天気予報は曇のち晴――屋上にて

Novel

 今にも雨が降り出しそうな空のせいなのか、昼休みになると学生が上がってくる屋上には、今日はめずらしく彼だけだった。
 フェンスにもたれ、座りこんだまま、流れる灰色の雲を見上げる。
 不快指数の高い湿った空気のせいで、じっとりと滲み出るようにかいた汗がシャツに張り付いてキモチ悪い。
 この分だと、予報通りに雨となるのだろう。
「にしても遅っせぇなぁ、田中のヤツ」
 中学1年生の時に知り合って以来、何かがあると一緒に行動している友人の田中は、今日は先生に呼ばれ、ここにはいない。用がすんだら来ると言ってはいたが、昼休みの終わる時刻が近づいてきても、現れる様子がなかった。
「なんつーか、退屈……」
 呟いてしまってから、苦笑した。
 退屈という言葉を、最近よく口にしている。
 希望通りの高校に進学して2ヶ月。
 淡々と流れていく毎日は、中学時代となんら変わらない。
 むしろ、クラブ活動をしていない分、日常に変化がなくなってしまったような気がする。
 友人はそれなりにいるし、勉強についていけないというほどでもない。クラス内は想像していたよりも落ち着いている。
 平凡でありきたりの高校生活だ。
 昨日と同じように今日が来て、そして、なんとなく明日がやってくる。
 そう考えると、暗い空と同じように、憂鬱な気分になった。
「退屈、だよな」
 空に向かって、呟く。
 自分でもやばいと思いつつ、それが彼――高橋の口癖になっていた。


 どのくらい空を見上げていたのか。
 いつのまにか、うとうととしていた高橋の耳に、金属を擦り合わせるような音が聞こえた。
 重い鉄製の扉が軋む音だ。
 音につられるように、階段へと続く扉に目を向けると、そこから、小柄な少年が駆け込んできた。
 田中だった。
 彼は、フェンスにもたれかかっていた高橋を見付けると、ほっとしたように足を止める。
「高橋!」
 慌てているのか、走ってきたせいなのか、少年は肩で大きく息をし、顔も真っ赤だった。
「どうした、田中。顔赤いぞ」
「今、そこでさ」
 そう言って、田中はそっと後ろを振り返った。
 誰かがやってこないかどうか確かめるように背伸びをして、開け放した扉の向こうに見える階段の方を覗きこんでいる。
 しばらくそうやっていたが、何の気配もないのを確認すると、高橋の側にやってきて大きなため息をひとつついた。
 小声で囁くように言葉を繋げる。
「クラスメートの水田がいたんだけど」
「ああ、あのすげー綺麗な顔のやつ」
 高橋の脳裏に、良くも悪くも目立っている少年の姿が浮かんだ。
 一言で言えば『綺麗』な少年。
 それも、そこら辺に幾らでも転がっていそうな平凡な顔の田中や高橋と違って、水田の容姿は群を抜いていた。
 すっきりとした顎のラインとか、切れ長の目とか、形のよい唇とか、どの部分をとっても綺麗なのに、それらが全部合わさって、完璧な調和をもった顔になっている。
 加えて、すらりと均整のとれた体躯。
 悠然とした態度。
 ついこの間まで同じ中学生だったはずなのに。
 真新しい制服に身を包んだクラスメートたちが、どこかまだ初々しく子供っぽいのに。
 最上級生だと言われても頷いてしまうほど、水田は大人びていた。
 初めてクラス内で水田を見たとき、高橋は息を呑んだ覚えがある。
 それは、世の中にはここまで整った顔の人間がいるのだという純粋な驚きだったような気がする。
「で、水田がなんだって?」
 目立つ容姿をしているためか、よく上級生に絡まれているらしい、という噂を聞いていた高橋は、田中が見たのはそんな風景であろうと思い、のんびりと尋ねた。
 それにしては、顔が赤いとか、少し興奮気味だなとか思わないでもなかったが。
「その……キスしてた」
「キス!?」
 つい大声を上げてしまった高橋であるが、考えてみれば水田はあれだけ綺麗な顔をしているのだ。
 当然、自分たちと違ってもてるのだろう。彼女の一人くらいはいたって驚くことでもない。
「別にいいじゃないか。キスくらい、だ、誰でもするだろ」
 平静を装っているが、声が上擦ってしまったのは、高橋がキスどころか、これまで女の子と付き合った経験がないからだ。
 中学時代は、友達と遊ぶ方が楽しかったし、なにより平凡なこの顔である。女の子に興味はあっても、相手にはされずに過ごしてきた。それは目の前にいる田中も同じはずだ。
「でも、それがさぁ」
 俯いた田中の顔が、さらに真っ赤になった。
「相手が、戸田、だったんだけど」
「戸田?」
 そんな名前の生徒がいたかなあとぼんやりと考えた高橋の額に、じわりと汗が浮かんだ。
「戸田って、もしかしてもしかすっと、美術の戸田先生……とか」
「もしかしなくても、そう」
「えええええええーーー!!!」
 再び叫んでしまったのは。
 戸田先生、というのは、確かにそこそこ綺麗な顔をしてはいるが。
 年は28歳、性別はれっきとした男性、だったからである。


