった胸に、ほどよく筋肉がついていているのを感心しながら眺める。
隆哉の裸っていうのを最後に見たのは小学生の頃だったし、その頃は本当に痩せていて、筋肉なんて皆無で、これほど大きく育っていなかった。
やっぱり、いつのまにか、『男』ってものに成長していたんだ、と妙なところで納得している自分が少しおかしかった。それをみて、興奮していることも。
「特別だって言ってくれたよね? それがほんとうなら――いい?」
もう一度尋ねる。
嫌だといわれれば、やめるつもりだったから。
けれど。
一瞬の沈黙のあと。
返ってきたのは、隆哉からの噛み付くようなキス、だった。
いつのまにか、眠っていたらしい。
けだるい体に巻きついた服がべたついて、気持ち悪い。
お風呂、入りたいよね、とまだ半分寝ぼけた頭で思う。
このままだと、風邪だってひいてしまいそうだし。
のろのろと起き上がって、薄暗くなった部屋の中を見回す。すぐ横に隆哉がいた。規則正しく息を吐いているその顔が、幼い頃の寝顔と重なって、ちょっと笑った。こうやって見ていると、さっきまでの隆哉が嘘みたいだ。
少し汗ばんだ額に髪の毛が張りついているのを、そっとぬぐう。
「好き、なのかな?」
そうかもしれない、と思う。大体、自分から、こういうことをしようと思ったのは初めてだ。思い返せば、いつも告白してくるのは、相手からで。
求められるから、当然のように応じていただけで。
だけど。
隆哉には違った。
抱きしめたいとか、触れてみたいとか、自分からそんな風に思った。
それってやっぱり。
「好きなんだろうな」
潔く、結論を出す。
だから、半分体を起こして、隆哉の耳元に唇をよせて。
「好き」
聞こえていないことがわかっていて、そう囁いた。
でも、しばらくは本人には言わないでおこう。
三倍返しもまだだしね。
これから、どうするかとか、どうなるかというのは、まだわからない。
でも。
何かが変わるような気がした。
少なくとも退屈はしないはず。
相手は隆哉なんだし、普通の恋愛よりはいろいろ味わえそうな気もする。
どちらにしても、先のことは隆哉が起きてからだ。
そんなことを考えながら、隆哉の頬にキスを落とすと、私は立ち上がった。
とりあえず、今はお風呂でも沸かしておこう――。