「俺の逃げ場所になってください」
ある晴れた日曜日、突然我が家にやってきた青年は、挨拶も何もかもすっとばして、いきなりそんなことを言い出した。
今日はいい天気だ。
洗濯日和で、お散歩日和で、買い物日和。
だから、出来れば出かけたいと思っていたのだけれど。
「椋一さん」
縁側で大口を開けて寝ている男性に向かって声をかけるが、もちろん返事はない。
「椋一さん、こんなところで寝ていると、風邪ひきますよ」
やっぱり返事はなかったが、私は彼が寝ているとは思っていない。
仕事柄なのか、性分なのか、誰かが近づいてくる気配に敏感な彼が、私に気がつかないはずがないのだ。
私が寝たふりに気付いていることを椋一さんはわかったうえで、狸寝入りを続けているのである。
外では冷静沈着、クールなイメージを貫き、身内にはあくまで優しい良い人を演じる彼は、ここでは子供っぽく振る舞うことに決めているらしい。
いい迷惑だが、これも契約のうちなので、文句は言うけれど、結局は許してしまっている。弟が1人増えたと思えばいいのだ。随分年上の弟だが。
「寝たふりするつもりなら、踏みますが」
「宙さん、さりげなくひどいこと言っていますよ」
大げさなため息をつきながら、椋一さんは目をあけた。
「呼んでも返事をしないからです」
「すぐに返事をしたら、面白くないじゃないで……むぎゅっ!」
私は遠慮なく彼の足を踏んだ。
「うぅ、ひどいですよ、宙さん」
「ごめんなさい、ちょっとだけ足が滑ってしまって」
「踏む気満々だったじゃないですか」
踏む気満々だったのは事実なので、反論はしないでおこう。
そのかわりに、私は椋一さんの隣に腰をおろした。
座ってしまうと、ここから見えるのは、申し訳程度にしか手入れされていない小さな庭と崩れかけた塀だけだ。見ていて面白いものでもないけれど、椋一さんは、ここへ来ると、大抵縁側で寝ているか、ぼんやりと庭を眺めている。
雑草の生え具合がちょうどいいんですよ、などと言っていたのはいつだったか覚えていないけれど、それ以来、私は庭を綺麗にすることはやめた。
完璧で美しい庭園など、家へ帰ればいつだって見れるわけだし、ここはあくまで彼の『逃げ場所』なのだ。
基本的には、彼がいいな、と言ったものはそのままにすることにしている。
「いい天気ですね」
だらしなく寝ころんだまま、空を見上げた椋一さんは、微笑んだ。
こうやっていると、本当に普通の青年だ。
この人が、身分の高い家柄の出で、若くして家を継ぎ、世界を支えている人間の1人だなんて、想像できない。
顔だって普通だし、背だって平均的な高さだ。
太ってもいないし、痩せてもいない。
その辺りを歩いている一般人と同じに見える。笑顔は少々胡散臭いが、どう見ても、ただの好青年。
それ以外の顔を知らないわけではないが、少なくともこの家の中では、こんな感じで。
けれども、私は覚えている。
5年前、せっぱ詰まった顔で、私の前に現れた椋一さんのことを。
その頃、私はここよりもっと町中に家族と住んでいた。
椋一さんは、一番上の兄の友人で、家によく遊びに来ていたから、親しくなかったわけじゃない。けれど、それはあくまで『友人の妹』に対する親しさだと思っていた。
それなのに、彼は私の所にやってきて、『逃げ場所』になって欲しいと懇願した。
何故私なのかという問いには答えてはくれなかったけれど、彼の目の中の暗い影を見てしまったから、私は結局引き受けることにしたのだ。
もちろん、無償だったわけじゃない。
彼は『逃げ場所』を提供するかわりに、報酬を渡すと言ったのだ。最初は断ったけれど、彼は頑として譲らず――そうそう、ちゃんと契約していないと、逃げられるかもしれないとか言い出したんだっけ。引き受けた以上、そんなことはしないと言ったはずだけれど、あんまり彼が心配そうなので、条件を飲むことにした。
庶民には破格の報酬だったのにはびっくりしたけれど。
それ以来、私は町外れの小さな家に住み、彼が来たときには何処にも行かず側にいる、という生活をもう5年も続けている。
「宙さん、宙さん」
