お使いを頼まれた家は、昼間でも薄暗い森の中にあった。
お友達の間では、お化け屋敷って言われている、大きなおうちだ。
もちろん住んでいるのはお化けじゃなくて、世界を支える偉い人……とセンセイが言っていた。
だから、きっと怖くない。
森の奥には、大きな門と先が見えない長い塀があった。
門には屋根がついていて、木で出来た扉がついている。さすが『偉い人』の住む家だ。
「こんにちは〜」
呼び鈴を鳴らして声をかけたが、返事はない。
留守なんだろうか。
でも、お使いを頼んだお父さんは、この屋敷には、必ずいつも人がいるって言っていた。
呼び鈴を押せば、すぐに誰かが出て来るから大丈夫、おまえでも出来るお使いだよってことだったのに。
待っても、待っても、誰もこない。
門の中に入ってしまおうかな。
そう思ったけど、さすがりっぱなお屋敷の門。
簡単に開いたりしなかった。
どうしよう。
もう一度だけ、呼び鈴を鳴らしてみようか。
そう思って、手を伸ばした時だった。
「今、出ますからー」
どこか能天気でのんびりした声が響いて、門が開いた。
「少し手が離せなかったものだから……あら?」
門の向こうから出て来たのは、女の人。私の姿を見て目を丸くしている。
奇麗な着物を着て、色も白くて、うっすらと化粧もしているけれど、高校生くらいのお姉さん。
美人じゃないけど、かわいいって感じだ。
「どうしたの? ここに何か用かな」
優しい声で、女の人が尋ねて来る。
笑顔もふわふわとしていて、かわいらしい。
なのに。
何故か、私の足はすくんでいた。
心臓もドキドキしている。
なんだかおかしいよ。
「お、お使い…」
いつもは口ごもったことなんてないのに、言葉が出てこなくて、それだけをようやく言うことが出来た。
「お使い? あら、それはお野菜ね」
「は、はい」
うちの家は、本業ではないけれど、ユウキノウホウとかいうので野菜を作っている。今の時代、そんなふうに作られたお野菜は珍しいから、偉い人やお金持ちに高く買ってもらえるらしい。
ここもお客さまで、本当なら配達は、お父さんか一番上のおにいちゃんの仕事だ。
「じゃあ、今日はいつもの人の代わりなのね。お疲れさま」
優しく言ってその人は手を伸ばし、頭をなでてくれた。
「うっ」
大きな声が出そうになって、あわてて言葉を飲み込む。
女の人の手が触れたとたん、悪寒が走ったのだ。
変だ。
ものすごく、変だ。
この人は、優しそうで、悪意もなさそうで、本当にいい人そうなのに。
なんで、私の体はびくびくしているんだろう。
おまけに、早くここから帰りたいなんて、思っている。
女の人は、鈍感なのか、敢えて気付かないふりをしているのかわからないけれど、さっきからにこにこしたままだ。
「私は千尋よ。お嬢ちゃんのお名前は?」
「あ、あの」
答えなくちゃいけないと思うのに、うまく口が動かない。
ううん、違う。この人に名前を教えたくないんだ。
こんなことを思うなんて、私はすごく嫌な子だ。
「人見知りしているのかな?」
人見知りじゃない
そういうのじゃなくて。
これって……怖い、のかな。
でも、怖くても嫌でも、名前を聞かれて答えないなんて、すごく失礼なことだ。
お客様には丁寧に答えなさいって、お父さんにも言われているし。
私は頑張って力を体に込めた。さっさと答えて、とっとと帰ろう。
「あ、私は、そ…」I
「千尋」
せっかく答えようと思っていたのに、私の言葉を男の人の声が遮った。
気合いがそがれてしまったけれど、どこかほっとする。
「お客様が来ているんですか」
そう言いながら、女の人の後ろから男の人が現れた。
あれ?
