海の彼方番外編

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どこかへ向かう空の下 2

「仕事?」
 次の港についたとき、アスは申し訳なさそうにジーナに告げた。
 この町で、どうしても片付けなければならない用件があるのだという。
「それは構わないけど。私はどうしていたらいい?」
 この船は、食料の補給などの関係で、丸一日停泊すると聞いている。
 初めての町を歩いてみたかったが、やはり一人で出歩くのは怖い。かといって、船の中で一日すごすのも、退屈だ。
「おとなしくしていてもらえればありがたい。町自体が治安がいいとはいえないからな」
「うーん、そうだよね」
 知らない人に話し掛けられても逃げるくらいしか思いつかないし、もし何かあったとき、一人で対処できるほど、慣れてもいない。
「わかった。アスが買ってくれた本でも見て、おとなしくして待っている」
 たった一日。
 それだけ我慢すればいいだけだ。その間に、勉強でもしていればいい。
 実は、ジーナは少し前からアスの国の言葉を覚えているのだ。アスが勉強するために用意してくれたのは、色刷りが美しい子供向けの本だが、とても分かりやすい。
 これから行く初めての場所、しかもアスの故郷でもあるその国の言葉を少しでも知りたいと思って始めたことだったが、すぐにジーナは夢中になって、アスも呆れているくらいだ。
「もし、何か困ることがあったら、この階の一番奥の部屋にいる、頭に布を巻いた背の高い男を頼れ。俺の知り合いだし、あんたの事情も知っている」
「そんな人、いたかな」
 アスが言うような格好の人間を、ジーナはこの船の中で見たことはない。知り合いなら、アスと話くらいはしていそうなのに、それさえなかった。
「訳ありで、あまり人前に出たがらない男なんだ。俺からジーナのことを頼んでいるから、心配はいらない……と思う」
 言葉の最後の辺りが少し不安さを残す曖昧さだったが、ジーナは頷いた。
 そうそう他人を頼るようなことはないと思いたい。
「お土産を買ってくるから、いい子にしてろよ」
 そう言って、アスはすばやくジーナの額に口付けを落とす。
「あ、何するの!」
 真っ赤になったジーナを楽しそうに見下ろすと、『本当に気を付けるんだぞ』と念押しをして、アスは船から下りていった。

 
 午前中は、何もなかった。
 ジーナは部屋から出ずにおとなしく勉強していたし、アスに言われたように扉の鍵をかけておいたのだ。
 問題が起こったのは、お昼時。
 この船では、食事は船室ではなく食堂で取る。時間も決められていて、それを逃すと食べ損ねてしまうのだ。
 朝食はアスと一緒だったため問題はなかったが、昼はどうしても一人で行かなければならない。我慢するのはさすがに辛いし、アスが夕食前に帰ってくるかどうかもわからないのだ。夕食まで食べ損ねてしまったら、と思うと、やはり食堂には行くべきだろう。
 堂々としていれば大丈夫だと、安心させるようにアスは言ってくれたが、それが真実かどうかは怪しかった。
 食堂には、船の客のほとんどが集まるし、その中にはアスが側にいてさえも、隙を見て、卑猥な言葉を投げかけてくる者がいる。
 体を触られるようなことはさすがになかったが、荒っぽい言葉遣いや値踏みするような視線を無遠慮に向けられることは、最初の頃より慣れたとはいえ、気持ちがいいものではない。
 どうしたものか。
 そう考えた時、アスの言葉を思い出す。
『この階の一番奥の部屋にいる頭に布を巻いた背の高い男を頼れ』
 下船するときに、アスは確かにそう言った。
 どんな人なのか不安ではあるが、アスが頼むくらいだから、それなりに信頼はできる人なのかもしれない。
 それに、その人がこの船の客ならば、同じように食事に行くだろう。
 いくら人前に出たがらないとはいえ、部屋の中では食事はとれない。
「よし!」
 気合いを入れ立ち上がると、ジーナはその人に会いに行くことに決めた。
 ご飯を食べる時だけ、一緒にいればいいのだ。別に親しくなる必要もない。
 でも、出来れば、話しやすい人でありますように。
 そんなことを考えながら、ジーナは勢いのまま部屋の外へと飛び出した。


