舞踏会が終わったあとも、王の機嫌はよいままでした。
それは翌日になっても変わらず、普段なら朝の食事の時は一言も口を開くことはないというのに、王自らが話しかけてさえきたのです。
驚きのあまり、返事をするができない王妃に、王は機嫌を損ねることもありません。
いったいどうしてしまったのでしょう。
居心地の悪いまま、王妃は食事を終え、食堂を後にしました。
そこで、違和感に気がつきます。
不思議なことに、夕べあれほどまでに広間を賑わしていた喧騒が嘘のように、宮殿内はひっそりとしているのです。
廊下を歩く人影もありません。
こんなに静かなところだったでしょうか。
これほどまでに、人の気配がない場所だったのでしょうか。
今の時間、たまたま人がいないだけなのかもしれません。誰にも会わないのは、偶然のことかもしれません。
そうは思っても、気味悪く感じるのを押さえることができませんでした。
普段ならば、食事の後はすぐに部屋に戻り、人と会うことさえ避けるのですが、何故か今日は一人になりたくありませんでした。
かといって、どこか行く場所があるわけではありません。
ふと外に目を向けると宮殿内とは違い、明るい日差しに広がる庭園が見えました。
そこならば、誰かに会うことができるかもしれない。そう思い、王妃は庭へと降りていきました。
庭の先には、厨房があるはずですし、そこにいけば、小間使いや料理人がいるはずです。
しかし、ようやくたどり着いた厨房は、ひっそりと静まりかえり、物音ひとつしませんでした。
おかしいと思いました。
いくらなんでも静かすぎます。
王宮で働く人間は大勢いるはずなのに、兵士にも女官にも会わないというのは、奇妙です。
呆然と立ち尽くしていると、すぐ後ろから草を踏みしめる音がしました。
誰かがいる。
ほっとすると同時に、何か恐ろしい気がしました。
振り返った先にいるのが、もし「人」ではなかったならば。
あるはずもないにのに、そんな想像をしてしまいます。
けれども。
「王妃様?」
聞こえてきたのは、少女の声でした。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、以前王妃の部屋に王からの伝言を伝えに来た少女でした。
いぶかしげな顔で、王妃の方を見ています。
「どうして、このような場所に?」
少女が不思議に思うのも仕方ないかもしれません。
確かに、ここは王妃のような身分ある女性が来る場所ではありませんでした。
まさか誰もいなかったことが不安で、こんなところまでやってきたとも言えず、王妃は言葉に詰まってしまいました。
そこに、やや乱暴な足音とともに、もうひとつ別の気配が加わります。
「何やってんだ?」
背の高い、がっしりとした体格の青年が姿を現しました。
やはり初めて見る顔でした。
青年は、まず最初に少女の方を眺め、それから、王妃に視線を移しました。
何事か考えるように眉を潜めていましたが、ふと思いついたように口を開きます。
「あー、そうだったっけ、王妃様だったか。なんでこんなところにいるわけ」
敬語も使わず、敬うような様子も見せず、王妃に対するとは思えない態度です。
少女が薄く笑いましたが、青年を諫める様子もありません。
「そなたたち……」
何者なのか、そう尋ねようとしました。
ですが、王妃の言葉は途中で遮られることになりました。
急に、世界から音が消えたからです。
鳥の鳴き声も、風によって揺れる草木の音も、自分自身の声さえも。
同時に、目の前が―世界が緑に染まっていきます。
青年も、少女も、景色も。
王妃は、目眩がするような色彩の感覚に、悲鳴を上げそうな気がしました。
おぼつかない足下に、よろめきそうになります。
「大丈夫か?」
青年の声が、すぐ近くで聞こえました。
眩しい光が青年によってさえぎられ、薄暗がりの中、その姿を凝視した王妃は、呆然としました。
白いシャツに鼠色のズボン、焦げ茶の髪と明るい茶色の瞳――容姿や身につけている衣服のどれを見ても、そこに緑色はありませんでした。
それに気付いたとたんに、視界をかすめるように見えていた「緑」が跡形もなく消えてしまったのです。
「こんなところに、うっかり迷いこむから、そんな目に会うんだよ」
青年は、不愉快そうに言いました。
王妃である彼女に、あからさまにそんな態度を取る人間は初めてでしたが、今はそれを咎める気にさえなりません。
「そなたは何者だ?」
「……下働き?」
青年の答えに、王妃は眉を潜めました。わずかに上がった語尾にからかうような響きを感じられたからです。
「本当にそうなのか?」
「疑ってるのかよ。気になるなら、他の誰かに聞けばいいだろ」
青年の言葉に、王妃は、自分が人気のなさに不安になり、誰かいないかと探していたことを思い出しました。
「聞こうにも、今日は人が少ないようだが」
思わず漏らした言葉に、青年は首を傾げています。
「誰もいない? そんなことないだろ」
青年の言葉が響いたとたん、あたりにざわめきが戻ってきました。
人の歩く音。
兵士たちの話し声。
厨房で誰かを叱る怒鳴り声。
そんな莫迦なと、王妃は思いました。
先ほどまでの静けさが錯覚だったかのような状況に、目眩がします。
それまで黙っていた少女が、ふいに口を開きました。
「ご気分がお悪いのではございませんか、妃殿下。私がお部屋までお送り致しましょう」
そう言ってくれる少女さえも恐ろしいものに思えました。
少女の顔には表情がなく、心配そうな口調とは裏腹に、何を考えているのかを読み取ることができなかったからです。
王妃は申し出を断り、逃げるようにその場を離れました。
結局、そのままどこへも行かずに部屋に戻った王妃は、夕食の時間になるまで外に出ることはありませんでした。
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