「ラーナ殿」
王子の部屋を出たところで、ふいに声を掛けられ、ラーナは立ち止まった。
聞き覚えのある声に、相手が誰かを理解し顔をしかめる。
できることなら急いでいるふりをして、その場から離れてしまいたいが、生憎、無視して通り過ぎるわけにもいかない相手だ。
大きく息を吸い込み気持ちを落ち着かせると、ゆっくりとラーナは振り返った。
黒髪を短く刈り込み榛色の目をした背の高い男が、難しい顔で自分を見下ろしている。
しばらくぶりに見る彼は少し痩せたようだったが、ラーナのことを見る表情はいつもと変わらない。
国の重臣を父親に持ち、自らも騎士の称号を持つ彼は、生まれる前から決まっていたラーナの婚約者というだけでなく、王子の武術指南役でもある。
だが、15も年上で、彼女のことを赤ん坊の頃より知っている彼は、利害関係のみで決められた婚約を快く思っていない。
そのせいなのか、普段から互いに言葉を交わすことは殆どなかった。
彼がラーナに声をかけるのは、王子絡みの厄介ごとが持ち上がった時のみである。
「ウォルド様。お久しぶりです」
感情のこもらない彼女の言葉に、ウォルドが苦笑した。
「確かにお会いするのは、随分と久しぶりのような気がします」
ウォルドは、仕事の都合で、しばらく王都を離れていた。
予定ではしばらく王都には戻ってこないはずだった。
「私がいない間に、いろいろと問題が起こったようですね」
「起こったというよりは、起こしたという言葉の方が正しいようです」
ウォルドのことだから、王都にいない間も、こちらの情報はかなり正確に把握していたに違いない。
ひょっとすると、舞踏会での騒動を知り、仕事を急いで片付け帰ってきた可能性もある。
「ラーナ殿。無理をして、王子に付き合うことはないのです」
やんわりとした口調にもかかわらず、ウォルドの眉間の皺が深くなった。
ラーナがカイルに無理に付き合っているわけでなく、むしろ煽っているのだということをウォルドも解っているのだろうから、彼が気にかけているのは、ラーナではなくカイルの方だろう。ウォルドにとってカイルは、将来仕えるべき主というだけでなく、手のかかる生徒でもあるのだ。
「相変わらずウォルド様は、心配性ですね」
「心配にもなりましょう。あなたも王子も、ご自分の立場を忘れて、悪い遊びにばかり夢中になる」
「息抜きだとは、言ってくださらないのですね」
真面目な彼からすれば、二人の行動はそんなふうにしか見えないらしい。自分はともかく、カイルにはそれほど自由はないのだから、『息抜き』くらいは許してあげて欲しいと思うのは、ラーナがカイルに甘すぎるせいなのだろうか。
「ご安心ください。幾ら私でも、カイルが不利になるようなことはしませんし、危険なことに巻き込まれれば、何を置いても彼を護るつもりですから」
「では、ラーナ殿。何かあったら必ず私に相談してください」
釘をさされたが、ラーナは曖昧な笑みを返しただけだった。
ウォルドはまだ何か言いたげではあったが、「必ずですよ」と言っただけで、あきらめたように去っていく。
相変わらず、用件だけしか告げない男だ。
昔からそうだった。
婚約者であるにも関わらず、ラーナは彼から優しい言葉をかけられたり、知り合いの令嬢のように贈り物など殆どもらったことはない。
政略結婚などそういうものだというのは頭ではわかっているし、そんなものが本当に欲しいわけでもない。
だが。
時々、どうしようもなく空しく感じるのは何故だろう。
足早に歩いていくウォルドの後姿を見送りながら、ラーナは小さな溜息をついた。