365のお題

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  341 みちしるべ (みどりのうた 5)  

 気がつくと、王妃は、自室の長椅子の上で横になっていました。
 やはりあれは夢だったのだと、普段と変わらない部屋の様子に、王妃はほっと息を吐き出しました。
 どうして、あんな不吉な夢を見てしまったのでしょう。
 夢を見る直前に聞いた、不思議な声のせいかもしれません。
 いえ、あれもまた、夢だったのでしょうか。
 少女と、青年と、歌姫の奇妙な会話。
『夢は覚めるもの』
 それは、耳にこびりついたまま消えず、トゲのように王妃の中に残っています。
『……のためにも、早く目を覚まして』
 誰のために、目を覚ますというのでしょう?
 何故、歌姫は歌い続けると言ったのでしょう。
 夢だから意味のない言葉ばかりだったのか、それとも現実だったのか。
 あまりにも曖昧すぎて、どちらとも判断できません。
 歌姫―あるいはあの少女を呼び出し、尋ねれば解決は早いかもしれませんが、それをするのを躊躇う気持ちが王妃にはありました。
 もし、全て本当のことだったら、自分はどうすればいいのか検討もつかないのです。
 何を考えても、結局は同じところをぐるぐると回っているような気がして、気分を紛らわすために、王妃は少し外の空気を吸うことにしました。
 椅子から立ち上がり、乱れた服を直そうと、無意識に姿見を探してしまいます。
 けれど、すぐに姿見は無くなっていたのだということを思い出しました。仕方なく、部屋の片隅に置かれた鏡台で衣服を直すと、王妃は、部屋の外に出たのでした。