この人って。
「椋一おにいさん?」
呼びかけると、おにいさんが驚いた顔をする。
間違いない。
かっこよくはないけれど人がよさそうな姿は、一番上のおにいちゃんのお友達で、家にも時々遊びに来ている椋一おにいさんだ。
このお屋敷から出てきたってことは、おにいさんも偉い人なんだろうか。
そんなこと、誰も教えてくれなかったから、知らなかったよ。
「椋一さん。いつお帰りになったんですか? ちっとも気がつきませんでした」
女の人は微笑みながら、おにいさんの方を向く。
視線が逸れたことで、さらにほっとした。
おにいさんが、私をちらりと見て、眉をひそめる。ひょっとして、あからさまに安心したのがわかっちゃったんだろうか。
「この子と知り合いなんですか?」
「ああ、まあ、顔見知りですかね。野菜を作っている方の所にも、時々顔を出しますから」
曖昧に微笑んでみせると、おにいさんはそう言った。
変なの。
顔見知りじゃなくて、『お友達の妹』なのに。どうして、そんな嘘を言うんだろう。
「……千尋。ここはいいから、これを持って奥に戻っていなさい」
椋一おにいさんは私の手から荷物を取ると、それを女の人に渡した。
まるで、これ以上、会話を続けたくないかのように。
「はい。わかりました。じゃあね、お嬢ちゃん」
そんなおにいさんの態度を不審がることもなく、にこにこと笑いながら、女の人は行ってしまった。
姿が見えなくなると、肩の力が抜けてしまう。
実際、ほっとしすぎて座り込んでしまったくらい。
「どうしたの?」
椋一おにいさんは、視線を合わせるようにしゃがんで私を見た。
どうしよう。
言ってもいいんだろうか。
だって、あの人はおにいさんの家族に違いない。
「大丈夫だよ。ここにはおにいさんと、宙さんしかいないよ」
もじもじしていると、元気づけるようにおにいさんが頭を撫でてくれた。
「うん、あのね。あの人……」
ちらりと屋敷の奥を眺める。
「千尋?」
「あの人……怖いの」
椋一おにいさんは驚いたような顔をした。
あ、やっぱり言わない方がよかったかな。怖いなんて言われて、気を悪くしたかもしれない。
だって、あの人、かわいいし。
優しそうだし。
「そう、か。宙さんは、千尋が怖いんだ」
「……ごめんなさい」
俯いて謝ってしまう。
どうしよう。
怒ってしまったかもしれない。
「謝ることはないよ。宙さんがそう思うのは仕方ないかもしれない」
寂しそうに笑うと、おにいさんは頭をなでてくれた。
さっきと違って、ほんわかとあったかい。ずっとこうしてもらっててもいいかなって思うくらい。
だから、おにいさんの手が離れた時は、ちょっとだけ残念だった。
「さてと。遅くならないうちに、送ってあげるよ。森の中は危ないからね」
来るときは何もなかったのに。
おにいさんは急にそんなことを言い出した。
おにいさんが私の手を取って歩き出した。
森の中の道は狭くて、かなりくっつかないと二人並んで歩けない。だから、ちょっとドキドキする。
弟たちと歩く時だってこんなことはないってくらい近いところに、おにいさんがいる。
私に合わせてくれているのか、歩く速度もゆっくりだ。
「今日は、お父さんに頼まれてのお使いだったのかい?」
「うん。おにいちゃんも、おとうさんも忙しかったの」
「そうか。重かったんじゃないかな」
確かに重かったけれど、もてないほどじゃなかったし、実はお化け屋敷にも興味があった。
偉い人も見てみたかったし。
だけど、そこにおにいさんがいるなんて思わなかったから、そっちの方がびっくりしたよ。
「お使いは大変じゃなかったけれど、おにいさんが偉い人だったのに驚いた」
「偉い人?」
「だって、あのお屋敷って、偉い人が住んでいるんでしょう」
町の人たちは、みんな言っている。
あそこは、世界を支える力を持った偉い人達のおうちだって。
お金持ちで、力も強くて、すごいんだって。校長先生よりも、町長さんよりも、ずーっと『地位』も高いんだって、先生が教えてくれた。
「偉いのは父であって、俺じゃないよ」
「そうなの?」
住んでいる人がみんな偉いんじゃないんだ。
うーん、考えてみれば、そんなのは当たり前だよね。
大体、おにいさんて、全然強そうだったり、偉そうだったりしないもの。
「よかった」
私がほっとしたように言うと、おにいさんが不思議そうに首を傾げた。
「何がよかったの?」
「だって、おにいさんが偉い人だったら、あんまり遊んでもらっちゃいけないのかなって思って」
