時田莉子には気になる男子生徒がいる。
背が高いから、どこにいるか一目瞭然ということを除けば、顔も地味だし、性格もおとなしく、クラス内でもあまり目立っていない男の子だ。
数日前までは意識していなかったし、フルネームさえ曖昧だった彼のことが気になりはじめたのは、ほんの偶然。
時々、挙動不審になることに気が付いたせいだ。。
普段はぼーっとしているのに、ふとした時に胸のあたりを押さえ、急にそわそわしはじめて、休憩時間にいなくなってしまうのである。
次の授業までに帰ってくることがほとんどだが、時には遅刻してきたり、戻ってこなかったりすることもあった。
普段が真面目なだけに、怪しいと思う。
余計なことを口にすれば、友人に変に誤解されそうだから黙っているが、莉子はどうしてもそのあたりが気になってしまうのだ。
理由は、挙動不審だけではない。
彼が帰ってきたときの匂いだ。
不思議なことだけれど、どこかへ行った後の彼からは動物の匂いがする。
微かな匂いではあるが、莉子は彼の隣の席だから、気が付いたのだ。
もしかすると、校舎裏で、犬か猫にでも餌をやっているかもしれない。
そうすれば、態度がおかしいのも納得出来る気がした。
莉子は動物好きである。もし、校舎裏に犬か猫がいるのなら、会ってみたいとも思っていた。
だから、偶然教室で二人きりになったとき勇気を出して尋ねてみたのだ。
「秋野くんて、動物を飼っているの?」
当然、返事はノーだった。
この答えは半分予想していた。学校内で勝手に犬や猫に餌をやることに、先生達はいい顔をしないだろう。隠しているのならば、そんなに簡単に教えてくれるはずがない。
だから、違う質問を投げかけてみる。
「犬が好きとか?」
犬に限定したのは、彼の匂いは、猫というよりも犬っぽいと思っていたからだ。うまく説明できないけれど、昔から、莉子はそういう匂いに敏感だった。
「別に、それほどでも」
好きという返事が返ってくるかと思ったのに、彼の答えは微妙なニュアンスを含んでいた。
眉間にも皺が寄っている。
犬っぽい匂いをさせているのに、まさか、犬は嫌いなのだろうか。
「そうなんだ。でも、匂うんだよね」
思わず口にしてしまったが、それを聞いた彼の顔は、ますます険しいものになる。
どうしてだろう?
聞き返したいと思ったが、素直に答えてくれるかどうか自信がなくなってきた。
なにしろ、ちゃんと話をしたのは今日が初めてだ。互いのことなど殆ど知らないし、親しくもない。
だから、「まあ、いいか」と呟き、目を逸らして考え込む。
彼が、よくいなくなるのは事実だ。
校舎裏に消えていく姿も、何度か見ている。
何かがあるのは間違いない。
もし、次に彼が挙動不審になったら、真相を確かめるために、こっそり後を付けてみよう。
そう莉子は心に決めたのだった。
チャンスは意外に早くやってきた。
廊下を歩いていたら、あちこちを窺いながら歩く草平の姿を見つけたのだ。
運の良いことに、今はちょうど放課後だ。授業をサボらなくてもいい。
莉子は、なるべく足音をたてないようにして、彼の後をつけはじめた。
素人だから、案外早く尾行がバレるのではないかと心配したが、よほどあせっているのか、辺りを窺う様子はあるものの、草平は莉子に気が付いてはいない。
この様子ならば、草平が何をしているのか突き止められそうだ。
はやる気持ちを抑えながら、そろそろと草平の様子を窺っていた莉子は、彼が向かっているのは、やはり校舎裏だと確信する。
特別校舎の裏は、普段から人が近づかない場所だ。
倉庫しかないということもあるが、建物の影になっているせいか薄暗く、フェンスの外は山ということもあり、夏は虫も多い。
だが、犬か猫がいるという可能性は高そうだ。やはり餌をやっているのだろうか?
期待しながら尾行を続けていると、予想通り、やってきたのは校舎裏だった。
草平は校舎の影にひっそりと立つ倉庫の前で立ち止まると、きょろきょろと辺りを見回している。
誰もいないことを確かめるように数度それを繰り返し、彼はそっと倉庫のノブに手をかけた。
そのまま、すばやく扉を開くと、滑り込むように中へと消えていく。
「あれ?」
莉子は思わず声を出してしまった。
草平が扉を開いたことに驚いたのではない。扉を開けた瞬間に違和感を感じたのだ。
何かが、おかしい。
そう思って違和感の理由を考える。
「雨…」
そうだ。
草平が扉を開いた瞬間、雨の匂いがしたのだ。
空はこんなに晴れているのに、一瞬だけれど確かに感じた。
あれは、数日雨が降り続けた時の匂いだ。
ただの倉庫のはずなのに、どうしてなのだろうと、ひどく気になってくる。
あの中に、何か濡れたものが閉まってあるのだろうか。それとも、校舎の影だから、湿っぽいのだろうか。
いろいろ想像してみるが、どれもしっくりこない。
草平も、中に入ったままだ。
しばらく待ってみたが、出てこない。
莉子は、そっと建物に近づいたみた。
古い木製の扉から中の様子を窺うが、人がいつような気配はしない。
変わりに、微かに雨の音が聞こえた。
やっぱりおかしいし、中がどうなっているか気になる。
思い切ってノブに手をかけてみた。
そこが、埃っぽい倉庫の中であることを期待しながら。
だが。
扉を開いた先は、薄暗い倉庫内ではなかった。
深い、深い嵐の森。
吹き付ける風。
横殴りの雨。
ぬかるんだ地面。
呆然と立ち尽くしたままでいると、すぐに髪も服も靴も、雨でびしょびしょになった。
振り返ると、そこは雲1つない青空。
扉一枚隔てて、前方は嵐、後方は晴天という状況だ。
「えー!?」
叫んで見ても、何も変わらない。
ここはいったいどこ?
尋ねようにも、辺りには誰もいなかった。
すぐに引き返した方がいいのかもしれない。
どう考えても、目の前で起こっているのは、異常事態だ。
莉子が想像していたような、犬と戯れる草平などいないどころか、嵐の森の中。
見なかったことにして、帰った方が絶対にいい。そして、今見たことは全部忘れてしまうのだ。
そう判断して扉を閉めようとした時だった。
「時田さん?」
莉子を呼ぶ声があった。
「秋野くん!」
聞き覚えのある声に、この状況を確かめようと、草平がいるであろう場所に顔を向ける。
けれども。
そこにいたのは、彼女がよく知っている、ちょっとぼーっとした草平ではなく。
金色の目と、白銀の毛を持ち、二足歩行している犬に似た生き物だった。