 沈黙が二人の間に流れる。
「いや、世の中いろいろあるからさ」
 どこか動揺を隠しきれない声で、高橋は言った。
「そういうことが、ないわけでもないんじゃないか」
 実際のところ。
 知識としては、知っている。女の子を好きになるのと同じように、男を好きになる人間がいるということは。それが悪いとは思わない。
 何かが困るというわけではないし。
 いや、困ることもあるのだろうか?
 社会的なこととか。
 友人に相談しにくい、とか。
 いろいろ、だ。とにかく、いろいろ。
 ……ただ、高橋の頭の中では、具体的なことはあまり思い浮かばなかったらしい。
「でも、学校だろ! 教師と生徒だろ、やばいよ。つうか、まずいんじゃないか」
 どうにか自分の中で理解できるレベルに持っていこうと努力してみた結果、高橋の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「そ、そうだよ。周りにばれたら、ぜってぇ、まずいって!」
 高橋と同じく、いや、それ以上に思考が混乱している田中が、答える。
「せっかく入った高校を、そんなことで辞めたくないよな」
 頭の中に、どこかのテレビドラマで見たお約束の出来事が展開する。
 教師と生徒の禁断の恋。両親の反対。クラスメートの無理解。
 そして、出た結論は。
「……見なかったことにすれば?」
「……見なかったことにする」
 二人の考えていることは、同じだったらしい。


 そうやってしばらく自分の考えに没頭していた二人だったが、ふいに、足音が聞こえてきて、びくりとした。
 誰かが、やってきたらしい。
 休憩時間だし、ここは誰もが来ていい場所なのだから、そういうことはありえるのだが、心の中で複雑なことを考えていた二人は、悪いことをして見つかった子供のような気持ちになっていた。
 しかも。
 最悪なことに、扉の向こうから現れたのは、水田隆哉本人だったのだ。
「み、み、み、水田ぁ?」
 見事にハモった高橋と田中の焦った様子に、水田は不思議そうな顔をする。
「おまえら……田中と高橋、か? 何、驚いているんだ?」
「べ、別に」
 高橋はともかく、生々しい現場を見てしまったであろう田中の態度は、どう見てもおかしい。水田の顔をまともに見ることができないせいで、ずっと下を向いているし、顔も真っ赤だ。
「……。そういえば、さっき、誰かがいたのが見えたんだ。知った顔だと思っていたんだが。」
 淡々とした言葉が、屋上に響いた。
「田中。お前、見てたな」
「み、見てないよ」
 口にした後で、田中の顔に「しまった」という表情が浮かんだ。
 この場合、何のことか?と尋ねるべきだったのだ。
「……なるほど」
 何が『なるほど』なのか、水田の顔に意地の悪い笑顔が浮かんだ。
「田中だったんだな?」
「だから、違うっ!」
「別に恥ずかしがることじゃないだろ」
 この場合恥ずかしがるのは水田なのではないだろうか。
 それとも、水田にとっては、キスのひとつくらいは、なんでもないことなのだろうか。
 容姿だけでなく、思考そのものが高橋たちとは異なるのかもしれない。
「見られていたのなら、ちょうど良い。お前ら協力しろ」
 話の展開についていけず、二人は顔を見合わせる。
「あんまりしつこいから戸田から逃げてきたんだ。いいか、おまえら。俺はここにはいないからな」
 それだけ言うと、二人の返事も聞かずに、水田は貯水槽へと続く階段の裏へと消えてしまう。そこはちょうど屋上への出入り口から覗いて、死角になっているのだ。
「ここにはいないって、おい?」
 慌てて田中が声をかけるが、返事はない。
 何がなんだかわからないまま呆気にとられていると、今度は乱暴な足音がして、まだ誰かが屋上にやってきた。
「……戸田先生」
 高橋の戸惑ったような呼びかけと、心なしか赤くなった田中のため息が重なる。
「今、こちらに水田くんがきませんでしたか?」
 穏やかな口調だが、どこか目が据わっている。
「い、いえ。来てませんよ」
 思わず高橋はそう答えてしまった。
 別に水田に義理立てする必要などなかったのだが。何故か、あいつには逆らわないほうがいいと思ったのだ。直感というより、本能的にといった方がよいのかもしれない。
 それに、水田本人がどこか困っていたようだ――と頭の片隅で感じていたからかもしれない。
「ほんとうですか?」
 戸田は明らかに疑っている顔だ。
 それはそうだろう。
 高橋は動揺しまくっているし、田中はさきほどのキスシーンを思い出しているのか、顔が赤いままだ。
 それに加えて、隠し事をしているというやましい気持ちがある。
 結果、どこからどう見ても、二人の態度は挙動不審でしかない。
「……まあ、いいでしょう」
 ふう、とため息をつくと、戸田は言った。
「もうすぐ休憩も終わりますしね。今日のところは、あきらめます」
「は、はあ」
「……と、水田くんに言っておいてくださいね」
 にっこりと笑顔で言われ、こくこくと頷くだけの二人であった。