椋一おにいさんは、家に来ると、弟や私をいろいろ構ってくれる。
おいしいお菓子をくれたり、面白いお話を教えてくれたり、勉強を見てくれたりするのだ。
家族は、みんな椋一おにいさんのことが好きだから、遊んでもらえなくなるのは嫌だ。
あ、でも、周りの大人達は、偉い人だけじゃなく、偉い人の子供にもぺこぺこしている。
理屈はよくわらかないけれど、私もそうしなくちゃいけないのかもしれない。
「宙さん、俺の父が偉いからって、遠慮したりしないでくれよ」
考えていることがわかったのかもしれない。おにいさんは、ほんの少し厳しい声でそう言った。
「あの家だって、建てたのは俺じゃなくて、先祖の誰かだし、財産や地位もそうだ。俺自身は、ただの高校生だよ」
その言葉に、普段のおにいさんの姿を思い出す。
うちに遊びに来るときは、高校の制服か、シャツと少しくたびれたジーンズ姿だ。今だって、そう変わりない。町中を歩いていても、お金持ちになんて全然見えないだろう。
私が普段見ている椋一おにいさんのまんまだ。
「そうだよね。椋一おにいさんは、椋一おにいさんだもんね」
「そうそう。それから、このことはみんなには内緒だよ」
「言っちゃいけないの?」
「世の中には、悪い人がたくさんいるからね。俺は偉くなくても、家のことで俺を利用しようとする人がいるんだ。そんな俺と知り合いだとわかると、宙さんが怖い目にあうかもしれないから」
偉い人も、いろいろ大変なんだ。
もしかして、おにいちゃんは、それで椋一おにいさんのおうちのことを何も言わなかったのかもしれない。
「わかった。内緒にしておく」
「ありがとう。あ、そうだ。宙さん、これをあげておくよ」
おにいさんは、ポケットに手を入れると、中から綺麗な石を取りだした。
「わあ、綺麗!」
声を上がるとおにいさんは笑顔を見せた。
「今度、ここへ来るときはね。これを森の入り口で振ってもらえるかな」
「振ったらどうなるの?」
「これには、魔法が掛かっているんだ。だから、これを振ると、俺には君が来たってすぐわかるんだよ。そうしたら、すぐに迎えに来てあげるから」
「面倒だよ。なんでそんなことをするの?」
純粋な疑問だったのだけれど、椋一おにいさんは曖昧に笑っただけで答えてくれなかった。
これも秘密のひとつなのかな。
「とにかく、絶対に1人で屋敷まで来ちゃだめだ。じゃないと……」
椋一おにいさんが怖い顔をしたので、私はびっくりして立ち止まってしまった。
「森の中で、お化けに食べられちゃうよ」
おにいさんは片手を上げて、がおーっと言いながら襲い掛かる真似をする。
「うっ……」
ふいに頭の中に、さっきの女の人が浮かんだ。
頭からばりばりと食べられる姿を想像してしまった。
優しそうな人だったのに、こんな変なことを考えてしまうなんて、私、どうしちゃったんだろう。
「ごめんごめん。驚いた?」
「おにいさん、意地悪だよ」
「うん、でもね。そう言わないと、宙さんはふらふらと来ちゃいそうだからね」
違うと言いたかったけれど、実は同じようなことをおにいちゃんやおねえちゃんに言われたことがあるから、文句も言えない。
「わかった。約束する。ちゃんと守るから、怖いこと言っちゃやだ」
「はいはい、わかりました」
おにいさんは、戯けたように言うと、また大きな手で頭を撫でてくれた。
森の外に出ると、いつのまにか空が茜色に染まっていた。
そんなに長くいたつもりはなかったけれど、結構時間がたっていたらしい。お父さんたちが心配しているだろうから、早く帰らないと。
「おにいさん、ありがとう。ここからは1人で大丈夫だよ」
私はおにいさんの手を離す。
「そう? まあ、ここまで来れば平気かな。じゃあ気をつけて帰りなさい」
「はーい。おにいさん、またね」
「宙さん」
駆け出そうとした私は、名前を呼ばれて、振り返った。
おにいさんは、まだ森の入り口に立ったまま、こっちを見ている。
なんだか、いつもと立場が逆だ。
見送ることはあったけれど、椋一おにいさんに見送られることって初めてだし。
不思議な感じ。
でも、嫌じゃない。
「おやすみ、宙さん。寄り道はしないで帰るんだよ」
「うん、わかってる。おやすみなさい」
大きく手を振ると、おにいさんが笑顔になった。
手を振り返してくれる。
そんなおにいさんが、ちょっとだけかっこいいな、と思ってしまったのは、ないしょの話。