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  353 届け (みどりのうた 6)  

 王宮の奥まった場所―王妃の自室とは正反対に位置する場所に、王の部屋はありました。
 不思議なことに、廊下にも、部屋の前にも誰もおらず、辺りは静かでした。
 王妃以外の人間など誰もいないように感じてしまうほどの静寂です。
 まただ、と王妃は思いました。
 王宮内に生きている者が存在しないような恐ろしい感覚を覚えるのは、これで何度目なのでしょう。
 王の部屋の前に控えているはずの兵士も、廊下を忙しなく歩く重臣たちも、女官たちも、まったく見あたりません。
 もし、この先の部屋に、王さえもいなかったら?
 本当は王妃が一人きりで見ている悪夢なのだとしたら?
 扉を開けるのを躊躇してしまうのはそう思ってしまうからかもしれません。
 そう考えてしまうと、扉を叩く手さえ躊躇うのです。
「そこにいるのは、后か」
 そうやって扉の前に立ち尽くしていた王妃の耳に、静かな声が聞こえてきました。
 王の声です。王は扉の向こうに存在しているとわかり、ほっとすると同時に王妃は緊張します。
 思えば、この国に嫁いできた時から、王妃はここを訪れたことはありませんでした。王に用事があるときは、必ず側仕えの者に伝言を頼んでいましたし、あちらもそうだった気がします。年に一度か二度は、王が王妃の部屋を訪ねてくることはありましたが、その逆はありませんでした。
「入りなさい」
 王の言葉に、王妃はゆっくりと深呼吸しました。
 まだ、扉にかけた己の手が震えていましたが、ここで躊躇っていても、答えを見つけることはできないのです。
 覚悟を決めて、王妃は、扉にかけていた手に力を込めました。
 見た目と同じで重い扉は、今の王妃の心境のようでした。
 ここは、彼女をずっと拒み続け、受け入れることのなかった男の部屋なのです。王妃自身も同じように王を拒み、どんなことがあっても近づくことをしなかった名ばかりの夫の部屋。
 まさか、こんな形で訪れることになろうとは考えもしませんでした。


 部屋の中は、思っていたよりも質素でした。
 華美な装飾もなければ、豪華な具も一切ありません。
 室内にいる王自身が身をつけている衣服も地味な色合いのものです。
 色鮮やかな衣服を着て、宝石で着飾った王しか知らない王妃には、想像も出来ない姿でした。
 そういえば、王妃は、執務を離れた王が、普段どんな姿をしているのか、どうやって過ごしているのかも知らないのです。
「ようやくここまでたどり着くことができたのだな」
 語りかける王の口調は穏やかでした。
 ただ静かに何もかもを悟った様子で、王妃を見ています。
 王は―彼は、王妃がここへ来ることを知っていたのでしょうか? 
「お前の欲しいものはこの部屋にある」
 王の言葉に、王妃は無意識のうちに背筋を伸ばしていました。
「だが、私はそれの場所をそなたに教えることが出来ない」
「自分で見つけろということでしょうか」
「そうだ。……そうしなければ、永遠に夢の中だ」
 夢と言う言葉は、前にも聞きました。あの女官と青年、歌姫が口にしていたのではなかったでしょうか。
「陛下、夢の中とはどういうことなのですか」
 答えが知りたいと思いました。
 誰もが、口にする『夢』とはどういう意味なのでしょう。まさか、これが―今ここにある全てが夢だと、そんなことを言い出すのではないでしょうか。
 ありえないと思うのに、それを何故か否定できないのです。
「それは……私には答えられない」
「答えられないとは、どういう意味なのですか」
「そのままの意味だ。そなた自身が見つけなければ」
 やはり、王は、あの青年や少女と同じことを言います。
 それを見つけるのは王妃自身なのだと。
「そなたが、欠片を見つけ、戻ってくるのを待っているぞ」
 ふと、王の姿が揺らぎました。
「陛下?」
 驚いて呼びかけましたが、王の姿は徐々に薄らいでいきます。
「しばしの別れだ」
 囁くほどに小さな声が辺りに響きました。
 そして。まるで初めから存在していなかったかのように、王の姿は消えてしまったのです。
「陛下」
 呼びかけても、もう返事はありませんでした。
 確かに、彼女の目の前にいたはずの姿は、どこにもありません。
 辺りを見回しても、王の気配さえ感じないのです。
 人間が突然消えてしまうなどということは、ありうるのでしょうか。
 いいえ、それよりも。
 王だけではなく、城の中には人の気配がしません。
 ひとりぼっちなのだと、王妃はふいに気がつきました。
 これは夢なのか、それとも、王妃自身がまぼろしなのか。
 夢だとすれば、悪夢です。
 もしかすると、醒めることがないかもしれない夢。
 早く欠片を探さなければ恐ろしいことが起こりそうな気がしました。じっとしていると、恐怖に押しつぶされてしまいそうです。
 これが夢だったとしても、現実だったとしてもやるべきことはひとつしかないのかもしれません。
 もしかすると、今目の前にある現実を受け入れず、自身の部屋に戻れば、なにもかもなかったことになるのかもしれないとも思いました。
 昨日と同じように目覚め、ひとりぼっちで部屋で過ごし、誰にも孤独を見せないように生きていく毎日。
 淋しいかもしれませんけれど、心を乱されることもない平穏で単調な日々です。
 一瞬、迷いが生じました。
 これが夢なだとして、目が覚めた時の方が幸せだと、どうして言えるのでしょう。
 このままでいる方が幸せなのではないかと。
 けれども、もうこれ以上、わけがわからないことに振り回されるのは嫌でした。
 歌姫にも、不思議な青年にも、得体の知れない少女にも。
 それから、王のこともあります。
 今までとは違う態度や、先ほどの不可解な消え方など、わからないことだらけです。
『大事な欠片』を見つけることで、何かわかるかもしれないことを知ってしまった今となっては、何も知らないフリをし続けることは、もう出来そうにもありませんでした。