 王宮内は、静かでした。
 空はすでに日も落ち暗くなっていましたが、それほど遅い時間ではないはずです。それなのに、人の気配はまったくありません。
 こんなことが前にもなかったでしょうか。
 そう。あれは、今と同じように王宮内を歩いていたときでした。
 時刻は違いますが、状況は似ています。
 あの時と同じように得体の知れない不安がこみ上げてきました。
 そういえば、あの不思議な青年にあったのも、こういう時ではなかったでしょうか。
 あれ以来姿は見ていませんが、印象深い青年でした。頭の片隅には、あの時の不遜な態度が残っています。
 いったいあれは何者だったのだろうと、王妃は思い出すたびに考えていました。再び会うことがあったのならば、いろいろと問いただしたいこともありました。けれども、どれほど王妃が王宮内を捜しても、見つけることはできなかったのです。
 青年と知り合いであるらしい女官にも尋ねましたが、うまくはぐらかされるばかりでした。もしかすると、青年が自分のことを避けているのかもしれません。
 最初から、王妃に対して好意を持っているようには感じられませんでしたし、態度もよくありませんでした。
 あの青年に会うには、偶然に頼るしかないのでしょうか。
 そんなことを考えながら、廊下を曲がった時でした。
 静かで薄暗いそこに、うずくまる人影がありました。
 一瞬、気分が悪いのかとも思いましたが、そうではなく地面にはいつくばっているようなのです。
 よく見れば、人影は床にはめ込まれた石の隙間を何度も何度も指先でなぞっていました。
「何をしている?」
 あまりにも不審な態度に、王妃は思わず声をかけてしまいました。いかにも怪しいのですから、本来ならば衛兵を呼ばなければならないというのに。
 うずくまっていた人影は、「うわ!」と叫ぶと飛び上がるように立ち上がりました。
 こちらを振り返った顔に見覚えがあります。
「そなたは…まさか」
 そこにいたのは、さきほどまで王妃が考えていた青年です。
 相手も、自分に声をかけたのが王妃だと気がついたようでした。
「なんだ、王妃サマかよ。まったく、ここの連中は気配がないから困るぜ」
 ぶつぶつと呟きながら、不躾な視線で、青年は王妃の姿をじろじろと眺めました。
「こんな時間に、散歩か?」
 相変わらずの物言いに、王妃は知らずに口元を綻ばせていました。確かに青年は言葉遣いも悪く、態度もよくないのですが、不思議と不快ではありませんでした。
「散歩? そんなものだ」
 軽く青年の問いを流すと、今度は王妃の方が彼を眺めます。
「そなたこそ、何もない床をなで回して、何が楽しい?」
「いや、まあ、別に、意味はないわけで」
 歯切れが悪い上に眼が泳いでいます。
 しかし、はいつくばって床をなで回すというのは、普通のことではありません。
 男が見ていた床は、他の場所と同じように美しく磨かれ傷ひとつなく、何かがあるようには見えないのですから。
「意味がないとは思えないが」
 王妃はさらによく見ようと、腰を屈めました。
 けれども、やはりそこには何も見えませんでした。
「何か落としたわけではあるまい?」
 先ほどの青年の様子を思い浮かべながら王妃は尋ねました。あれは落ちた何かを探すというよりも、表面の様子を見ているという感じだったのですから。
「落とし物、といえば、そうだろうな。俺が捜しているのは、誰かが昔に落とした何かだよ」
 謎めいた言葉と笑いは不愉快なものでしたが、嘘を言っているようには思えませんでした。
「王妃さま。あんた本当に何もかも忘れちまったのか?」
 青年の顔は真剣で、心の底から王妃のことを心配しているように見えました。
 先ほどまでのふざけた態度は微塵も感じられません。
「あんたの大事な者、好きなもの、……愛する者。全部忘れちまって本当にいいのか?」
 目に浮かぶのは、同情のようにも見えます。けれども、王妃には何故自分がそんな目で見られるのかわかりませんでした。
「私は何も忘れてはおらぬ」
 強い口調で否定しましたが、心の中には不安がありました。
 否定すれば否定するほど、それは違うのではないかという漠然とした思いがわき上がってくるのです。
「あー。そうか。忘れたことも忘れてるだった。うっかりしてたぜ」
 自嘲するように笑うと、男は、初対面の時と同じ、生意気そうな表情を浮かべました。
「欠片を探しな」
「欠片だと?」
「そう。あんたの大事な宝物の欠片。この城のどこかにあるだろう。俺よりも、きっとあんたの方が見つけやすい」
 青年は、それきり口を閉じました。
 王妃が何を尋ねても答えず、曖昧に笑っているだけです。
「それじゃ、俺は行くぜ」
 男は王妃の返事もまたずに、そのまま背を向けました。
 王妃が何を言っても返事はせず、足場やに立ち去っていってしまいました。
「いったい、何なのだ?」
 尋ねた言葉に応える者はそこには誰もいませんでした。


 欠片とは、何なのでしょう。
 部屋に戻った王妃は、ずっと考えていました。
『あんたの大事な宝物の欠片』
 青年はそう言いました。
 けれども、心当たりなどありません。幾らあまり城内を出歩かないとはいっても、長く住んでいる場所なのです。自分の大切な物を、自身の部屋以外に置くなど考えられません。
 本当に大切なものならば、落としたことにすぐ気がつくはずです。幾つか思い浮かぶものもありましたが、探すまでもなく、全ての物は部屋に存在していました。
 では、『大事な宝物の欠片』とは何をさすのでしょうか。
 まず思いつくのは宝石です。
 生家から持ってきたものも、この国にやってきてから揃えられたものも、高価なものばかりです。けれども、気に入ったものはあっても、大事だと言い切れるほどに思い入れがあるわけではありませんでした。
 それ以外で、自分が大事だと思う物。
 あるとすれば、この国に持ってきた調度品や本、細々とした身の回りのものくらいでしょう。
 両親が、幼くして嫁ぐ娘のために揃えてくれたものや、普段から愛用していたものなどです。
 そこまで思った時、ふと気がつきました。
 そういえば、数日前、部屋の中に鏡がないことに気がついたのではなかったでしょうか。
 その時は気にしませんでしたが、無くなったものといえば、それしかありません。
 割ってしまったのか、どこかへやってしまったのか。
 その記憶はないのに、いつのまにか消えてしまった姿見。
 もしかすると、王妃が無くした『大事な宝物』というのはそれなのでしょうか。
 しかし、そうであるという確信が持てません。
 本当に大事だったのか、そうでなかったのかも曖昧ですし、よく考えてみれば、その鏡がどんな大きさで、どんな飾りがつけられていたかも思い出せないのです。
 それでも。
 ようやく掴んだ手掛かりです。
 明日から、鏡のことを探してみよう。
 王妃はそう決心したのでした。


