心の中に、何か得体の知れない空虚な思いを抱えたまま、季節はゆっくりと過ぎていく。
毎朝同じ時刻に起きて会社に行き、特に何もないままに自宅へ帰る。
満月になれば、生まれた時からずっとそうだったように、人と狼の間を行き来する。
だが、そこには何かが足りない。
その足りないものが何なのか、認めたくない。
無意識のうちに探すのが誰か、考えたくはない。
そんな複雑な思いばかりが、胸の奥で疼いていた。
「なーに暗い顔してんの?」
間延びした声とともに、俺の机の前に背の高い男が立つ。
高校時代からの付き合いで、現在は何の因果か同じ会社に勤めている、友人と呼べる中では唯一俺の秘密を知っている存在―中川敦だ。
のんびりしているように見えて、意外に鋭いこの友人には、高校時代からいろいろと面倒をかけているので、邪険にもできない。
「そういえば、最近この辺りで美弥ちゃん見ないよな」
無言でいると、にやにや笑いを浮かべたまま、俺の痛いところをついてきた。
こいつは俺が聞かれたくないことを、さも今思いついたとでもいう風に口にするのだ。
「部署の違うお前がここにいるのは変だろ。ちゃんと仕事しろ」
答えるつもりがなかった俺は、反対に彼に対してそう尋ねる。
「あー。自主休憩」
「……」
「おい、冗談だってば。睨むなよ。書類を届けに来ただけ。そしたら、暗く沈んでいる男が一人見えたから、気になってな」
こういうことだけに鋭いのは昔からだ。
だから、下手な隠し事が出来ない。
「で、何? 美弥ちゃんの名前を出したとたん不機嫌になるってことは、彼女と何かあったわけ?」
「振った」
「は?」
心底驚いた顔をしてみせるとは思わなかった。
彼女を振ったということが、そんなに驚くことなのか?
「告白されたから断ったんだよ」
「ふう」
大げさにため息をつかれた。
眉間に皺を寄せて、考え込んでやがる。
「今更言うのもなんだけど、お前、ほんとに難しいやつだな」
「どういう意味だよ」
「もっと物事を単純に考えてみろよ。なんで自分が苛立ってるのか、とかさ。俺の言葉にいちいち反応する理由とか」
何が言いたいのかわからない。
「とにかく。美弥さんとは何の関係もなくなったんだから、お前も余計なことはするなよ」
はあぁと、周りに聞こえるような大袈裟な溜息を、もう一度俺の前でつく。
「ああ、本当に莫迦な奴」
「いいから、俺の言ったことを忘れるなよ」
「へいへい、覚えておくよ」
ひらひらと手を振りながら去っていく敦を、俺は憮然としたまま見送った。
俺が、いらいらしている理由?
それがわかれば、こんなに不快な気分になっているわけがない。
むかむかする。
満月が近づくと体調が崩れることはなくなるのに、今回に限っては調子が悪い。
食欲もあまりなくて、適当なものばかり食べている。食事を抜くことも、増えた。
こんなことではいけないと思うのに、体と心のバランスもうまくとれない。
こういうことは、前にもあった。
以前つきあっていた女性と、最悪の別れ方をした時だ。
何もする気がなくなり、うまくコントロール出来ない体に苦しんだ。
その時、思い知ったのだ。
人間である俺は、こんなにも弱く脆い。
自分のことで精一杯で、一人ぼっちだ。
誰かに縋りたいくせに、誰にも頼れない。所詮、人と俺は違うと思い込んでいたのだ。
それでも、苦しくて。
辛くて。
一人に耐え切れなくなり、外へ彷徨いでた。
誰かに助けて欲しかった。
そんな人間はいるはずがない―けれども、わずかに何かを期待していたのだ。
ふらふらと歩きまわり、たどり着いたのは、会社の近くの公園。
そうだ。あの時、もう歩けなくなってしまった俺に気がついてくれた人がいた。
美弥さんだ。
誰もが知らない顔をして通り過ぎる中、たった一人、俺の側に近づいてきてくれた。
俺を救ってくれたのは、彼女だったのだ。
どうして、忘れてしまっていたのだろう。
俺は莫迦だ。
あの時だけじゃない。
美弥さんが、俺のもうひとつの姿を見て、おびえたことがあったろうか。
染めていない灰色の髪を見たとき、いやな顔をしただろうか?
