空の見える場所で

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  8.泣きべそ  

「泣いてなんかいない」
 そんなふうに宙さんは強がってみせた。
 けれど、鼻の頭は真っ赤だし、目の回りは腫れぼったくなっているから、説得力はない。
「泣いたりなんかしないもの」
 そう言いながら、宙さんは、俺の胸に顔を埋めたまま、ぐずぐずと鼻をすすり上げたのだった。


 宙さんが誘拐されそうになったと連絡を受けたのは、夜もかなり更けてからだった。
 知らせてきたのは、俺の友人であり宙さんの兄でもある陸だ。
 未遂で終わったとは言われたものの、いてもたってもいられなくなる。
 陸は来なくても大丈夫だと言ったが、俺は宙さんのことが心配だった。
 同時に、来るべき時が来たのだという、嫌な気持ちにもなる。
 俺と関わりがあることを、敵対する奴らか、利用しようとする存在に、知られてしまったのだ。
 なんともいえない憂鬱な気分のまま、俺は、陸が指定した町中の小さなホテルに向かった。
 そこには、陸の側で、陸の手を強く握りしめたまま元気なく立っている空さんの姿があった。
 そして、俺の姿を見たとたん、その目から、涙がこぼれだしたのだった。


「椋一、宙はどうしてる?」
 静かに扉が開いて、陸が部屋の中に入ってくる。
「眠ったよ」
 ソファーに座る俺の体にしがみつくようにして眠っている宙さんを起こさないように小さな声で返事をする。
「そうか」
 ほっとしたように笑った陸の顔はひどく老けて見えた。
 きっと俺自身も似たような顔をしているのだろう。
「無事でよかったよ」
 いつもは何事にも動じることのない陸が、今日に限っては弱気になっている。
 陸は、家族を大切にしている。彼にとって家族は守るべきなによりも大事な存在なのだ。
 それを知っていて、まだ子供である宙さんと必要以上に関わりを持ってしまったのは、俺の責任だ。
「すまない、俺のせいだな」
「違うだろ。お前のせいじゃない」
 陸はそう言ってくれるが、やはりそうとしか思えない。
「宙が、お前と関わりが深くなっているのを知っていて、油断していたのは俺の方だ」
 陸は、俺の向かい側の椅子に腰掛けると、ため息をつく。
「それに、少し調べれば、宙が俺の妹だってこともわかる」
 陸と俺の関係は、親友とも相棒とも言える間柄だ。
 その二人と関わりが深い人間がいれば、利用したくなる奴もいるだろう。
「これからも、こんなことが起こるんだろうな」
「そうだな。十分にあり得る話だ」
 俺と関わったことで、命の危険にさらされているのは、宙さんだけじゃない。
 目の前にいる陸もそうだ。
 俺と一番近い場所にいて行動を共にしているせいで、何度も危ない目にあっている。
 本人は、刺激があって楽しいなどといっているが、自分のしたことで家族に迷惑がかからないように、常に気を遣っていたのだ。
 本当ならば、俺は、もうこれ以上、宙さんと親しくならないほうがいいのだろう。
 陸の負担を増やしてしまうことになるし、今回は無事だったからといって、次回が大丈夫だという保証もない。親しい人間が自分のせいで危険な目にあうのが嫌ならば、関係を控えるという選択肢もあるのだ。
 だが、頭ではわかっていても、それを選ぶことに納得できているかというと、そうではなかった。
「なあ、陸。それでも、宙さんと関わりたいと思うのは罪なことか?」
 俺の言葉が意外だったのか、陸が驚いた顔をした。
 当然かもしれない。
 普段の俺は、力のない普通の人たちと、必要以上に親しくはならない。危険に晒すからというだけではなく、大事なものが増えれば、自分一人で対処できなくなるからだ。
「そうだな。ま、いいんじゃないか。宙はお前の事情を知っても、ちゃんと受け入れられると思うしな」
 反対されないまでも、いい顔をしないのではないかと思っていたのに、陸はあっさりとそう言った。
 彼が、家族を何よりも大切にしていると知っているだけに、拍子抜けする。
「いいのか?」
 確認するように尋ねると、陸はおかしそうに笑う。
「守るのも戦うのも、俺たち力あるものの役目だろう? 違うか」
 陸は変わらない。
 最初に会った時から、ずっと今と同じことを言い続けている。そして、俺とは違い、それをちゃんと実行しているのだ。
「それとも、お前は大事なものを守る自信がないのか?」
「お前はあるのか?」
 陸は不貞不貞しい顔を俺に向ける。
「なかったら、お前の相棒なんぞ、やっていないだろ」
 自信たっぷりの言葉にも、俺を見る眼差しにも迷いはない。
 そうだった。彼は、家族が危険にさらされるかもしれないリスクを承知で、俺の傍にいるのだ。
「自意識過剰過ぎだ」
「そうかもな」
 だが、そんな陸に俺は幾度も助けられている。
 彼がいなければ、今の自分は存在していなかったかもしれない。
「しかしなあ」
「なんだ」
「お前、どんな美人に迫られても、興味なさそうにしているなあと思っていたら、こういうのがシュミか」
 その視線が、俺の傍にいる宙さんの方に向いている。
「手ぇ出すなよ。一応、俺の可愛い妹なんだからな」
「当たり前だ。そんなんじゃない」
 まったく何を考えているんだか。
 いくらなんでも、小学生に手なんか出すか。
「最低でも、5年は待てよ。犯罪になっちまうからな」
「だから、違うって言っているだろう。彼女は妹みたいなものだ。大体、5年たっても犯罪のような気がするぞ」
 誤解を解こうとしたが、陸は面白がるばかりだ。
 仮にもお前の妹なんだろと言うと、だから一応釘を刺してると言われてしまった。
 まったく、こういうところがなければ、いい奴なんだが。
「さてと、事後処理だとか隠蔽工作とかは俺がやっとくから、お前はしばらく宙に側にいてやってくれ」
 立ち上がった陸は、宙さんに近づくと、起こさないようにそっと頭を撫でた。
「平気な顔をしているが、相当ショックを受けているからな。何かの拍子に連れ去られそうになった時のことを思い出すかもしれないし、できれば、今夜一晩くらいはついていてやってほしい」
 お前に任せるのは不安だがなと笑っているが、目は真剣だ。
「それに、お前もひどい顔をしている。心配だから、宙と一緒にいろ」
 陸は、宙さんだけでなく、俺のことも気にしてくれているらしい。確かに、今の俺は、少し心を落ち着けないと、冷静に事後処理などは出来そうになかった。
 今、目の前に今回の首謀者でも現れようものなら、何をしてしまうかわからない。実際、自分を押さえられずに、他人を傷つけたことが何度かある。
 陸はそれがわかっているから、こんなことを言うのだろう。
 本当に、こいつが居てくれてよかったと思う。
「悪いな、陸」
 俺が素直に礼を言うと、陸の方は戯けたように肩を竦めてみせた。
「気にすんな。それよりも、二人きりだからって、宙を襲うんじゃないぞ」
「だから、違うって言っているだろう!」
 この反論に、やつは軽く手を振っただけで、返事もせずに部屋の外に出ていってしまったのだった。
 

