お月さまと私

Novel

 もしも。
 もしも、の話だけれど。
 普通に出会って。
 普通に恋をしていれば。
 私たち、幸せな恋人同士でいられたのかな?
 ねえ、お月さま。
 どう思いますか?


 お月さまが綺麗だったので、散歩に出ることにした。
 お月さまがまるかったので、空を見ながら歩いた。
 お月さまばかり見ていたので、転んでしまった。
 ちょっと莫迦かもしれない。

 そもそも散歩に出たのはあの人――直人さんと喧嘩をしたせい。
 空ばかりを見ていたのは、涙がこぼれそうだったから。
 なのに。
 転んでしまったので、その弾みに涙がいっぺんにあふれ出た。
 悲しくなって立ち上がれなくなった。
 擦りむいてしまった膝も、ひりひりと痛い。
 やっぱり、私って莫迦だ。
 直人さんの部屋で口にした言葉を思い出してしまう。
「大嫌い」
 心にもないことを言ってしまった。
 私がその言葉を口にしたとたん、直人さんの情けなさそうな顔が、困ったような表情に変わった。
 傷つけてしまったのだと、一瞬で悟る。
 それ以上は、何も言わない方がいいのだと、頭ではわかっていた。
 それなのに。
「せっかく久しぶり会えたのに、話すこともできないなんてイヤ」
 追い討ちをかけるように、言葉を続けてしまう。
 あなたは何も悪くないのに。
 私が一方的に我侭を言っているだけなのに。
 一度あふれ出した感情は、どうして止めることができないのだろう。
「ごめんな、美弥」
 彼は謝った。
 私の顔を見ることもなく。
 私に触れることもなく。
 そのことに腹が立った。
「俺のせいで、いつも悲しませてごめん」
 顔を伏せたまま、そう言葉を続ける。
 謝らないで。
 そんな顔をしないで。
 私、どんどんいやな子になってしまう。
 もっとあなたを傷つけしまう。
 たくさんあなたを悲しませてしまう。
 だから。
 私はそのまま部屋を飛び出した。
 それ以上、直人さんの顔を見ていられなかったから。

 今日の午後の出来事だった。


 空にある満月をぼんやりと見上げる。
 綺麗なまるいお月さま。
 私と、直人さんを隔てている、原因のひとつ。
 ねえ、お月さま。
 どうして、私とあの人は出会ってしまったのかな?
 そこに、何か意味があるのかな?
 お月さまを見るたびに繰り返す言葉がある。
 何度も、何度も、思う気持ちがある。
 もし、この世に、人とよく似た、けれども私たちとは違う存在があって、出会ってしまったとしたら。
 恐れますか?
 嫌いますか?
 その人から、離れていきますか?
 恋することが――できますか?


 私の好きな人は、気が弱くて寂しがりやで傷つきやすい。
 8つ年上の27歳。
 県下でも中くらいの大学を出て、中堅どころの会社に就職した普通のサラリーマン。
 必要な時以外は殆どしゃべらないし、暇なときは、大抵難しそうな本を読んでいる。
 笑うと愛嬌よく見える以外は、どこにでもありそうな平凡な顔。
 友達に、どこがよくて好きになったのって聞かれるくらい、ほんとうに普通の人。
 だけど。
 彼には、人には言えない秘密があった。
 直人さんは、人に似ているけれど、人ではない。
 直人さんは、人狼だ。
 月が昇ると、狼に変わってしまう。
 特に満月の夜には、自身のコントロールがきかないらしくて、空に月がある時間は、ずっと狼の姿のままだ。
 普段は染めているけれど、ほんとうは髪だって灰色をしている。
 出会ったのも偶然なら、彼の秘密を知ったのも偶然。
 そして、そのことも全部ひっくるめて。
 そんなあなたに恋をしたのは、いつのことだったのだろう。
 最初の頃は、あなたは私の顔をまともに見てくれはしなかった。
 話しかけても、『ああ』とか『そうだね』としか言わなくて。
 壁に向かって話をしているようだと思ったのを、鮮明に覚えている。
 それでも、話しかけるのをやめなかったのは、いつも寂しそうに空を見上げているから。
 時々、公園や駅のベンチで、ため息をついているから。
 独りに出来ないと、ぼんやりと思った。
 それは、たぶん私自身のエゴでしかなくて。
 もしかしたら、彼にとっては随分迷惑な行為だったのかもしれないけれど。
 ある日、笑いかけてくれるようになって。
 一緒に出かけるようになって。
 秘密を知って。
 泣く時も、笑う時も、気がつけば、直人さんの側にいるようになっていた。