狼の姿の俺を見て、抱きしめてくれたのは、誰だ?
弱気な俺から離れずにいてくれたのは、美弥さんなのに。
今頃、そんなことに気がつくなんて。
朦朧とした意識の中、俺の頭の中に浮かんだのは彼女の笑顔だった。
* * *
「なんだかさー、電話つながんないし、会社も休んでるしね。心配してるわけ」
目の前に立つ人に、軽い口調でそう言われ、私は困ってしまう。
校門を出たところで突然呼び止められ、振り返ると、そこに直人さんの知り合いの中川さんという人が立っていたのだ。
彼のことは、知っている。
直人さんと一緒のところを何度か見ているし、話をしたこともあった。
のんびりした雰囲気と、間延びしたしゃべり方とは裏腹に、とても鋭いことを言う人だ。
何故彼がここへやってきて、いきなり直人さんのことを言い出すのかわからなくて、さっきから私は途方にくれている。
「だから美弥ちゃん、直人のところに行ってきてくれないかな?」
「え?」
間の抜けた声を出してしまった。
だって。
そんなことできるはずがない。
私は、直人さんに振られてしまったのだ。今更、会うことなんて出来るはずがない。
もしかしたら、中川さんはそのことを知らないのかもしれなかった。
「無理です。直人さんは、私に会いたくないって思ってます」
「大丈夫だって」
どうして、この人はいつだって自信たっぷりなんだろう。
こんな風ににこにこと笑いながら言われると、そうかもしれないと思ってしまうよ。
そんなはずないのに。
「ほら、鍵あげるから」
中川さんは私の手を取った。
そこに落とされたのは、少し汚れた銀色の鍵。
「なんでこれを持っているかっていうのは、めんどくさいからはぶくけど。これ貸してあげるから、直人の様子見てきてよ」
でも。
まだ迷っている。やっぱり迷惑じゃないのかな。
中川さんが行く方がいいような気がする。
うつむいた私の頭を、ぽんぽん、と中川さんが叩いた。
「俺からのお願い。あいつをこっち側に呼び戻してほしい。たぶん、直人は思考がぐるぐる回っていて、わけわかんなくなってる状態だろうから」
両手を合わせてお願いポーズを取る中川さんの目は、とても真剣だった。
彼が直人さんを心配しているのだとわかるから。
結局、わたしの方が折れることになる。
「わかりました。でも、様子を見てくるだけですから」
それで彼が安心するなら、と私は引き受けることにした。
ううん……本当は、私はまだ直人さんに未練があって、ただ会いたいだけなのかもしれない。
たとえ嫌われても嫌がられても、声が聞きたいんだ。
だから、ずるいってわかっていても、口実が出来たことを内心喜んでいる。
莫迦だよね、本当に。
直人さんの部屋の前で、深呼吸する。
大丈夫。
普通の顔をして、中川さんに頼まれたって、そう言えばいいんだから。
自分に言い聞かせて、チャイムに手を伸ばす。
けれど。
チャイムを押しても、反応がない。
中川さんは、直人さんは会社を休んでいるといっていたから、家にいるはずだ。
どこかに出かけているという可能性も、今夜は満月だということを考えれば、あるはずがない。
もう一度だけチャイムを鳴らし、私は思い切って鍵を開けることにした。
留守ならそれでいいし、もし中に直人さんがいて怒られても、全部中川さんのせいにしてしまおう。
「直人さん?」
ドアを開くと、部屋の中は静かだった。
声をかけても、返事がない。
一瞬、留守かもと思ったけれど、誰かがいる気配がする。
「直人さん、いないの?」
いやな予感がして、部屋の中を覗き込んだ。
窓辺にうずくまる影が見える。
それは、ぴくりとも動かなくて。
「直人さん!」
荷物を放り投げて、私は、彼に駆け寄った。
美弥さんの声が聞こえる。
何故だろう。
玄関の鍵を閉めていたはずだ。敦が来るというのならわかるけれど。
それとも、これは幻聴なんだろうか。
「直人さん、しっかりして」
誰かの手が俺の頬に触れる。
暖かい。
この手にも、匂いにも覚えがある。
