ジーナ達が人目を忍ぶように小さな漁船に乗り込んだのは、3日前の夜中。
そこからいくつかの港を通り過ぎ、少しばかり大きな港で、他国の人間が目立つ客船に乗り換え、気がつけば、故郷とは違う風が吹く海の上にいた。
船はよく揺れたが、慣れていないはずのジーナは元気だ。
滑りやすい甲板にも、単調になりがちな食事にも、聞いた事の無い言語で話をする乗客達にも、すぐに慣れてしまった。
一緒に船上の人となったアスでさえ呆れるほどに、順応性が高い。
もっとも、その行動の半分は、好奇心故のことだと、アスは気づいている。
元々白い肌が、甲板の上で赤く焼けてしまわないように、あるいはきょろきょろしすぎて足を滑らせ転ばないようにと気を付けるのは、いつのまにかアスの日課になってしまっていた。
「ねえねえ! アス、あの人たちは何をしているの」
甲板の上をうろうろしていたジーナは、アスの姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
その危なっかしい足元に、アスは転ばないようにと手を差し伸べてから、ジーナの顔を見下ろした。
「さっきから、あの人達、あっちの方向に向かって祈りを捧げているのよ。言葉が違うから何を言っているのかわからないけれど『てらり』って繰り返してる」
「ああ、北の大陸の連中だな」
甲板の隅で何度も頭を下げている男たちを見て、アスは断言した。
この船には、様々な人間が乗っているが、北の大陸の人間はめずらしい。アスでさえ、滅多に見たことがないのだから、ジーナが知らないのも当然のことだ。
薄い茶色の髪を長く伸ばし、裾の長い上着を着た彼らは、顔に髭を生やしているせいで、恐ろしげに見えるが、根は善良なものが多い。
大抵は静かに固まっているので、今のように興奮した姿を見るのも珍しいと言える。
「あれは祈っているんじゃない。幸運の生き物を見つけて、願い事をしているんだ」
昔、知り合いから聞いたことを思い出し、アスはジーナにそう教える。
「幸運の生き物?」
「そうだ。『てらり』ってのは、その生き物の名前だ。そうだな、実物を見るのが早いか」
そう言うなり、アスはジーナの手を引いて、船の端へと彼女を連れて行く。
「ほら、あれだ。黒いものが見えるだろう」
さりげなくジーナの腰に手を回し引き寄せてから、反対の手で海を指さす。最初の頃は、やたらとひっついてくるアスにいちいち抗議していたジーナだったが、最近は諦めたらしい。ちらりとアスの顔を見上げただけで、何も言わなかった。
いや、言えなかったというべきなのか。
ジーナの関心は、はっきりと別の物に移ってしまったのだ。
「うわ、黒くて大きい!」
アスの腕の中で、ジーナは興奮したように声を上げた。
船から少し離れた場所に、黒い何かがいる。
ときおり波間から顔を出す尾と黒い頭で、魚のようなものだとわかるが、とにかく大きい。
「この辺りではよく見る生き物なんだが、北の大陸の方では珍しいんだろう。彼らは、見かけるとあんなふうに興奮する」
ジーナが横目で、『てらり』と叫ぶ集団を見て、そのはしゃぎように、アスの言葉は本当のことなのだと納得する。
「滅多に見られないから、興奮するのかな。確かにすごく大きいから、初めてみても驚くよ」
ジーナが知っているのは、夏でもどこか暗さのある静かな海とそのあたりにいる魚だけだ。
たまにやってくる嵐の時には、高い波に港が大騒ぎになったり、浜辺に打ち上げられた奇妙な魚の話題に驚いたりするが、見る魚も、食卓にあがるようなありふれたものだけ。
商人や神殿を訪れる巡礼者から聞いたり、本を読んだりして、知らない場所の海や魚の色がこことは違うことは知っている。
それが実際目の前にあるということが、今でも不思議だ。
「あれよりも大きな魚もいる。もっと南寄りにいかないと見れないが」
「アスが生まれたあたり?」
「そうだな。おとなしいから、運がよければ、もっと間近に見ることもできる」
今、目の前に泳いでいるものよりも、大きな魚。
想像もつかない。
「どうだ、願い事をしてみるか?」
実を乗り出すようにして、黒い魚を凝視していたジーナに、アスが問いかける。
「願い事かあ。南の海にはアスが連れていってくれるんだよね」
「もちろんだ」
「だったら、それはもう叶っちゃう願いだし、どうしよう」
考えてみれば、いままで、ジーナは特に大きな願い事をしたことはなかった。
18歳になったら、町で暮らしたいとか、誰かと恋をして幸せになりたいなとか、頑張れば叶う可能性のあるものばかり願っていた。
そもそも、海を見に行くことも、アスに出会わなければ思いもしなかっただろうし、実際にこうやって彼が願いを叶えてくれる。
それ以外のことでとなると、あまり思いつかない。
しばらく考えて、ふと、自分には、ひとつ気になることがあったことを思い出した。
「私を攫うように言った身内の人。その人に会えますように」
思いついたことを口にすると、アスがそうきたか、と言った。
「やっぱり会いたいよな」
「うん。だって、血が繋がっている人がいるって、変な感じなんだもの」
ジーナ自身、ずっと自分には身寄りはないと思っていたのだ。
神殿に仲良く訪れる家族を見て、父や母、兄妹とはどんなものだろうと考えていた。一緒に育った仲間たちのことは家族のようだとは思っているが、面倒を見てくれた司祭や神官たちは、親というのとは少し違う気がする。
尊敬しているし、恩も感じているが、家族ではないのだ。