 いつのまにか、私は見慣れた公園にやってきていた。
 直人さんの勤めている会社のすぐそばにある小さな公園は、私が通っていた高校のすぐ近くにある。
 初めて 直人さんに会ったのも、この場所だった。
 空には、満月に近い月が昇ったばかりで。
 補習で遅くなった私は、公園の側を通りかかった。
 そして。
 そこで、私は彼に出会った。
 もう、あれから二年もたつ。
 長いようで、短かった時間。
 楽しいことばかりだったとはいえない。
 だけど、つらいことばっかりだったかっていわれれば、それも違うような気がした。


 しばらく公園の入り口で立ち止まったまま、ぼんやりと空を見ていた私は、いつのまにか、ベンチに誰かが座っていることに気が付いた。
 さっきまで、誰もいなかったはずなのに。
 公園の入り口は、今、私が立っているこの場所と、真向かいに見える二箇所だけだ。
 確かに、誰も入ってこなかった。
 最初から人がいたのを、見落としたなんてありえない。
 だって。
 そこにいるのは。
 見たことがある、人。
 よく知っている、人。
 ……直人さんだ。
 でも、こんなところにいるはずがない。
 空には満月だって昇っているし、人の姿でこんな場所にいるはずがないもの。
 だとしたら、人違い? それとも幻覚?
 ……ううん、違う。
 直人さんを見間違えるはずもない。
 だけど、何かが変。
 そうだ。着ている服がおかしい。
 今は春だけれど、そこにいる彼が着ているのは、冬の服。
 不思議なことに、彼の体はどこか曖昧で、よく見ると向こうの景色が透けて見える。
 ふいに納得した。
 これは、出会った時の直人さんだ。
 でも、何故?
 何故、こんなことがおきているの?
 どうして、私の目の前に、あの時の直人さんがいるの?
 彼は、あの日と同じように、苦しそうに前かがみになっていた。
 ……思い出した。
 誰もいない公園で、一人辛そうにベンチに座っていたから。
 通り過ぎてしまってもよかったのに、私は立ち止まった。
 思わず声をかけた。

『大丈夫ですか?』

 その言葉に驚いたように見上げた顔の中の、金茶色の澄んだ瞳に、私は、一瞬息が止まるかと思った。


 ゆらゆらと直人さんの姿が薄れて、消えてしまった。
 目をこすってもう一度見直しても、そこにあるのは、ただのベンチ。
 誰もいない公園。
 私、どうかしちゃったのかな?
 幻覚を見てしまうほど、直人さんのこと考えていたのかな。
 おかしくなって、私はベンチに近づくと腰掛けた。
 空を見上げる。
 そこには、私を包み込むように光を注いでくれる、まるい月が浮かんでいた。


 いつだったのだろう。
「お月さまを見るのは好き?」
 そうたずねたことがある。
 気がつけば彼は、空を見上げているから。
 青い空に浮かぶ白い月。
 薄い夕闇に浮かぶ赤味がかった月。
 暗い空に浮かぶ黄色い月。
 たくさんのお月さまを、彼はいつも見ているから。
 なんとなく気になって聞いてみたのだ。
「……わからない」
 あなたはそう言った。

「愛しいような気もするし、時々、いっそなくなってしまえばいいと思うこともある」

 隣で、そんな声が聞こえた。
 いつのまにか、隣に直人さんが座っている。
 空を見上げ、悲しそうにそういっている。
 直人さん。
 声をかけ、触れようとした瞬間。
 かき消すように、彼の姿が消えた。
 何が起こっているのだろう。
 さっきから、何かが変だ。
 私は何を見ているのだろう。
 最初に見たのは、初めて会った時の直人さんだった。
 次に見たのは、笑いかけてくれるようになった頃の直人さん。
 だとしたら。
 もし、次に見るのだとしたら。
 それは?
 それは、どんな直人さんなのだろう。


 ふっと、前に影がさす。
 直人さんが、公園の真ん中で空を見上げて立っている。
 やっぱりその姿は透けていた。
「……美弥さん……」
 でも、呟いた声ははっきり聞こえる。
 夏服を着て、私のことを『さん』付けで呼んでいた頃の直人さんは、私に遠慮してばかりいた。
 好きっていった私の言葉を、どうしても受け入れてくれなかった。
 一度は拒否されたことを思い出す。
 私を女性としては見ることは出来ないと告げられたとき、悲しくてあきらめようとさえ思った。
 だけど、あきらめなかったのは。
 それでも、好きでいようと思ったのは。
 こんな顔をした直人さんを、見てしまったから。
 悲しい声で、私を呼んでいた。
 辛い顔で、月を見上げていた。
「私はここにいるから……」
 つぶやいた声に、直人さんがこちらに振り返った。
 金茶色の潤んだ瞳で私を見た。
 そして―。
 直人さんの姿は、そのまま掻き消えてしまった。


