秋野草平が彼女のことを気にするようになったのは、放課後の教室での会話がきっかけだった。
「秋野くんて、動物を飼っているの?」
偶然二人きりになった時、真顔でそんなことを聞かれたのだ。
今まで一度も会話したことがない相手だったから、いきなりの質問は面食ってしまう。
「いや、飼っていない」
正直に答えて、どうしてなのか尋ねると「そんな匂いがした」と言う返事が返ってきた。
「犬が好きとか?」
「別に、それほどでも」
そう答えてはみたが、本当は少し苦手の部類に入るのかもしれない。
その昔、犬に追いかけられたことがあるのだ。
情けないことに、彼よりも随分小さい犬だったにもかかわらず、追いかけまわされたあげくかみつかれた。
友人や家族には情けないと言われたけれど、彼は昔から、そういうちょこまかと動く動物の扱いが苦手で、近づかれるとつい身構えてしまうのだ。
「そうなんだ。でも、匂うんだよね」
首を傾げてしばらく考えていたが、「まあいいか」と呟くと、それきり彼女は興味が無くなってしまったかのように、視線を逸らしてしまった。
その時は、なんでもないような顔を草平はしていたけれど、実は内心びくびくしていた。
獣の匂い。
何故彼女が感じたのかわからないが、草平にはその匂いに心当たりがあったのだ。
ありすぎて動揺していたのを、彼女に気付かれなくてよかったとさえ思う。
本当のことを知れらたら、驚かれてしまうとわかっていたし、ここにもいられなくなるだろう。
草平は、この学校が好きだったし、ここで学生生活を送るのも楽しかった。友達もそれなりに出来たし、ご飯もおいしい。
それらをひっくるめても、今の生活を失いたくはないのだ。
だから、気をつけなければ。
誰にも正体をしられないようにしなければ。
そう考えはじめると、今度は彼女―時田莉子のことが気になってくる。
草平は、莉子のことをよく知らない。クラスメート、という認識はあるが、それだけだ。
目立つような容姿ではないし、特に運動が出来るとか、成績優秀という話も聞いたことはなかった。
ちょっとおとなしめだが、どこにでもいるごく普通の女の子。
それが、草平の印象だ。
ただ、観察していて、気が付いた。
何故かはわからないが、莉子はよく匂いをかいでいる。
花のにおい。
食べ物の匂い。
本の匂い。
置きっぱなしの体操着を匂って、顔をしかめていたりするあたりはどうかと思うが、何かと匂いをかいでいる。
それが癖なのか、あるいは趣味なのかはわからないが、どうやら彼女は匂いに関心があるようだ。
だから、自分に染みつく獣の匂いもわかったのかもしれない。
どちらにしても、これからは今以上に警戒しなければいけないだろう。
また同じことを思われ、自分の行動に不審をもたれるわけにはいかないのだから。
だが、世の中はそんなに都合良くはいかない。
用心して、莉子とは必要以上に近づかないようにしていたのに、ある日、それは起こってしまった。
シャツの胸ポケットの中に隠していた「それ」がふいにぶるぶると震えだしたのだ。
呼び出しである。
本当は持ちたくないのだが、緊急用にと渡された「それ」は、草平の予定などまったく無視して、突然鳴ることが殆どだ。
幸い放課後だったから、辺りには人はいないが、授業中にでも鳴り出すたびにどうやってごまかそうかと頭が痛くなっている。
「ちょっと呼び出しすぎじゃないのか」
文句を言ってはみるが、もちろん誰からの返事もない。
ちらりとポケットの中を覗き、親指の大きさほどの丸みを帯びた卵形の石を恨めしげに見つめる。
放っておこうか。
一瞬そう思ったが、もちろんそういうわけにはいかない。
仕方なく、彼は立ち上がった。
辺りを窺いながら、草平は校舎裏を目指していた。
学校というところは、人がいない場所というのは意外に少ない。
体育館裏、裏庭、校舎の影。
無人に見えても、実はそうではないし、校舎の中からだって、外は丸見えだ。
だからこそ、草平は人の気配を避けながら移動している。
見つかった時のいいわけはいろいろ考えているが、出来ればそれは使いたくはない。
面倒だし、同じことが重なると、怪しまれる原因になるからだ。
その甲斐あってか、今日は誰にも会わず校舎裏にひっそりと立つ倉庫の前へたどり着くことができた。
念のため、誰の気配もないことを確認してから、草平は倉庫を見る。
くたびれて、少しだけ傾き掛けたこの倉庫は、随分前から使われておらず、中に入っているのも壊れた椅子や机、いらなくなった雑品だけだ。
草平は、もう一度辺りを見回すと、ポケットの中から石を取りだした。
それを、そっとドアノブに近づける。
しばらくそうしていると、淡い光が石から漏れ始めた。
実はこれは「鍵」でもあるのだ。
普通に開ければ、ただの倉庫だが、これを使えば、一定時間、別の場所に繋がる。
そう。
笑えない冗談としか思えないが、別の場所とはいわゆる異世界だ。
ここではないまったく別の場所。
草平は、今まさにそこへ行こうとしているのだ。
扉を開けると、予想したように、そこは嵐だった。
時刻は、暗さから真夜中か。
やっぱり、という思いと、またか、という諦めが交差する。
おまけに今回の嵐はやけにひどい。
溜息をつきつつも、彼は嵐の中に一歩足を踏み出した。
たちまち、全身がびしょぬれになる。
扉の向こうは快晴だというのに、こちらは大違いだ。
これ以上濡れるのはごめんだし、急いだ方がいいだろうと判断し、草平は掛だそうとした。
だが、その背中に人の気配を感じる。
「えー!?」
続いて後ろで聞こえた叫び声に、草平は飛び上がるほど驚いた。
誰にも見つからないようにここへ来たはずなのに、どうして第三者の声がするのか。
しかも、その声には聞き覚えがあった。
恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、全身びしょぬれの女子高生。
ドアノブを掴んだまま、呆然としている。
「時田さん!?」
間違えるはずもなかった。
こことあそこを繋ぐ扉を開けてしまった時田莉子は、大きな目をいっぱいに開いて、草平のことを見つめていた。