「それとも、『てらり』にお願いするよりも、アスに頼む方が早い?」
アスはジーナの身内である人間と面識がある。
どの程度の知り合いか、ただの仕事絡みだけの関係なのかわからないが、顔を知っているのは間違いないのだ。
「頼むことは可能だが、本人が逃げ回っているからな。ぶん殴って連れてくるのも可能だが、そういう会い方は嫌だろう?」
ジーナが頷くと、何故かアスは満足そうに笑う。
「そうだろう、そうだろう。さあ、どうやってあの馬鹿を説得するかな」
「ア、アス?」
楽しそうに――というよりも、いかにも悪巧みに没頭する悪役のように、アスは目を細める。
口元に浮かんでいるのも、純粋な笑みではない。
余計なことを言ってしまった気がする。
まだ見ぬ身内に対して、申し訳ない気持ちになってしまうジーナだった。
「というわけなんだが、まだこそこそ隠れているつもりか」
皆が寝静まった深夜、客室ではなく小さな食堂へと続く廊下で、アスは目の前の男にあきれたような声でそう訪ねた。
「いまさら、どんな顔をして会えと?」
体型のわからないだぼだぼの服を着た上に、頭には布を巻いた男は俯いたまま、ぼそぼそと情けないことを口にする。
「別に普通に会えばいいだろう。何を迷う必要がある」
ずっと同じ船に乗っているのだ。
なにげないふりをして声をかければいいのに、大きな男が見つからないようそっと見守っている姿は暑苦しい。
「それに、逃亡の手段である船の手配をしたのも、追われないように神殿の奴らを攪乱したのもお前だろう。堂々とすればいいんだよ」
「恩着せがましいじゃないか」
それは違うだろうと、アスはますます呆れてしまう。
「感謝はするだろうが、恩着せがましいなんて思うか?」
そもそも、ジーナはあまり深く考えるほうではない。
神殿の育て方が偏っていたせいで、素直に人を信じてしまうところもある。ずるい大人が世の中にはたくさんいることに危機感を持ってほしいとは思うが、この男が心の底から『身内を助けたかったから、こんな依頼をした』といえば、それを変に曲解して受け取ったりはしない性格なのだ。
だから、本当の問題は、ジーナではない。
この目の前で項垂れる情けない男だ。
「怖いのか?」
図星だったのか、男は肩を落とした。
男も、アスも、人に誇れる人生など歩んでいない。
たたけば埃も出る身だ。
神殿育ちで、意図的に汚いもの、危ないものから隔離されてきたジーナには、刺激が強すぎるだろうともわかっている。
今何の仕事をしているかと聞かれて、答えることも出来ない。
「ジーナは、確かに世間知らずだが、馬鹿じゃない。自分が育ってきた環境に疑問だってもっている。もしかすると、神殿を出た今、もっとしたたかでずるい女になるかもしれないし、今のままかもしれない。ただ、あの子は自分が逃げていることも、今回卑怯なことをしたことも受け止めて、なんとかしようと頑張っている」
時々心配そうに、自分が逃げた後の神殿や、世話になった宿屋の女将が大丈夫かと気にしている。戻って確かめたいというのが本音だろうが、それはさすがに危険なので、今はまだ早いと無理矢理納得させている状況だ。
もちろん、アス自身もこっそりと動いている。
「そういえば、次に寄港する町で、ひとつ片付けないといけない用件があったな」
思い出したのは、ジーナのことを考えていたせいだ。
恐らく気にするだろうと、アスはあの町にいた協力者に、神殿の動向を探ってもらっている。
同時に、王都にも伝を辿っていろいろ頼んでいたのだ。
次の港で連絡を受ける手筈になっているが、なるべく人目のあるところで会いたくはない。
「ジーナには、船から下りないように言っておくが、あまり治安がよくない場所だ。何が起こるかわからない。乗客の連中にも、不届き者はいるからな。一人にするのは危ないよなあ」
「俺にどうしろと」
なんとなくわかっていはいたが、敢えて聞き返す。
「もめ事に巻き込まれないように、ジーナの様子を見ていてくれ」
「様子を見るだけだな」
「一応な」
だが、ジーナは、この船に乗ってから、一度とてじっとしていた試しがない。
前の寄港地でも、下船したがったし、見知らぬ乗客に話し掛けたり、船員の仕事を飽きずに眺めているせいで、言葉を交わすようになってもいるようだ。
「なんだ、その顔」
ジーナの日ごろの様子を思い出した男の途方にくれたような顔を見て、アスはため息をつく。
いくらなんでも、男は少し心配しすぎだ。
アスが注意すれば、ジーナは言いつけを守っておとなしくしているだろう。
部屋に籠もっていろといえば、その通りにするかもしれない。
ただ、それだけで安心できないという男の身上もわからないでもなかった。
この船に乗っている人間の半分は、ろくでもない職業の人間だ。
睨みをきかすアスがいなければ、若い女性が一人というのは危険すぎる。
「一緒に連れていくのがいいんだろうが、難しい状況なんだよ。頼めるのは、お前しかいないだろう」
連れていけないというのは事実だろうが、頼める人間は他にもいるはずだと、男は知っている。
船が港にいる間だけ、なんとかするという方法もないはずはないのだ。
それをアスがごり押しするということは、目的はひとつなのだろう。
「どうしても、俺とジーナを会わせたいんだな」
「ジーナのささやかなお願いってやつらしいからな。叶えてやりたいだろう?」
にやけた顔で言うアスに、これはどうやっても逃げられないのかもしれないと、男はさらに項垂れたのだった。