 残されたのは、空から降り注ぐ月の光。
 ただ、それだけ。
 もしかしたら。
 これは月が見せてくれた魔法なのかな?
 ――そうなのかもしれない。


 思い出したことがある。
 直人さんは自分が二つの姿を持っていることで悩んでいた。
 人と同じように生きていけないかもしれないことを、恐れていた。
 満月の夜は人間の言葉を話せなくなるから、そばにいることしかできないから、それで私を悲しくさせると心配してばかりいる。
 だから、私だけは、言っては駄目なのだ。
 最近ずっと仕事が忙しくて夜しか会えないのに、狼になってしまったら、話もできないなんて。
 ましてや、『大嫌い』なんて言葉は。
 絶対口にしてはいけなかった。
 頭の中ではわかっていたはずなのに。
 だめだな、私は。
 すべてを受け入れたつもりだった。
 なのに、どうして、こう擦れ違っちゃうんだろう。
 人と争うことに臆病なあの人が、いつか私に嫌われてしまうんじゃないかっておびえていることに気がついていたはずなのに。
 自分は私にふさわしくないって、逃げてばかりの彼を強引にくどいたのは私で。
 そんな私があなたを嫌うはずがないって幾度いっても、信じてくれなくて。
 種族が違うから、きっと互いに傷つけあうという直人さんに、二人で乗り越えようって誓ったのも私で。
 それなのに、気がつけば、彼を責めている私がいる。
 すごく、最低。
 でもね。
 いつかあなたが言ってくれた言葉は忘れていない。
(獣の姿の俺が好きだと、そう言ってくれたから嬉しかったよ)
 そうだよ。それだけは曲げられない真実。
 あなたの灰色の毛並みが好き。
 金茶色の瞳が好き。
 やわらかい尻尾も好き。
 抱きしめたときに感じる匂いが好き。
 眠るまでそばにいてくれる、あなたが――とても、とても好きなの。
 何も話せなくても、ずっと側にいてくれるだけでいいのに。
 それだけで、ほんとうに幸せだったはずなのに。
 見上げた空にお月さま。
 私と直人さんが出会った時も、空には月が輝いていた。
 あの時とおなじ優しい光のままで。
 謝ろう。
 そう思った。
 どんなに苦しくたって、直人さんのことが、好きなんだもの。
 ずっと先のことはわからないけれど、今は彼のそばにいたい。


 ひたひたと足音。
 人間のものじゃないけど、聞き覚えがある。
 直人さん。
 正確には狼に変わった直人さん。
 見上げると、涙で滲んだ向こうに、灰色の毛並みがうつった。
『美弥』
 声が聞こえたような気がした。
『ごめん、美弥』
 それは獣のうなり声だったけれど。
 そう言っているのだと感じた。
 直人さんは近付いてきて、擦りむいた私の膝を舐める。
『悲しませて、ごめんな』
 そんなふうに目が言っている。
 違うの。
 言わなくちゃいけないのは、私の方なの。
「ごめんね」
 そんな姿で出歩いていて、知らない誰かに見られたら大変なことになるのに。
「ほんとに、ごめん」
 あなたにもしものことがあったらと考えるだけで、胸が苦しい。
 だけど、直人さんだって悪いよ。
 自分は何もしてないのに、謝ってばかりなんだもの。
 それが直人さんの性格なのだと言ってしまえばそれまでだけど。
 たまにはちゃんと自分の意思を伝えてほしいよ。
 うつむいていたら、ふいに直人さんがスカートをくわえた。
 あっちへ行こうとでもいうように、引っ張る。
 いつもと違う、強引な態度。
『散歩をしよう』
 直人さんがそう言っているような気がして。
 私は黙ったまま、狼と並んで人のいない裏道を歩いた。


 お月さまがきれいだったので、二人で散歩した。
 お月さまがまるかったので、空を見上げて立ち止まった。
 お月さまばかりを見ていたら、悩んでいたのが莫迦らしくなった。
 私はあなたが好き。
 人の時も。
 獣の時も。
 直人さんが好き。
 私とあなたの感じ方考え方は、随分違っていて。
 超えなくちゃいけないことはたくさんあるけれど。
 やっぱり離れるのはいやだから。
 そばにいてほしいから。

「大好きだよ、直人さん」

 返事はなくても、直人さんの答えは、ちゃんとわかっている。
『俺もだよ』
 そう、聞こえたような気がしたから。
 これもお月さまの魔法かな?
 もう一度空を見上げて、私は笑った。

 きれいな、きれいな、お月さまだった。

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