 戸田がゆっくりとした足取りで屋上からいなくなるのを、しばらく放心したまま眺めていた二人であったが。
「行ったか?」
 という水田の声で、我に返った。
 振り返ると、いつのまにかすぐ側に水田が立っていて、二人を見下ろしている。
 さっきまでの意地の悪そうな雰囲気ではなく、表情が柔らかい。
「……悪かったな」
 意外だった。
 誰かに謝るところを見たことがない水田が、高橋と田中に向かって、頭を下げている。
 先生に対しても、クラスメートに対しても、いつも偉そうにしているあの水田が。
「別にかまわねぇよ。……困ってたんだろ」
「困ってた……まあ、そうだな」
「戸田先生に、その……迫られてんの?」
 恐る恐る高橋が尋ねてみると、彼の顔に苦笑が浮かんだ。
「戸田とは、昔からの知り合いなんだけどな。どうも俺のことを気に入ったみたいで、いろいろチョッカイかけてくるんだよ」
「つうことは、さっきのあれって、その……水田からキスしたんじゃねぇんだ」
 何故かほっとしたように田中が言った。
 それは違うだろ!教師からっていう方が問題ありだろ!と高橋としてはつっこみたかったのだが、話の流れを著しく違う方向へ変えていってしまいそうなので、やめておいた。
「なるべく二人きりにならないように気を付けていたんだが、ふいをつかれた。普段は温和なくせに、時々手段を選ばない態度に出るからな」
 どんな手段なのだろう……と考えて、今度は高橋の方が赤くなった。
「さ、災難だったな」
 どう言葉をかけていいのかわからないので、とりあえずそう言っておくことにした。
「大体、押し倒されるよりは、押し倒す方がいいに決まってるだろ。俺は別に、相手の性別は問わないが、押し倒されるのはごめんだ」
「………」
「………」
 そうなのか?
 そういうものなのか?
 素朴な疑問がわきあがってきた二人だったが、どうしてもそのことを本人に聞けなかった。
 この世の中には、知らなければいけないことはたくさんあるが、知らないでいる方がいいことだってある。きっとある。間違いなくある。
「それにしても、お前ら変わってるよ。というか、お前ら最初から変だったよな」
 笑顔で言われた。それは、教室内で、教師や他の生徒たちに向ける万人受けするようなものではなくて、何故か少しだけ優しく見えた。
「普通、断るだろ? クラスメートとはいえ、そんなに親しくないヤツに妙な頼みごとされればさ」
「……? 普通頼まれたら断れないだろ?」
「だよな? クラスメートなんだし」
 二人が答えると、水田はまた笑った。
「やっぱ、おまえら変」
『変』を繰り返されて、本来ならば怒るべきなのだろうが、不思議と高橋にはそういう感情はなかった。
 むしろ、誰も知らない水田の笑顔を見たことが嬉しいと思っている。
 クラス内でも、水田が誰かと親しく話しているのを見たことがない。
 本人は気にしていないようだったが、よほどのことがなければ、誰も水田には話しかけないでいる。容姿と態度のせいで、初日から近寄りがたいヤツと思われ避けられているのだ。
 確かに気に入らない先生には、人の良い笑顔を向けながら、痛烈な皮肉を言っているし、生意気だと言ってくる人間に対しては容赦ない。
 それでも。
 案外いいやつなのかもしれないと思ってしまったのは、高橋たちの前にいる水田が向ける笑顔のせいなのだろう。
「なあ、水田さ……。なんだかさ、戸田のことで困ったりしたらさ、俺ら事情知ったし、相談のるけど……」
