――夜の闇は緑。
深く儚い緑。――
歌姫の甘い声が、古い歌を紡いでおりました。
その声に重なるように、錆びついた楽器の音色が、薄暗い大広間に響いています。
蝋燭の明かりのみに照らされた広間では、色鮮やかなドレスに身を包んだ貴婦人たちと、仰々しく正装をした貴族たちが、押し黙ったまま、歌に聞き入っていました。
この国の王妃である彼女は、一段高い場所から、滲むように歪んだその後継をぼんやりと眺めておりました。
隣には夫であり国王でもある男が座っていましたが、彼女を見ることはありません。
心のこもらない挨拶を告げるためにやってくる客たちに偽りの笑顔を振り撒くことに一生懸命なのでしょう。
それとも、彼女のことなどただの飾りだと思っているのでしょうか?
ただ座って微笑んでいるだけの価値しかない、人形のような存在だと。
しかし、それも仕方のないことかもしれません。
王妃は、他国の出身でした。
国と国を結びつけるためだけの存在として、この国に嫁いできたのです。。
「余はそなたを正妃とは思わぬ」
彼女の夫となるべき男は初対面だったあの日、一度も彼女の顔を見ることなくそう言いました。
側にいる重臣たちも、王妃に同情する様子も見せず、ただ王の言葉に従うように頭をたれています。
冷やかかな周りに雰囲気を敏感に感じ取り、悔しさのあまり王妃は血の滲むほどに唇を強くかみ締めて涙をこらえました。まだ幼かった自分を絶望させるに十分だったあの瞬間のことは、きっと一生忘れないでしょう。
これが国同士を結びつけるための形だけの婚姻だと知っていました。
愛など存在するはずがないことも分かっていました。
けれども、ここまで強く王に拒否されるとは思っていなかったのです。好意を持ってくれていなくても、それなりの関係を築けるかもしれないと、期待さえしていたのです。
男の言葉は、幼く、未熟で、プライドだけが高かった王妃の想いを打ち砕くには十分すぎるものでした。
その日から、幾許の昼と夜が過ぎたでしょう。
いくつもの涙が流れ、そしてやがてはその涙も枯れはてて。
ただ人形のように存在する彼女がここにいるのです。
問われれば答え、笑いかけられれば微笑みを返す――ただそれだけの、からっぽの器です。
うわべだけの丁寧さで彼女の美しさをたたえる貴族たちの幾人が、彼女を敬い敬愛してくれるというのでしょう。
一段高い台座から見下ろす広間には、この国の主要な貴族たちが集まっています。
そのどれもが、媚びたような顔で王妃を見上げています。
すべてが色あせ、くだらないもののように思えました。
そういったものに偽りの敬愛を受ける自分も、くだらないものの一人なのかもしれません。
そう思い始めると、どんどんと嫌な言葉が頭の頭の中に浮かんできました。
考えてはいけないと思いながら、それはどんどん大きくなっていくのです。
スベテガ、消エ果テ、ナクナッテシマエバヨイ。
目ノ前ノ生キテイルモノスベテガ……。
ふいに。
高い声が耳元で聞こえました。
はっとして、王妃は顔をあげます。
すぐ横で、確かに知らない者の声がしたのです。男でも女でもない、奇妙な声。
けれども、すぐそばにいる夫は、傍らに控える大臣と談笑しており、こちらには目を向けていません。
彼女の周りには、彼ら以外には誰もいないのです。
王妃はため息をつきました。
疲れているのかもしれません。
気がつけば、いつのまにか歌姫の声が、途切れていました。
代わりに、人々の笑い声だけが、耳障りな音となって、聞こえてきます。
これ以上、ここにはいたくないと王妃は思いました。
留まりつづけていれば、何かとんでもないことを口にしてしまうかもしれないのです。
たとえば、さっき耳元で聞こえたような、聞きたくもない、考えたくもない、王妃自身の心の内に眠る醜い言葉を。
逃げるように大広間を出た王妃の後を追うものは、誰一人としていませんでした。
そう――夫でさえも。
いつのまに、眠っていたのでしょう。
人目を避けるように戻ってきた部屋のソファーの上で、子供のように王妃は丸くなっていました。
差し込む月明かり以外、光のない部屋は寒々としており、重く煌びやかなドレスはひんやりとしていて、王妃は自分が冷えきっていることに気付きました。
いったいどのくらい眠っていたのか、確かめようと身を起こした耳に、扉が叩く音が聞こえました。
王妃はあわてて立ち上がりました。急いで服を直し、乱れた髪の毛を整えようとし、鏡を捜します。。
身分ある婦人がだらしない姿を見せてはいけないと、幼い頃頃から言われていたからです。
いつものように、壁にかけられた鏡に自身の姿を映そうとして、首を傾げました。
確かに大きな姿見があったはずなのに、そこには何もありませんでした。
どこかへ移動したのだとしても、覚えがありません。あれは、実家から持ってきた数少ないもので、しまい込むはずもありませんでした。
思い出そうとしますが、再度扉を叩く音に、思考は中断されました。
いつまでも、相手を待たせておくわけにはいきません。
王妃は鏡のことは諦めました。
小さな手鏡で、見える範囲だけを整えると、きちんと背筋を伸ばして椅子に座り直し、王妃は「おはいり」と声をかけます。
ゆっくりと開いた扉から入ってきたのは、少女でした。
踝まで裾のある黒い服に真っ白なエプロンを身につけています。黒色の瞳と、雪のように白い滑らかな肌。瞳と同じ色の髪はきっちりと結い上げられ、随分と大人びて見えますが、実際はまだ十七歳前後というところでしょうか。
見たことのない顔でした。
