すべてのことに行き詰まると、何もかもを投げ出して散歩と称して外に出る。
そうしないと、屋敷にいる存在を苦しめて壊して不幸にしてしまいそうになるからだ。
屋敷を出ると少し気分が落ち着いた。
森の中を抜けると、息が楽になった。
夕暮れ近い街中には、日常生活を送るごく普通の人たちがいて、それを見ているだけで、肩の力が抜けていく気がする。
それでも、心の中はまだ苛ついていて、穏やかとは言い難い。
今ここで屋敷に戻れば、間違いなく感情を抑えられなくなるだろう。
その結果どうなるのか――想像するのは簡単だった。
もう少しだけ、心を落ち着かせるために、散歩を続けた方がいいのだろう。
商店街まで出ると、そこに見知った顔があった。
友人の妹である宙さんだ。
菓子屋の前で腕を組み、なにやら難しい顔をしている。
「宙さん?」
彼女に近づきながら声をかけると、こっちを振り向いて笑顔になった。
友人によく似た笑みに、苛立った気持ちが薄れていく。
不思議なことだけれど、俺は、8歳も年下のこの少女を構うのが好きだった。
生意気だし、容姿が飛び抜けて可愛いというわけではないし、出会った時から遠慮の欠片もない子供だったけど、嫌いにはなれなかった。
むしろ、話していて楽しいとさえ思っている。
つい最近、俺の素性を知ってしまったけれど、その後の態度が以前と変わらなかったのも、嬉しかった。
そういう部分も友人に似ている。
「こんにちは、椋一おにいさん。何しているの?」
商店街で会うのは初めてだったからなのか、宙さんは首を傾げて俺を見ていた。
彼女自身は私服姿だから、恐らく学校から帰宅した後、ここにやってきたのだろう。
「俺は散歩中だよ」
「そうなんだ。私はお買い物なの」
そういえば、彼女は菓子屋の前に立っている。
ここは、最近小学生の間で流行っている店だと、誰かに聞いた覚えがあった。
確かに、店先には、子供が好きそうな色鮮やかで形もキレイな飴や焼き菓子が並んでいる。
「今日入ったばかりの新しいお菓子を買おうかどうしようか、悩んでいたの。500円しか持っていないし」
宙さんが欲しいというお菓子は200円するらしい。
これを買ってしまうと、次にお小遣いをもらえるまで手持ちが300円になり、来週発売の欲しい本が買えなくなるのだと宙さんが説明してくれる。
俺にとって200円は安い金額だが、小学生の宙さんにしてみれば、大金なのだろう。
「おごってあげようか?」
「だめだよ。そんなことしたら、陸おにいちゃんに怒られちゃう。この間、おいしいケーキをもらったばっかりだし」
俺の友人でもあり、彼女の兄でもある陸は、躾には厳しい。
俺が遊びに行くたびにお菓子やオモチャを持っていったら、やめてくれと怒られてしまった経験もある。
ここで宙さんにお菓子を買ったら、俺だけでなく、彼女も怒られるだろう。間違いなく。
「仕方ないか」
お菓子に関しては、また遊びに行ったときにでも、持って行けば問題ないだろう。
友人は文句を言うだろうが、純粋に喜んでくれる宙さんたちを見るのは楽しいのだ。
「ところで、宙さんの欲しい本って何?」
彼女が題名を告げる。
小学生の割には、大人びた本を読んでいるらしい。もしかしたら、陸の影響なのかもしれない。
なんだかんだいいつつも、あいつは宙さんをかわいがっているのだから。
「本も欲しいけど、お菓子も食べたいんだね」
「そうなの。新作のお菓子は人気だから、売り切れちゃうと次の入荷まで待たないといけないんだよ」
「難しい選択だね」
「そう、ムズカシイの!」
腕組みをして考え込む宙さんは、真剣そのものだ。
きっと、宿題をしているときよりも必死なんだろう。
気がつくと、俺の口元に笑みが浮かんでいた。
さっきまでの苛立った気持ちも、何かを壊してしまいたいという衝動も、いつのまにか消えてしまっている。
やはり宙さんのおかげなのだろうか。
そうなのだろうと確信はあった。
ずっと以前から、俺は宙さんに会うために陸の家に通っていたのだし。
「うーん、やっぱりお菓子は諦めることにする」
唸りながらお菓子を見ていた宙さんが、どうやら結論を出したようである。
俺が、本当にいいのかと尋ねると、やっぱり本の方が好きだからと、照れたように笑った。
お菓子を諦めた宙さんと、二人並んで歩く。
もう日も傾いていたから、散歩がてら、彼女を家まで送っていくことにしたのだった。
「宙さんは、そんなに本が好きなの?」
彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、俺は尋ねる。
「うん。図書館でもよく本を借りるよ」
陸も本好きだ。
初めて俺の家に来た理由も、確か『珍しい本がたくさんある』だった。
「よければ、今度、宙さんが読めそうな本を持ってきてあげるよ。うちには、たくさん本があるんだ」
「いいの?」
「うん。その代わり、俺がお願いしたとき、散歩に付き合ってくれるかい?」
これは、ふいの思いつきだったけれど、中々良い案だったんじゃないかと思う。
少なくとも、宙さんといると気持ちが落ち着くことは間違いはない。相手は小学生の女の子で、俺は彼女よりずっと年上なのに、いつだって癒されているのは自分の方なのだから。
「だめかな?」
断られるのが嫌で、少しきつい口調になってしまった。もしかしたら、顔も険しくなっているかもしれない。
宙さんは、そんな俺の顔をじっと見つめながら、考え込んでいる。
やがて口を開いた彼女は、俺から視線をはずさなかった。
「おにいさん、今日は、怖い顔していたよね?」
少し前のことを思い出すように眉を潜めた宙さんの言葉に、どきりとする。気付かれないようにしていたつもりだったのに、見抜かれていたらしい。
「散歩をすると、気分が落ち着くの?」
重ねて聞かれた事も事実だったので、俺は素直に頷いた。今更、宙さんに対して嘘をついたり、ごまかしたりする気にもなれない。
「だったら、いいよ」
あっさりと宙さんは言った。
「おにいさんと散歩するのは楽しいから、かまわないよ。あ、だけど、学校の宿題が忙しくない時にしてね」
「それでいいよ」
それだけで十分だ。
こんな俺といることが楽しいと言ってくれるだけで、それ以上望むことはない。
結局、俺は宙さんを家まで送っていき、そのまま夕食までごちそうになってしまった。
彼女の家族は相変わらず賑やかで、うかうかしていると大皿に盛られたおかずはどんどん無くなってしまうという状況は、いつ体験しても新鮮だ。
気がつくと、苛立ちはどこにもなく、自然に笑っている俺がいた。
俺はここではお客様であるはずなのに、家族と同じに扱ってもらえることが、どうしようもなく嬉しい。
宙さんたちに感謝しながら、俺は少し暖かい気持ちで、家路についたのだった。