 まずは本棚や衣装棚などを順番に見ていくことにしました。
 夫とはいえ、ほとんど他人である男性の部屋を調べるというのは、どこか気が引けて、どうしても恐る恐る扉を開いてしまいます。
 誰も来るはずがないとわかっていてもです。
 余計なことはなるべく考えないように、王妃は黙々と作業を進めることにしました。
 きちんと片付けられているとはいえ部屋の中を確かめるのは、骨が折れる作業でした。
 それでも。
 日が沈む頃には、大体の場所を探しつくしていました。
 後は、王の寝室だけです。
 ここになければ、もう探す場所は思いつきません。
 王妃はさらに時間をかけ、丁寧に探し始めました。
 そして。
 寝台の横の棚を開いた時、微かに今までとは違う匂いのようなものを感じました。
 緑―そう、新緑の匂いです。
 もしかすると、ここにあるかもしれない。そう王妃は、そっと中を覗き込みました。
「ああ…」
 王妃の口から、ため息のような声がこぼれ落ちました。
 割れた鏡の欠片。
 それは、鈍い光を放ち、王妃の顔を映し出していました。
「これが、『大事な欠片』とやらなのか?」
 部屋にあった鏡の一部なのでしょうか? いつのまにか王妃の部屋から消えてしまったはずの鏡。
 そうだとすれば、あの姿見は割れてしまったのでしょうか。
 何故割れてしまったのか、どうしてこれが大事なのか。目にした後でも、まったく思い出せません。
 もしかしたら、探し物は違うものなのかもしれないとも思いました。
 しかし、その考えを否定する何かがあるのです。
 王妃は、そっと手を伸ばしました。
 例え、これが探していたものではなかったとしても。手にとって確かめてみるくらいはするべきでしょう。
 恐る恐る触れたそれは、わずかに暖かく、しっくりと手になじむようでもありました。
 近くで見ると切り口は鋭利で、ヒビが入っています。気をつけて触らなければ、手を傷つけてしまいそうでした。

 あの時も、そう思った……。

 ふと、そう呟いていました。
 
 あの時?
 眉を顰め、王妃は浮かんできた言葉の意味を考えました。
 あの時とは何なのか。
 そう思った瞬間でした。
 音のなかった世界に、ざわめきが戻ってきたのです。


 いつかと同じ風景が目の前に広がっていました。
 駆け抜ける兵士たちや、泣き崩れる女官たち。
 窓から見下ろす広間では、絶望に顔を曇らせた者たちが走り回っています。
 それを目にしたとたん、まるで何か憑きものが落ちたかのように、すべての記憶が鮮やかに蘇りました。
 世界のすべてが終わったのではないかという絶望感に打ちのめされた日。
 忘れてしまうには強烈な記憶のはずなのに、無くしてしまった記憶でした。
 あの日、前々から不穏な動きのあった隣国から攻められた国は、あっさりと敵の手に落ちました。
 王は行方不明、城は落ち、すべて焼け落ちてしまいました。
 逃げ延びた場所から見た、妬けていく城を見た時の感情を、なぜ忘れていたのでしょう。
 すべてを失い、ただ独り残された自分に絶望したはずなのに。
 やはりすべてが悪夢でしかなかったのでしょうか。
 その思った時でした。
 どこからか、歌声が聞こえてきたのです。
 それは、懐かしい歌でした。
 父にもらった誕生日の贈り物の、曇りひとつない綺麗な鏡の中に住んでいた精霊が歌ってくれた美しい歌です。
 そして、その声は。
「王女サマ」
 振り返ると、誰もいないはずの部屋の中に、少女が立っていました。
「お前は、鏡の精霊―」
 輝く銀色の神と瞳。
 美しい声。
 懐かしく愛しい、彼女の大事な友達。鏡に住む精霊は、初めてできた友達でもありました。
 城が落ちたとき、一緒に崩れ落ちてしまったはずの、鏡。
 もう2度と会えないと思っていた存在でした。
「シェーナ=ルーディ」
 彼女が名付けた精霊の名前を呼ぶと、歌姫は。
「王女サマ―ヨウヤク思イ出シテイタダケマシタネ」
 美しい歌姫は、微笑み―そして、砕け散って消えてしまいました。
 後に残ったのは、小さな欠片となってしまった鏡でした。