目を開くと、そこにいたのは、美弥さんだった。
今は、目に涙をいっぱいにためて、俺を覗き込んでいる。
「み、や、さん?」
「直人さん……よかった。生きてる」
ぽろぽろと泣きながら、彼女は俺にしがみついてきた。
「びっくりした。本当に怖かった。直人さんが、死んじゃってるかと思ったの」
俺は、ゆっくりと起き上がった。
そっと手を伸ばして、俺の服を握り締めたままの彼女の体に触れる。
彼女は、ほんとうに小さくて、細かった。
改めて思い知らされる。
美弥さんもまた、俺と同じで、こんなに脆くて、弱かったんだ。
勝手に、彼女は強いと思い込んでいた自分が情けなくなる。
「大丈夫だから。俺は大丈夫。少し、気分が悪かっただけだから」
震えている彼女をそのままに出来ず、俺はそっと抱きしめた。
そうせずには、いられなかった。
俺が臆病だったばっかりに。
俺が莫迦ばっかりに。
「お願いだ。……泣かないでくれ」
だけど、彼女は俺にしがみついたままで、泣き止まない。
泣かせてしまったのが自分だと思うと、それが悲しくなる。
「ごめんな」
「どうして謝るの?」。
「俺が莫迦だったから」
こんなにも、俺は美弥さんを必要としていたのに、それに気づかないふりをしていた。
「聞いてほしいんだ」
話さなければいけない。
俺が今考えていること。
美弥さんに対しての気持ち。
「美弥さんのことを、女性として好きかと言われても、まだきちんと答えは出せない。だけど、美弥さんが俺から離れていってしまうのは嫌なんだ」
俺の言葉によほど驚いたのか、美弥さんの目がまん丸になった。
同時に涙も止まる。
「勝手な俺で、悪いと思っている。嫌われても仕方ないし、怒ってくれてもかまわない」
「……言ったよ。私、狼の直人さんも、人間の直人さんも、大好き。嫌いになったりしないよ。それにね、あの日、直人さんに振られた後もね、直人さんのことを思い出すとね、すごく気持ちが暖かくなるの。嫌な気持ちになんて、なったりしなかった。何故なのかな、不思議だよね」
迷いのない言葉で。
誰よりも優しい眼差しだ。
美弥さんは、まっすぐに俺を見て真実を伝えてくれる。
この世に永遠はないと俺は思っていて、たぶん、そのことを彼女は知っている。
それでも、美弥さんは、俺のことを嫌いにはならないと言う。
彼女にとっては、それは真実なんだろう。
例え恋人同士になれなくても、俺も彼女のことを嫌いにはなれないのだろうと、信じてしまいたくなる。
いや、もう信じてはじめているのかもしれない。
「もう少し時間がほしい。今の俺は、感情がうまく制御できないから。自分の中にある思いがどういうものなのか、きちんと確認したいんだ」
いい加減な気持ちで、美弥さんの気持ちに答えたくなかった。
この時期の自分の心が不安定だと、わかっているから。
「どんな答えだったとしても、待っているよ。大丈夫、やっぱり友達がいいって言われても、それも十分すごいことだとわかってるから」
そういって、美弥さんは、笑ってくれた。
「あのね、私、ずっと思ってたの」
俺の腕の中で、空を見上げていた美弥さんは、歌うように言葉を紡ぐ。
「きっと、私とあなたが出会えたのは、お月さまが導いてくれたからかも」
「月が?」
「うん、だって、私があなたに会えたのは、奇跡みたいなものだもの。あの日、あんなに月が綺麗じゃなかったら、ゆっくり歩いて帰ろうって思わなかっただろうし」
「そうか」
笑う俺に、彼女は頬を膨らませた。
「いいもん。どうせ夢みたいなことだって思っているでしょ」
それは違う。
奇跡だと感じたのはたぶん俺の方だから。
あの時、苦しくて耐え切れなかった俺に、声をかけてくれたのは君だ。
「もうすぐ、月が昇るけど」
そうすれば、俺の姿は人ではなくなり、彼女を抱きしめることなど出来なくなるし、話をすることも叶わない。
それでも。
「ここにいてほしい。美弥さんに側にいてほしいんだ」
「いいよ」
囁くような答えを、俺は幸せな気持ちで聞いていた。
H16.5.12