その日の夕食も、奇妙なものでした。
滅多に王妃と一緒に食事をしない王が、ふらりと食堂に現れたのです。
しかも、驚く王妃を見ても、不機嫌になることもありませんでした。
やはり、何かがおかしいのです。
気持ち悪さと得体の知れない不安に、王妃は食事も喉を通りませんでした。
すこしばかり不作法ではありましたが、このまま席を立ってしまおうか。そう思った程です。
「そういえば、后よ」
突然の呼びかけに、王妃は、持っていたナイフを落としそうになりました。
唖然としたまま、席を立とうとしたことさえ忘れてしまった王妃は、王の顔を凝視してしまいます。
「そなたはあれから、歌姫の歌を聞いたか?」
歌姫というのは、数日前に王が招いた、異国の少女のことでしょう。王はいたく気に入り、何度か彼女を呼び歌を歌わせているようでした。
反対に、王妃は、あれきり歌姫には会ってはいません。
「あの歌を聞いていると、忘れていた何かを思い出しそうになるのだ」
遠く視線を彷徨わせながら、王は呟きました。
「そうだ、忘れてはいけない何か、だ。そなたも聞いてみればいい。きっと心が和むだろう」
王の目はどこか虚ろで、王妃に視線を向けていながら、彼女を見てはいませんでした。
本当にどうしてしまったというのでしょう。
不安ばかりが大きくなるのを、王妃は押さえることができませんでした。
それからしばらくは、何事も起こりませんでした。
王が、食事の時以外にも、顔を合わせれば声をかけてくるようになったことが奇妙ではありましたが、それ以上おかしなことはありません。
以前と変わらない日々に王妃の胸から、少しずつ不安が消えはじめていました。
このまま何も起こらず、退屈な日々が続くのだろうと、漠然と思い始めていたほどです。
そんな時でした。宮殿の廊下を歩いていた王妃の耳に明るい歌声が聞こえてきたのは。
異国の歌姫の声だということはすぐにわかりました。
聞いたこともない旋律、覚えのない言葉のはずなのに、ひどく懐かしく耳に響きます。
足を止めて聞き入ってしまったのは、不思議に心地よい歌声のせいなのか、それとも王の言葉が頭の中に残っていたせいなのでしょうか。
どちらなのか、王妃自身にも答えは出せませんでしたが、立ち去りがたく、視線を歌姫に向けたまま、しばらく歌に耳を傾けることにしました。
歌姫は、四方を回廊で囲まれた庭の中央にある小さな噴水の前に立っています。
わずかに顔を空に向け、両手を胸の前で組み合わせたまま歌う姿は、一枚の絵のようでもありました。
やはり、懐かしい気がすると王妃さまは思いました。
どこかで、確かに聞いたことがある歌なのです。
けれども、どんなに考えても、歌姫とは初対面で、歌にしても異国の言葉にしても、聞いた覚えなどありませんでした。
王妃の口から、ため息が漏れます。
それは、自分の予想以上に大きく、それを聞きとがめたのか、歌がふいに止みました。
王妃に気がついた歌姫がこちらを向き、深々と頭を下げました。
「よい歌だった」
思わず口をついて出た言葉は、何故かとてもしっくりとしました。
『よい歌だった』
前にも、そんなことを言った気がします。
それは、遠い昔、まだ自分が幼かった頃ではなかったでしょうか。
歌も相手も覚えていないはずなのに、確かに存在する記憶です。しかし、不鮮明な記憶は、呼び覚まそうとすればするほど、曖昧になり頭の中がぼうっとなってくるのでした。
『よい歌でした』
ふいに頭の中に、幼い少女の声が響きました。
同時に、目の前にある景色が歪み、代わりに見えてくるのは、花の咲き乱れた庭と、それが見える広い部屋でした。
部屋には、2つの人影が見えます。
大きな影と、その半分しか背丈のない小さな影。
『お前に、誕生日の贈り物だよ』
誰かの声が、遠くに聞こえました。
『不思議な……だ。……の精霊が住んでいて、歌を歌ってくれる』
目線をあわせた誰かが優しく頭を撫でてくれました。
『……にお願いしてごらん』
小さな影はうなずき、目の前にある何かに向かって頭を下げました。
やがて聞こえてきたのは優しい歌声。
聞いたことのない言葉と旋律。
懐かしい、懐かしい歌が聞こえています。
自分はこの歌を知っています。
そう、あの小さな影は。
「王妃サマ……?」
王妃を呼ぶ小さな声に、現実に引き戻されました。
さっきまで確かに見えていたはずのの部屋は消え、見慣れた王宮の庭が広がっています。
「王妃サマ、顔色ガ、悪イデス」
「大丈夫だ」
「デスガ……」
「少し疲れただけだ」
先ほどまでの幻覚を振り払うようにしっかりと前を見つめながら、王妃は歌姫に微笑みかけました。
「良い歌だった。また、聞かせてもらえるか?」
王妃の言葉に、歌姫は頷きました。
けれども、その美しい顔は曇ったままで、王妃を見つめる目は哀しげでした。
どうしてなのだろう。
不思議に思いながら、何故か王妃はその理由を尋ねることが出来ませんでした。
聞かない方がいい―頭の片隅で、何かがそう囁いている気がしたからです。