 気がつくと、王妃は淋しい森の中にいました。
 どこか見慣れた木々の色に、そういえば、いつも城から見下ろしていた森に似ているなと、思いました。
 手の中には、小さな鏡の欠片があります。
 あれは、王妃の見ていたものは夢ではなかったのでしょうか。かつて幸せではなかったけれど、長く過ごした懐かしい場所の夢。
 けれども、現実だったとも思えないのです。
 どちらにしても、随分長い間、あの場所に居続けたような気がします。
「長き時を過ごしたと思っていたが」
 口に出した言葉が、風に流れていきました。
 ここに一人でいること。誰もいないこと。
 それが、辛くないといえば嘘になります。
 やはり、王は死に、皆はちりぢりになってしまったのでしょうか。
 そうならば、自分一人生き残っていることに意味などあるのでしょうか。
 動くこともできず、その場に座りこんでいると、誰かが歩いてくる音が聞こえました。
「妃殿下、目が覚めましたか?」
 自分を覗き込んでいる少女には見覚えがありました。今は髪をとき、軽装ではありますが、間違いなく女官であったあの少女です。
「ようやく事実を受け入れたみたいだな」
 青年の声がすぐ近くで聞こえました。こちらは、城で見た時と変わらない姿でしたが、手には大きな袋を持っています。
「お前たちは……何者だ?」
「あたしたちは、この国の人間じゃないわ」
「ついでに言えば、あんたの臣下でもなんでもない」
 青年は、城で会ったときとかわらず、乱暴な口調で王妃に告げました。
 やはりという思いもありましたが、何故かそのことが寂しく感じるのは、あの閉ざされた世界の中で、普通に自分に接してくれたのは、彼らだけだったからかもしれません。
「あれは、夢だったのか?」
 王妃が尋ねると、二人は顔を見合わせました。
「夢……そうですね。そうなのかもしれません」
「あんたは、割れた鏡の力を使って、自身を夢に閉じこめたんだよ」
 夢だと言われても、まだ信じられませんでした。
「それで、お前達が、私を助けてくれたのか?」
 そうなるの?と首を傾げながら、少女がおかしそうに青年に言いました。
「頼まれたんだよ」
「誰に?」
「それは……会えばわかるんじゃねえか」
 青年は言葉を濁しました。
「心あたりがない」
 城は落ちました。
 見廻しても王妃は一人きりで、付き従うものもいません。生家からというのも考えにくいですし、この国にそれほど親しい人間などいませんでした。
「事情があって、誰かは言えない。けど、あんたがよく知っている人物だ」
 それ以上、青年は相手については何も言うつもりはなさそうでした。
「わかった。会えるまでの楽しみとしておこう」
 こんな自分を助けようとする人間に興味が沸いてきました。
「ところで、その私を捜している人間とやらはどこにいるのだ?」
「迎えに来ると言っていたのに、こないわね」
 困ったように呟いた少女が、青年の方に振り返って首を傾げました。
「だよな。どうしたもんだか」
「このままこの人を放っておくなんて、できないだろうし」
 二人は、途方に暮れた様子で顔を寄せ合っています。
「お前たちが連れていってくれるわけではないのか?」
「げっ」
「私はかまわないけれど」
 少女の方は、青年に比べて楽しそうでした。
「そこで、同意すんなよ」
「報酬に上乗せしてもらえばいいんじゃないかしら」
「だそうだが、どうするのだ?」
 王妃がそういうと、青年は複雑な顔をし、少女は二人の顔を見て、おかしそうに笑いました。
「本当にいくのかよ」
 頭を抱える青年に、王妃は鷹揚に微笑んでみせました。
「しばらくの間だろう」
「そうね。途中で相手に会うまでの間だわ」
「まー仕方ねえか。もらうもんは、もらっちまった後だしな」
 男は、担いだ荷物にうっとりとした目を送っています。中には何が入っているのかわかりませんが、見るからに重そうでした。
「それじゃあ、いきましょうか。妃殿下」
 男とは違い身軽な服装の少女は、王妃に声をかけます。
「もう王妃ではない。国も滅んだのだ。クラウディアでよいぞ」
「わかりました、クラウディアさま。私の名前はリラ。こっちがレイク」
 少女の差し伸べる手を取ると、王妃は歩き始めました。
 足取りは、ゆっくりではありましたが、ゆるぎないものでした。


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