 朝目覚め、身支度を調え食事を済ますと、王妃はまずは自分の部屋から調べてみることにしました。
 とはいっても、一通り何があるかは把握しているつもりです。普段見ないような棚の奥やクローゼットの中を確かめてみましたが、そこには鏡はありませんでした。
 部屋にやってきた女官にも尋ねてみましたが、心当たりはないといいます。
 移動したとしても、割れたのだとしても、部屋係の人間が知らないはずはありません。
 隠していると言う可能性もありますが、そこまでする必要などあるのでしょうか?
 幾ら他国から嫁いできたとはいえ、もう何年もたつのです。必要以上に親しくなったりしたわけではないですが、それなりに気心は知れています。
 騙したり、騙されたりする関係ではないはずなのですが。
 部屋では特に手掛かりを見つけられなかった王妃は、今度は王宮内の誰かに聞いてみることにしました。
 しかし結果は同じです。
 誰もが、王妃の部屋にあったはずの鏡のことなど知らないと言うのです。
 散々王宮内を歩き回ったところで、王妃はとうとう誰かに聞くのは無駄ではないかと思いはじめました。心当たりがある場所は、すべて探し尽くしたのですから。
 これ以上は、どこを探せばいいのか、まったく検討も尽きません。
 そもそもあの青年の言葉を鵜呑みにしてしまったこと自体が間違いだったのではないのでしょうか。
 もう一度部屋に戻り、考えた方がよいようです。
 重い足取りのまま、王妃は自室へ続く廊下を歩き出しました。そういえば、夕べ、この先を曲がった辺りであの青年に会ったのでした。
 今日もまたいるのでしょうか? そして、夕べのように何かを探しているのでしょうか。
 どこか期待しながら、王妃はその角を曲がりました。
 しかし、そこに立っていたのは、青年ではなく少女でした。あの日、王妃の部屋にやってきた女官です。
 彼女は、王妃の姿に気がつくと、軽く頭を下げました。
「妃殿下」
 王妃が近づくと、彼女は静かな声で、そう呼びかけました。
「探し物は見つかりましたか」
 何もかも見透かすような瞳が、じっと王妃を見つめています。王妃は目をそらすことも出来ず、息を詰めたまま少女を眺めました。
「探していないところがおありでしょう?」
 やがて、張り詰めた空気を破るかのように少女が声を発しました。
 囁くような声は、静かな廊下に思いのほか響き渡ります。
「妃殿下が、一度も訪れたことがない場所。でも、行きたかった場所」
「それは謎かけか?」
「どうでしょうか」
 表情の乏しい少女の顔からは、彼女が何を考えているのかわかりません。
 ただ、その瞳にはほんの少し優しさが見えたような気がしました。
「そこに行けば、探し物が見つかるというのか?」
「……恐らくは」
 彼女はそう言うと、深々を頭を下げました。
「わかった。行ってみよう」
 王妃には、少女が言った場所に心当たりがありました。
 この城の中、一度も王妃が訪れたことがない部屋。
 それはたったひとつしかありません。
 一番近い場所にいながら、誰よりも遠い人―彼女の夫であり、この国を納める王。
 その人の部屋こそが、王妃が一度も訪れたことがない場所なのでした。



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