 扉を叩くと、くぐもった声が聞こえた。
 返事らしいと思うのだが、言葉は聞き取れない。しばらく待つと、扉は少しだけ開いて、誰かががこちらを伺っているのが見えた。
 背は高く、体型からして、男性のようである。
 頭に布をぐるぐると巻いているから、この人がおそらくアスの言っていた知り合いなのだろう。
「あの、はじめまして。私はジーナと言います。あなたがアスの知り合いの人ですか?」
 相手が何も言わないので、ジーナはおそるおそる尋ねた。
「……ああ」
 肯定の返事は、やはり聞き取りにくい。
 よく見れば、頭だけでなく口のまわりにも布が巻かれている。それにくわえて、長い前髪が顔半分にかかっていて、どんな表情をしているのかもわかりにくくしていた。
「何か問題が起こったのか」
 男は部屋からは出てこなかったが、ジーナがここへ訪ねてくる可能性は考えていたのだろう。
 扉を半分ほど開き、余計なことは一切口にせず、必要なことだけを話し、ジーナの返事を待っている。
「あの、食事をしたいのだけれど、その」
 一人で行くのが怖いと口にするのを、一瞬ためらう。
 ジーナにとっては問題だが、他人が見れば、そのくらいのことでと言われそうなことだ。
 こんなことを頼まれて、呆れられるのではないか。
 今更ながらそんなことを思って、少しだけ後悔する。
「わかった」
 だが、男は短くそう答えると、部屋の中からあっさりと出てきた。
「え、あの。いいんでしょうか」
「一人では行きにくいんだろう。確かに、あの雰囲気は、若い女性には居心地が悪い」
「あ、ありがとうございます」
 慌ててジーナは頭を下げる。
「アスに頼まれているだけだ。礼はいらない」
 そう言うと、男はさっさと歩き出す。背が高いだけあって、足も長い男は、あっという間に廊下の先へと行ってしまう。
 急いで追いかけると、その足音に気がついたかのように、男は立ち止まった。
 こちらに振り返ることはなかったが、ジーナを待ってくれているのは間違いないようだ。
 やっぱり少し変わっている人なのだろうか。
 無口な男の後ろ姿を見つめながら、ジーナはそう思ったのだった。