 恐る恐る切り出した高橋に、水田は驚いたらしかった。
 しばらく、高橋たちを眺めていたのだが。
 突然、声を上げて笑い出す。先ほどの笑顔同様、見たこともない水田の姿に、高橋と田中は口を開けたまま、凝視してしまった。
「み、水田?」
 いつまでたっても、笑うのをやめない水田のことを心配して、高橋はそっと声をかけてみた。
「ああ、悪い。お前ら……まじにお人よしだな。苦労するぞ」
「そんなことないよな。田中はともかく、俺は結構事なかれ主義だし」
「俺もあんまり、厄介ごとには首つっこみたくないほう」
 二人とも、自分たちが積極的に物事に関わっていくタイプではないと思っている。今日のことだって、ただ頼まれたから行動しただけであって、水田がそのまま彼らに声をかけなければ、戸田には本当のことを告げていただろう。
 戸田と水田のキスにしても、「見なかったこと」にしてしまおうとしていたくらいだ。
「ふーん。ま、俺は助かったから、どうでもいいけどな。それに、戸田なら、心配することはない。あのくらいはまだ可愛いものだ」
「そ、そうなんだ……」
 田中が、間の抜けた声で言葉を返す。
 キスされるのが『可愛いもの』なら、それ以上はどんなことなのだろう。高橋と田中の頭の中に、それこそいろいろな『怪しいこと』が浮かんでは消えていった。
 それは、やはり、世間的に見てかなりまずいことなのではないか?
 水田はまだ未成年なのだし。
 ただ。
「水田がいいんなら、俺ら別に何も言わないけどさ」
 彼が気にするなという以上、ただのクラスメートでしかない高橋にはそうしか言えなかった。
「……お前らには、戸田のことは、ばれたからな。もし、これから何かあったら、協力してもらうこともあるかもしれない」
 どういう意味だろう。
 それは、これからもよろしくということだろうか?
 高橋が聞き返そうとした時。
 ふいに頬に冷たいものが落ちてきた。
「振り出したぞ」
 空を仰ぎながら、水田が言う。
 天気予報は当たったらしい。
「あ、ほんとだ。げー、俺、傘忘れた」
 田中が慌てたように叫び、立ち上がった。
「走らないと、やばいぞ」
 高橋の言葉が合図となる。
 あっという間に激しくなった雨から逃れるように、三人はその場から駆け出した。


 結局、水田の言葉の意味を、高橋は尋ねることが出来なかった。
 教室に戻った後の水田は、屋上での出来事などなかったかのように、素っ気ない態度だったし、放課後もいつのまにか帰宅してしまっていたからだ。
 どういう気持ちで彼があんなことを言い出したのか。
 都合の悪いことがばれてしまったので、仕方なく口にしたことなのか。
 何故、自分たちに笑顔を向けてくれたのか。
 わからないことは、まだたくさんあった。
「ゆっくり聞けばいいって。当分はクラスが一緒なんだしさ」
 田中の言葉に、その通りだと思う。
「だよな。友達になれるかどうかも、わかんねぇんだし」
 とりあえずは、この問題は保留にしておこう、と高橋は思った。


 この出来事が、高橋と田中にとって、退屈な日常からの決別だったのだが、二人はそのことにまだ気が付いていなかった――。

Novel
Copyright (c) 2003 Ayumi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-