「と、時田さん?」
我ながら間抜けな声だと思いながらも、草平は叫んでしまう。
「その声って、やっぱり秋野くん?」
少しだけ首を傾げ、莉子はじっと草平を見ている。
そこでようやく草平は、自分の姿が、彼女の知っているものとは違うことに気が付いた。
「ご、ごめん」
思わず謝ってしまったのは、「巻き込んでごめん」とか「驚かしてごめん」と言う意味だったのだけれど、莉子は眉根を寄せて、「謝る意味がわからないんだけど」と呟いた。
「だって、驚いただろ。その、いろいろと」
「確かに驚いているよ。驚きすぎて、とりあえずどうしたらいいのかわからない」
「ごめん」
だから謝らないでと莉子は繰り返す。
「私が好奇心に負けて秋野くんの後を付けた結果なんだから、悪いのは私だよ」
「あ。言われてみれば」
そこで納得するのもどうかと思うが、確かに草平が彼女をここへ連れてきたわけではなかった。
「どうして俺の後を付けてきたんだよ」
「挙動不審だったから。犬っぽい匂いをさせていたし、てっきり犬に餌でもあげているのかと持ってたのに。まさか、秋野くんが犬だったなんて」
「……狼なんだけど」
訂正を入れてみたが、狼など見たことがないであろう彼女に区別がつくのかどうか自信はなかった。
それに、厳密にいえば、二足歩行するような狼は莉子の世界では架空の存在だ。
「これは、化けているの?」
「こっちが本当の姿」
「じゃあ、あのぼーとしている人間の姿は」
「仮の姿。魔法の力で変えてもらっているんだ」
魔法の力という言葉に、莉子の肩が落ちた。
「なんだか、今すごく秋野くんが遠く感じられたよ」
普通、魔法云々より、クラスメートが狼であることの方がショックなのではないかと思うのだが、莉子はそうではないようだ。
草平の知っている他の女子生徒なら、こういう反応はしないと思う。
叫んだりとか、逃げようとしたりするのではないだろうか。
「ねえ、秋野くんは、どうして人間の世界にいるの」
おまけに、質問もおかしい。
まずはここがどこかを尋ねるべきなのではないのか。
だが、その言葉は、喉の奥で消えてしまった。莉子の目があまりにもきらきらと輝いていたからだ。どう見ても、草平の答えを期待している目だ。
さあ答えて、すぐ答えて、と言っているようにも見えてしまう。
そういえば、自分は昔から犬だけでなく、女性にも弱かったということを思い出し、溜息をついた。
いつだって、女性に強い態度を取れたためしがない。
「人間の世界には、武者修行に行ってるんだ」
「むしゃしゅぎょー?」
いつの時代の話、と思わず莉子が呟いた言葉は、しっかりと聞こえた。耳が良いことは自慢だが、こういう聞きたくないことを聞いてしまうのは困る。
「実は、時田さんがいる世界には、強くて凶悪な魔物がたくさんいるんだ。俺の世界にはそういうのは少ないから、技を磨くために戦士を目指す者は、結構あっちに行っている」
「え、嘘。どこに魔物がいるの?」
当然、莉子は初耳だったのだろう。
怖い話などは聞いたこともあるが、魔物など見たことはないに違いない。いるなどと言われても、信じることは難しいだろう。
「いるよ。時田さんの世界では見えない人の方が多いみたいだけど」
「うん。私にもわからない」
「そういう意味で、こっちの世界の人って呑気だよね」
「呑気って問題じゃないような気がしてきた」
頭を抱えている莉子だが、見えない魔物の話よりも、もっと考えなければいけないことがある。
大体、今この世界は嵐だ。
普通ならば、こういう状況で悠長に話をしている場合ではないはずである。
少しずつひどくなっていく風と雨に、二人の声はどんどん大きくなってきていた。
「時田さん。ここは嵐だし、帰った方がいいと思うんだけど。俺は濡れても平気だけど、時田さんはそういうわけにはいかないよ」
人間は弱い、という認識が草平にはある。自分は元々雨や風に強いし、風邪を引くということは殆どない。でも、莉子たちは違う。
濡れたままの服を着て、こんなところにいたら、体を壊してしまうだろう。
それに、草平には、これからやらないといけないことがあった。
いつまでも、莉子の相手をしてはいられない。
扉にしても、そろそろ役目を終えて消えてしまうだろう。
また開けばいいだけの話だが、あまり頻繁にそういうことをしたくはない。
「扉が繋がっているうちに、帰った方がいい。……ついでに、ここのことも黙ってもらえたら嬉しいんだけど」
「もちろん誰にも言わないよ。秋野くんも困るだろうし。でも、私、まだ気になることが解決してない」
「え?」
「秋野くんから獣の匂いがする理由はわかった。でも、どうしてこそこそとこっちの世界に何度も戻っているの? 武者修行って、そういうもの?」
それを聞くまでは帰らないとでも言うように、莉子がまっすぐ草平を見つめている。
いったいどうしてそれほどまでに草平の行動が気になるのか。
親しくないし、自分が女の子に興味を持たれるような存在だとも思えない。
「教えられないっていうのなら、諦めるけど」
見上げた目は、やはり「さあ教えて、すぐ教えて」と言っているようだった。
やはり強気な女の子には逆らえない。
むりやりあっちの世界へ戻すことも草平の力ならば簡単だが、クラスメート相手に手荒なこともしなくはなかった。
どちらにしても、説明を求められるだろうし、あちらの世界に帰ってから、改めて説明するのも面倒だ。
それに。
草平は、濡れて張り付いてしまった莉子の髪と制服が気になった。幾らあっちが晴天だったとしても、さすがにこの姿で帰すのは気が引ける。
用事は、少しくらい遅れたところでかまわないだろう。
どうせ、このままの格好では呼び出した相手に会うことはできない。
「わかったよ、時田さん。説明するから移動しよう。少し先に雨をしのげる場所があるから」
草平が言うと、莉子は「そういえば、びしょびしょだ」と、いまさらのように自分の服を見て笑った。