椋一さんが私のシャツを引っ張る。
「ひーざーまーくーら。してくださいよー」
いい年をした男が甘えた声を出しても気持ち悪いだけだ。
氷より冷たい目を向けると、期待に満ちた眼差しで返された。悔しいが、私が最終的には椋一さんの頼みを断らないのを知っているのだ。
雇い主だが、微妙に悔しい。
そんな男に甘い自分が一番情けないのかもしれないけれど。
「仕方ないですね。本当に仕方ないけど、どうぞ」
了解の返事をすると、椋一さんは、膝の上に頭をのせてきた。
金茶の髪が膝に広がる。
「随分髪が伸びてますね。ついでに言えば、ものすごく痛んでいますが」
実は、彼は元々黒髪である。知り合った頃は確かにそうだった。
その後、茶髪になったり赤くなったりと、いろんな色に染めかえている。理由は知らないけれど、彼が家を継いでからのことだから、その時、何かあったのかもしれない。
私は黒い髪の椋一さんが一番好きだったから、本当は染めては欲しくないんだけどね。
「うーん、シャンプーを変えますかねー」
頻繁に染めかえなればいいのだろうが、彼の頭の中にそれはないらしい。
私も、今のところ、止めるつもりはない。
「でも、ちょっと嬉しいですかね」
にこにこと笑いながら、椋一さんは私の顔を見上げる。
「髪が傷んでいるなんて、宙さん以外、誰も言ってくれないから」
彼の地位が高いせいなのか、それ以外の理由があるのかはわからないけれど。
職場で面と向かって彼に逆らったり何か言ったりする人は少ない。というより、仕事以外の内容を、彼と話をすることはほとんどないらしい。
家でも――ううん、家の方がもっとそうだろう。彼の行動を咎める人間などいるはずがない。悪いことも、良いことでさえも、あの人たちは彼の望む答えを口にしない。
もちろん、私だって同じだけれど、何故か椋一さんは私の方がましだという。
基準はわからないけれどね。
「こうやっていると」
椋一さんは手を伸ばして、私の頬に触れた。
骨張った手は傷だらけで、私はほんの少しだけ悲しくなる。服に隠れて見えないところにも傷は多い。傷はいつか治りますからと彼は笑うけれど、痛みがないわけではないのだから。
「宙さんは、お日さまの匂いがしますね。それにすごく暖かい」
「は?」
突然何を言い出すんだろう。しんみりした気持ちから、急に現実に引き戻されて、私は一瞬惚けてしまった。
「えーと、そこで驚かれると、困るんですけど」
「……昼にやっているドラマか、少女漫画にでも出てきそうなことを本当に言う人がいるんだと、びっくりしたもので」
「宙さん、それはあまりにも冷たい言葉ではないかと」
「普通の反応です」
泣き真似をする男にぴしゃりと言い放つ。
そもそも、私に甘い言葉だの、優しい物言いなどを期待するのが間違いだ。
「まあ、そんな宙さんだから、いいんですけどね」
さらっと言ってのけると、椋一さんは目を瞑った。
そのまま彼は沈黙する。
その顔には、疲労の色が濃い。
仕事が忙しいらしいと兄に聞いていたし、ここへもしばらく来れなかったくらいだから、疲れているのだろう。
しばらくは、そっとしておいてあげた方がいいのかもしれない。
太陽が少し傾いた頃、私は椋一さんに声をかける。
「晩ご飯、食べて帰るのなら、用意しますけれど」
まだ4時だけれど、一応の確認だ。
こうやって、ぼんやりと時を過ごしているけれど、彼は決して暇なわけじゃない。ここに来るのだって、むりやり時間を作っているのだとわかっている。
今日は比較的長くいる方だけれど、酷いときは、数分しかいられないこともあるのだ。
「んー、今日は、家でご飯を作って待っているそうですから無理ですね」
椋一さんは、疲れたように笑ってみせた。
私は、彼と家族の関係を知っているから、何も言わない。
「でも、今日は少しだけ時間があるんです。……だから、もうしばらくこうしていてもいいですか」
私が頷くと、椋一さんは安心したように瞳を閉じた。
せめて今だけでも、面倒なことをすべて忘れてしまって、穏やかにすごしてくれればいいのにな、と椋一さんの顔を見つめながら思った。