新しく入った女官なのかもしれません。
「陛下がお呼びでございます」
「陛下が?」
王妃は我が耳と疑いました。
結婚したその日から、夫が彼女を呼ぶことなどありませんでした。
廊下で出会っても話しかけてくることはなく、すれ違ってもこちらに一瞥もくれません。
どうしても必要なことは、直接は口にせず、仰々しく飾り立てた側仕えの者を寄越して伝えるだけで、直接顔を合わせて話すことなど殆どありませんでした。
だからこそ、おかしなことがあるものだと王妃は思いました。今は舞踏会の真っ最中ですし、王妃がいなくともそれは滞りなく進行するはずです。今まではそうでしたし、これからも変わることなどないはずでした。
王は、いったい、どういうつもりなのでしょうか。
「何の用だというのか?」
いまさらあの男が自分を呼ぶ理由があるとは思えません。これまでも、王妃が舞踏会を抜けることはありましたが、探しに来たことなど一度もないのですから。
「陛下は、妃殿下がお出でになるのを、お待ちでございます」
そして、さらに女官は奇妙なことを言いました。
自分は夢を見ているのか、何か自分が必要なことが起こったのでしょうか。
「わたくしは気分が悪いのです。お会いしたくないと伝えておくれ」
「必ずお連れするようにと賜っております」
少女はひきませんでした。
その場を動こうとせず、王妃が承諾するのを待っています。
おそらく、返事を聞くまでは、戻ることもできないのでしょう。
王は少しばかり我侭なところがあります。自分が思いついたことが叶わないと、不機嫌になってしまうのです。
もし、ここで王妃がつまらない意地を張り続けていると、この女官が王に処罰さてしまうかもしれません。それはあまり気持ちのいいものではありませんでした。
「わかった。広間に戻るとしよう」
「はい」
少女は丁寧にお辞儀をしました。
そのときです。
ふいに眩暈がしました。
頭の中が、ぐらぐらとゆれているような感覚です。視界も滲んだように歪んでいました。
「どうかなさいましたか?」
よろめいてテーブルに手をついた王妃に、控えめながら、どこか気遣うような言葉がかけられました。
すぐそばに少女の顔があり、心配そうに王妃を見つめています。
「大丈夫だ」
気丈にもそういって、姿勢を正そうとしましたが、まだ目の前がくらくらとしました。
再びテーブルに縋った王妃は、ふっと、森の匂いがしたような気がしました。
――夜の闇は緑。
深く儚い緑。
王妃の頭を、その歌がよぎりました。同時に、目の前に立つ少女が濃い緑に彩られているように見えました。
緑色ノ女。
何故、そんなことを思ったのか、王妃が思い浮かべたのはその言葉でした。
少女はどこにも、そのような色を連想させるものは身につけていないというのに。
「妃殿下?」
「大丈夫だ。少し休んだら、広間には戻るから」
少女に向かって軽く手を振り、出て行くように促しました。
一瞬迷うような表情を浮かべましたが、少女は何も言わず静かに頭を下げ、部屋から出て行ったのでした。
仕方なく戻った大広間は、さきほどと変わりませんでした。
夫である王は、玉座の前で、数人の人間に囲まれて立っています。
「お呼びだとお聞きしました」
王妃がそう告げると、めずらしく機嫌のよい夫が、彼女に笑顔を向けました。
「歌姫が、そなたに目通りを願っておるのだ」
王が指し示す場所に、小柄な少女がおりました。
白銀の髪と、黒々とした瞳。全体的にほっそりと痩せていて肉付きの薄い体は少年といっても通用しそうでした。
彼女は、華奢な体を優雅に折り、王妃に向かって深く礼をします。
「ハジメマシテ、王妃サマ」
異国訛りのある言葉は、聞き取りにくくはありましたが、不思議と耳障りではありませんでした。
「オ目ニカカレテ、光栄デゴザイマス」
はにかむようにそういった歌姫に、王妃は鷹揚に頷いてみせました。
「私ハ、シバラクコチラニ、滞在サセテイタダキマス。ドウゾヨロシクオ願イシマス」
好意的な眼差しに、王妃は僅かに首を傾げました
普段ならば、こうやって城に招かれた楽士や歌姫たちが、直々に王妃や王に目通りを願うことはありません。
王自身は、楽に興味があり、普段から城にたくさんの楽士たちを招いているので、気に入ったものと直接会って言葉を交わすということはありますが、ほとんど表には出ない自分にわざわざ会いたいと行った理由がわからないのです。
何か意図があるのか、ただ単にお飾りの王妃に興味が沸いたのか―。けれども、歌姫の様子には、悪意などはまったく感じられません。
「マタ、私ノ歌ヲ聞イテイタダケルト、嬉シイデス」
「そうだな。機会があれば是非聞いてみたいものだ」
自然とそう言えたのは、慣れない異国の言葉を口にして微笑む姿に、好ましさを感じたからかもしれません。
「アリガトウゴザイマス」」
最後に丁寧に一礼をして去っていく後ろ姿をぼんやりと見つめていると、傍らにいた王が何か言うのが聞こえてきました。
「まことに、あの者の紡ぐ言葉は不思議だ。聞いていると、心安らぐようだな」
それが、自分に向けられた言葉だと気づいたのは、王の視線が王妃に向けられていたからでした。
もしかしたら、このようなことは初めてかもしれません。
本来ならば喜ぶべきことなのかもしれませんが、これまでのことがあるだけに、少しばかり薄気味悪く思いながら、穏やかな顔を浮かべる王の顔を王妃は見つめ続けていました。
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