庭で歌姫に会った日から、王妃は頻繁に彼女を呼び寄せるようになっていました。
それまで、自室に人を入れたがらなかった王妃には珍しいことでした。
歌姫の歌は懐かしく心地よく、何故か何度でも聞きたくなるのです。
その日も、王妃は歌姫を呼び、歌を歌わせていました。
心地よい歌声に、いつしか王妃の目は閉じ、眠りに落ちていきます。
そうやってどのくらい眠っていたのでしょう。
ふと、意識が鮮明になりました。けれど、不思議なことに、体はまるで動かず、意識だけがはっきりとしています。
「あまり時間がないと思うわ」
すぐ近くで、女性の声がしました。
その声の主は自分を覗き込んでいるようでしたが、それが誰なのかを見ることはできません。
「早くしないと、体が持たないと思う」
先ほどの声が、ため息とともに言葉を続けます。
声には、聞き覚えがありました。しばらく記憶を探り、それが舞踏会の時、王妃を呼びに来た女官であることに気付きました。
「前に見た呪いとは違うのか?」
次に聞こえてきたのは、男性の声でした。こちらも覚えがありました。
自分に対してまったく敬意を払わなかった青年に間違いありません。
「あれは、外部からかけられたものだったけれど、これは違うわ。だって、自分自身でかけた呪いだもの」
「なるほどね」
「心に鍵をかけてしまった、と思えばいいわ」
「ややこしいことで」
「解ケルノデショウカ?」
不安そうな声―これはあの歌姫のものです。
歌姫が部屋にいることはわかります。王妃が呼んだのですから。ですが、何故、あの女官と青年がここにいるのでしょう。
「あの人が、これは夢だと気がついてくれるのが、一番早いのだけれど」
少女が放った夢という言葉に、王妃は眉を潜めました。
ごくありふれた言葉だというのに、何故か不吉な響きを感じてしまうのです。
『夢』
口の中でそっと呟くと、いつかと同じように目眩がしました。
「夢は、覚めるものよ」
断言するような少女の言葉にはっとします。
「夢はいつか覚めるもの。そうでしょう、妃殿下」
はっきりと、自分に向けられた言葉に、何かが音を立てて崩れていくような気がしました。
「………のためにも、早く目を覚まして」
彼女が言った誰かの名前は、きちんと聞き取れませんでした。
「私ハ、少シデモ早ク王妃サマガ目ヲ覚マスコトガデキルヨウ、歌イ続ケマス」
祈るような歌声が響きはじめたのは、その言葉の後です。
そして、王妃の意識は深く深くどこかへと落ちていくのでした。
いつのまにか、王妃は夕暮れの自室に立っていました。
先ほど、確かに自分の側で話していたはずの歌姫たちの姿は見えず、部屋には彼女ひとりきりでした。
これは夢なのかもしれない。そう、王妃は考えました。
赤く染まる空の下、王宮は喧騒に包まれているのです。
駆け抜ける兵士たちや、泣き崩れる女官たちが皆、もうこの国は終わりだと叫んでいました。
おかしい、とぼんやりと思いました。
戦など起こるはずがありません。さきほどまで、そんな気配など微塵もありませんでした。たくさんの人が、平和に暮らしていたはずです。
大体、いくら政務に関わらなかったとはいえ、そんな動きがあれば、王妃にもわかったはずです。
本当に?
誰かが耳元で囁きました。
あなたは覚えていないの?
この城であったことを、あなたは知っているはず。
「やめて!」
耳を塞ぎ叫んだとたん、辺りの景色が一変しました。
気がつくと、夕暮れの風景は消え、窓から見える空にあった日は落ち、辺りは闇に包まれています。
「もうすぐ、この城は落ちる」
いつのまにか、隣に王が立っていました。
普段とは違う簡素な服を着て、腰に剣を帯びています。
「そなたとはこうして二人きりで話したことはなかったな」
視線は窓の外に向けたまま、王は静かにそう言いました。
そういえば、こんなに近くで王の顔を見るのは初めてかもしれないと、王妃は思いました。
皺の増えた顔や、白いものが混じり始めた髪に、ふと王も自分も年を取ったのだと気がつきます。
「私は、そなたには謝らねばならぬと思っていた」
淡々と言葉を紡ぐ王の横顔には何の表情も浮かんではいませんでした。けれども、その瞳は穏やかで静かです。
「つまらない意地を張り続けていて、悪かった」
「陛下?」
彼は何を言おうとしているのでしょう。
なにより、これは夢のはずなのに、何故こんなにも生々しいのだでしょう。
まるで、かつて体験したかのように、何もかもが鮮明なのです。
「私には、王となる力量がなかった。王となるには、私を後継してくれる者の言うとおり、強い力を持つ国から后を迎えるしか方法がなかった。……いや、あったのかもしれぬが、私は一番安易な方法にすがってしまった」
思い出しました。
王は正妃の子供でしたが、他の兄弟たちに比べ、統治者としての器量は劣っていたと聞きます。大多数の重臣や貴族たちが兄弟たちを押す中、彼には第一王子であるという強みしかなく、結局は大国の王族を后に迎え、その国が後ろ盾になることによって王になったのだと、王妃はかなりたってから知ったのです。
「自分が王になることに必死で、そなたのことを思いやる気持ちなど、まったくなかった。まだ幼かったそなたにとって、知らない者ばかりの国に嫁ぐことがどれほどに大変なのか、知っていたはずなのに」
王がつまらない意地を張り続けたというのならば、王妃もそうなのでしょう。
自分を見ようとしない王を無視し、いないかのように振る舞っていたのは事実なのです。
歩み寄る機会はあったかもしれないのに、互いにそれを気づかないふりをし続けていたのですから。
「本当は、そなたを嫌っていたわけではないのだ。私は自分の不甲斐なさをごまかすために、そなたに八つ当たりしていたようなものだった」
「陛下だけが、悪いのではありません」
これが夢だと思っているからなのでしょうか。
王妃の口からは、自然に言葉が出てきました。
「私も、子供でした。政治のことも、陛下の立場も知らず、ただ子供の我が儘で回りが自分を見てくれないことに怒っていたのです」
「……お互いが子供だったということだな」
王が向けた初めての笑顔は、優しく―そして、淋しいものでした。
「そなたは、逃げなさい」
「陛下?」
「この部屋には、私の部屋と同じように、隠し通路への入口がある。そこを使いこの城から逃げるのだ」
王の姿が、朧に霞みはじめていました。
これは夢だから。
どこかで誰かが囁く言葉が聞こえます。
すべては幻だから。
その声に呼応するように、景色が滲んでいきます。
「早く行きなさい」
その言葉を最後に、王は王妃に背を向けました。
「お待ち下さい、陛下!」
引き留めようと伸ばした指先には、何も触れることはありませんでした。
「陛下!」
叫んだ声がむなしく響き―一瞬のうちにすべての景色が色あせ、消えてしまいました。
後に残るのは、暗くて光りのない闇ばかりです。
ああ―やはり、これはすべて夢なのだ。
王妃は誰もいない暗闇の中で、そう呟いたのでした。