ちょっとだけ強引だっただろうか?
こちらに背を向けて、乾いた布でごしごしと体を擦っている草平に申し訳なく思いながら、莉子は自分の濡れた髪を拭いていた。
草平に案内されてやってきたのは、山小屋のような建物である。
この世界へ戻ってきた時の着替えなどを置いている場所だと説明された。
小屋はそれほど大きくはない。それでも、小屋の中は二人には十分な広さだ。
真ん中には、大きな鉄製のストーブのようなものが置かれていて、入ってすぐに草平はそれに火をくべた。
その後、濡れた服を乾かすために服まで貸して貰い、なんだか段々申し訳なくなってきた莉子である。
自分でも、こんな行動に出るとは思わなかった。
普段ならば、異常な出来事に遭遇したら、見なかったことにして逃げ出しただろう。
実際、扉を開いた先に草平がいなければ、すぐに扉を閉め、夢にしてしまったに違いない。
それができなかったのは、きっと驚いただけではないのだと、草平の背中を見ていると改めて思う。
目の前にいたのが、見たことがないほど綺麗な生き物だったからだ。
だから、動けなくなった。
例え、それが草平だと気が付かなかったとしても、同じだっただろう。
雨に濡れていても、あの毛並みは本当に綺麗だった。
「時田さん? 大丈夫? もしかして、まだ寒い?」
いつのまにかこちらを向いていた草平が、心配そうに莉子を見ている。
ちょっと困ったように細められた目を見ていると、確かに彼は草平なのだと思った。
姿は莉子の知っている草平とは似ても似つかないが。でも、ぼーっとした目立たない容姿よりは、こっちの方が数倍はかっこよく見える。
なにより、すっかり乾いてしまった彼の毛は、ふわふわしていて気持ちよさそうだ。
耳のあたりとか、腕とか、頭とか、是非触ってみたい。本人は嫌がるだろうが、抱きつくのも楽しそうだ。
それに、袖のない着物のような服に隠れて見えない尻尾も、どういう形なのかが気になっていた。
「時田さん?」
返事をしない莉子を不審に思ったのか、草平が不安そうな顔をする。
「あ、ごめんごめん。ちょっと考え事していたから」
まさか、ぎゅーっと抱きしめて、すりすりしたいなどと考えていましたとは言えない。
「やっぱり、帰りたくなったとか」
「ううん、ちっとも」
あっちの世界へ戻ったら、このふわふわした毛に触ることが出来なくなるかもしれない。
そう思った途端、口から出たのは、この言葉だった。
草平の方は帰って欲しいと思っているのかも知れないが。
「それより、説明してくれるって言っていたよね」
「ああ、うん。そうだったけど。本当に知りたい?」
「もちろん。気になるし」
草平の肩が下がったような気がする。
髭も耳もそうだ。
見えないが、もしかしたら、尻尾も垂れているかもしれない。確かめたいという衝動にかられたが、辛うじてそれを押さえ込み莉子は草平の返事を待つ。
「もうこっちに来ちゃったわけだし、事情を話さないのもおかしいし。仕方ないな」
しょんぼりした様子が可愛いと思ってしまったことは、口にしない方がお互いのためかもしれなかった。
「この世界が異世界だってことは理解しているんだよね」
もちろんだと、莉子は頷く。
扉を開けたら別世界でした、という冗談みたいな状況はわかっている。
大体、薄汚れた倉庫の中が嵐の森だったなんて、普通の日常生活では絶対起こりえないことだ。
「この世界はさ、王様と王妃様が治めているんだ。彼らは、特別な力を持っていて、この世界が穏やかであるように見守っている。……はずなんだけど、この二人は喧嘩が絶えなくて」
「仲が悪いの?」
「違うと思う。二人は夫婦で、普段はこっちが嫌になるほど仲がいい」
なるほど、痴話ゲンカというわけだ。
「今、この世界って嵐だろ?」
確かに莉子がいた場所は夕方で、天気も晴れだった。だが、この世界は暗くて嵐だ。
単に、異世界とは時間の流れ方が違うのかと思っていたのだが、そうではないということなのだろうか。
「実は、王様は時間を、王妃様には天候を制御する力があるんだ」
深いため息を草平がついたのを、莉子は見逃さなかった。
現在痴話ゲンカ中の王様と王妃様。
片方は時間、片方は天気を制御するという。
「もしかして。喧嘩中だから、夜で嵐ってこと?」
「ああ」
わかりやすいが、迷惑な話だった。
「王様たちの能力って、感情に作用されやすいんだ。だから、普段はきちんと制御しているんだけど、喧嘩しちゃうとかなり感情的になるみたいで」
喧嘩は絶えないということは、よく嵐になったり夜になったりするのだろう。
とんでもないことだと思ったが、草平はあまり深刻ではないようだ。頻繁に起こるのならば、ここの住人達は慣れてしまっているのだろうか。
それとも、諦めてしまっているのか。
草平に関しては、どちらかといえば、面倒なことは嫌だなあという雰囲気を醸し出しているように見える。
「で、時田さんの質問の答えになるんだけど、武者修行中の俺がこっちへ戻ってくるのは、仲裁を頼まれるからなんだ」
「どうして?」
もしかして、ぼーっとしているが、草平はこの世界では位が高いとか、偉い人だとか、王族に類するものとか、そんな立場なのだろうか。
恐る恐る尋ねてみる。
「え? 俺は田舎生まれの田舎育ちで、剣士っていっても、かなりの下っ端だよ。年も若いし」
そうだとすれば、何故彼が仲裁を頼まれるのだろう。
疑問をそのままぶつけると、草平は、また大きな溜息をついた。
「なんていうか、俺が、王妃様に気に入られているから」
「え? まさか」
愛人とか?
と、妙なことを考えてしまい、慌てて妄想を振り払う。
いくら何でもそれはないだろう。
さっき、草平の口から二人は仲が良いと聞いたばかりだ。それに、草平を見ていても、愛だの、恋だのいう雰囲気ではない。
「他の奴だと、王妃様の返り討ちにあって、話も出来ない」
「か、返り討ち!?」
異世界の王妃様というからには、上品で華奢でドレスを着ていてというイメージが莉子にはあったが、返り討ちとは穏やかではない。
「それに、その…」
だが、草平は赤くなった……ような気がする。
毛に覆われているので、もじもじした雰囲気とか、あらぬ方向を向いている様子とかで判断したのだが、間違いなさそうだ。
「王妃様は、俺の毛に触るのが好きみたいなんだ」
同類!?
思わず口にしそうになって、慌てて莉子は言葉を呑みこむ。
合ったことはないが、親近感まで沸いてきた。
「ねえ、私も付いていっていい?」
「ええ!?」
草平の目が丸くなる。
「あ、それとも。王妃様っていうくらいだから、私みたいな一般人は簡単には会えないとか」
「いや、ここではそれはない。けど、王妃様に会うのはお勧めできないなあ」
「どうして」
「痴話ゲンカなんてみたいわけ? きっとものすごく不機嫌だろうし、今いったら、王様のことを延々と聞かされると思う」
「邪魔しないから」
会ってみたい。
異世界の不思議な王妃様。
どんな人なのかわからないが、何故か話が合いそうな予感がしていた。