 食堂はすでに半分ほど埋まっていて、いろいろな言葉が飛び交い、動き回る人々で騒がしく感じる。
 それでも、いつもより人が少ないのは、アスのように船外へと出ているものがいるせいかもしれない。
「こっちだ」
 きょろきょろと座れる場所を探していたジーナの手を男が掴み、食堂の隅にあるテーブルへと移動させる。
 二人がけに小さなテーブルだが、男は慣れた様子で座ると、奥の側をジーナにすすめる。
 座るとすぐに料理が運ばれてきた。
 他の客船のことはわからないが、ここでは客は皆同じものを食べる。
 乗船する時に払うお金に含まれているらしく、出されるものを食べる分には改めて支払いをする必要がない。どうしても追加で何か食べたい時は頼むことも可能だが、とんでもない料金を請求されるので、ほとんどの客はそれをしないようだった。
 アスによると、酒の類も別料金らしい。ただし、こちらの方は格安だが味もそこそこ、と言っていた気がする。
 世の中には、もっと豪華で金持ちや貴族が乗るようなりっぱな船もあるらしいが、お金もあまりなく、身元も不確かな者が紛れ込んでいるかもしれないこの船は、客船としてもかなり下の方に分類されるとのことだった。
 最低限、船の旅に困らない程度の部屋と食事は提供するが、それ以外は自己責任で、ということらしい。だから、たまに喧嘩も起こるし、もめ事もある。船の運行を遅らせたり、物を壊したりしなければ、喧嘩がおこっても船員は止めない。むしろ、進んで参加しているのを、何度かジーナも見かけた。
 そんな船だからこそ、ジーナのような人間も、乗船することが出来るのだ。
 身元ははっきり口にできないし、追われているかもしれない女。
 それだけで、十分怪しい存在だ。
 ここまで生きてきて、まさか自分がそんな状態になるなど考えたこともなかったジーナは、人生はわからないものだと、素直に思う。
 あの時、アスに会わなければ。
 そもそも、自分が黒髪に青い瞳でなければ。
 自分が生まれた村でそのまま育ち、今とはまったく違う人生を送っていたのかもしれない。
 きっと、こうやって船に乗って、知らない海を見に行くことさえなかったはずだ。
 不思議な気持ちになりながら、塩味の強いスープを口に運ぶ。
 その時、目の前の男が、じっと自分を見ていることに気がついた。いつから見られていたのだろう。いや、それよりも会話もせずに、無言で食事を口にしようとした自分に、恥ずかしくなる。
 初対面とはいえ、これはあまりにも失礼な態度だ。
 謝ろうとして、そういえば、まだジーナはこの男の名前を知らないということに気がついた。
 ジーナは最初に名乗っているが、それに対して相手が名を明かさなかったのは、教えたくないからという理由も考えられる。
 この船で本名を名乗っている者も少ないとアスはいう。
 それが当たり前と言われて、思わずアスも偽名なのかと尋ねたら、面倒だからよほどのことがないと、嘘の名前は使わないといったが、それも本当かどうかはわからない。
 とにかく、その言葉だけで、この船の中が少し怖くなったのは、事実である。
「あの。アスの知り合いの方、なんですよね。なんとお呼びすればいいんですか」
 本名は言わなくても、今現在使っている名前はあるはずだと、そう思って尋ねてみた。
「……ジルド」
 ぶっきらぼうにそう答えると、男は視線を落とし、口の周りに巻かれた布を下ろす。
 食堂は薄暗く、やはり顔の表情はわかりにくいが、口元が見えると、男の年齢は思っていたよりも若そうに感じられた。
 アスより年上ということはないだろう。
 同い年とは思えないから、少し下というくらいか。
「ジルドさん。今日はありがとうございました」
 まだ食事は終わっていないが、もう一度お礼を言う。
 食堂に入った時、何人かに遠慮のない視線を投げかけられたが、幸いまだ声をかけられたりはしていない。側にこの男がいるためだろう。
 背も高く、妙に暑苦しい格好をしているせいなのか、威圧感もある。
 アスとは違った意味で、迫力があるのだ。
「ジルドさんのお陰で、落ち着いて食事も出来ます」
 それに、この席の位置も、あまり人目に付かずちょうどいい。
「いや。気にするな。どちらにしても、食事の時は様子を見るつもりだった」
 口元が緩んだせいで、男の印象が柔らかくなる。
 目元は見えないままだが、それだけで、緊張していたジーナの体から力を抜けた。
「それなら、余計に、ありがとうございます、です」
 ジーナは改めて頭を下げた。
 見た目に反して、それほど話しにくい人ではないのかもしれない。
 相変わらず、低い声は聞き取りにくいが、そのことさえ、あまり気にならなくなってきた。
「言っておくが、本当に礼を言われることはない。俺はアスに借りがある。だから引き受けただけだ」
「借り、ですか?」
 アスとジルドがどういう関係なのかはわからない。
 知り合いなのか、友人なのか、それとも仕事仲間なのか。
 アスにそれなりに大事にされていると自覚がある身としては、彼がまったく信用していない相手に、いくら借りがあるからといって、簡単にこんな頼み事をするとは思えない。
 散々アスにも指摘されているように、ジーナは世間をあまりよく知らないのだ。
 もっともらしいことを告げられれば、そちらを信じてしまう可能性もある。
 そんな人間を、油断ならない相手と話させるという迂闊なことは、アスはしないような気がするのだ。
 もちろん、この男の借りがどの程度によるのかで違ってくるのかもしれない。
 借りのせいで、言うことを聞かざるをえないということもある。
 それでも、幾ばくかの信頼関係はあるのだろう。
「ああ、借りだ」
 男は呟くと、そのまま無言で食事を再開した。
 こちらに視線を向けない男に、ジーナはまたも会話のきっかけを失ってしまう。
 何かを話そうと思っても、ジーナには気の利いた言葉など浮かばなかったしし、男の方は、こちらから話しかけなければ何も言わないという雰囲気になってしまっているのだ。
 だが、沈黙を破ったのは、落ちつかない様子で野菜をつついていたジーナではなく、男の方だった。 
「……アスと一緒にいて、困ったことはないか?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 困ったこと、と口の中で繰り返して、目を丸くする。
「それは、その。どういう意味でしょうか」
 困らされていることがないとは言えない。
 いや、むしろ、からかわれて困るジーナを見て、アスは面白がっている。
「アスは、結構自分勝手なところもある。あんたのような女では振り回されているのではないかと」
「振り回されてはいないと思います」
 そういう感覚はなかった。
 わからないことだらけで、些細なことで失敗したり間違ったりするジーナに呆れたりせず、アスはいつでも疑問に答えてくれたり、納得するまでつきあってくれるのだ。
 まるで親子のようだと言ったのは誰だったか。
 確かに年齢差から、親子に見られてもおかしくはない。アスはそういうとき、否定も肯定もしないから、ジーナはその点に関してだけは、心の中にもやもやが湧いてくる。
 『好き』と言ってくれたのは嘘だったのかと。
 そういう意味でいえば、振り回されていることになるのかもしれない。
 アスが触れてくるたびに、本当はどう思っているのか気になって仕方ないのだ。
「アスは……」
 言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。
 胸の中にあるもやもやはジーナとアスの問題で、初対面の男の人に話す内容ではない。
「どうした? 案外話せばすっきりすることかもしれないぞ」
 熱心に聞いてくるジルドに、ジーナは思わず苦笑する。
 無口な人だと思っていたのに、妙にアスとのことを聞きたがるのが不思議だ。
 もしかすると、アスに頼まれたものの、ジーナのことをいぶかしく思っているのかもしれない。
 ジーナの事情を聞いているということは、彼女が追われている身だということも知っているということだ。
 アスがいくらロクデナシだったとしても、そんな危険な女性を側に近づけたくないと、知り合いならば考えるかもしれない。
 ここでジーナが余計なことを言えば、アスにも迷惑がかかる可能性があるのではないか。
 それに、今ジーナが悩んでいることは、アス本人と話すのが一番いいのだと、本当はわかっている。
「大丈夫です。……心配してくださって、ありがとうございます」
「……それならば、いいが」
 男は、それ以上はしつこくは聞いてこなかった。
 だから、結局男がどういう意図でそんな質問をしたのかはわからない。
 今度こそ二人の会話は途切れ、それきり食事が終わるまで互いに口を開くことはなかった。

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