 扉が閉まる音に、宙さんの体が動いた。
 目が覚めないようにと気を遣って静かに閉めた陸の努力は報われなかったらしい。
「ん……? 今、陸おにいちゃんの声がしなかった?」
 目を擦りながら俺を見上げる宙さんは、寝ぼけているのか視線が定まっていない。
「さっきまでいたんだけど、出て行った」
「え、置いてけぼり?」
 あわてて、起き上がろうとする宙さんを止める。
「まだ寝ていなさい。顔色が悪いし、もう少し休んだ方がいい」
「でも、おうちに帰らないと」
 言いながらも、宙さんの目は今にも閉じてしまいそうだった。
「大丈夫だよ。陸が今日はここに泊まっていけと言っていた」
 陸という言葉に安心したのか、宙さんは起こしていた体を、再びソファーに沈めた。
「俺もここにいるから」
 宙さんの頭を撫でながらそう言うと、ほっとしたのか彼女の体から力が抜ける。
「よかった。1人になるのはちょっとだけ怖いかなって思っていたの」
 少し弱気な発言だけでなく、俺の服の裾を掴んだ手も震えているのは、やはり誘拐された時のことを思い出したからなのだろう。
 ロビーでの様子を思い出す。あんな宙さんを見たのは、初めてだったのだ。
「そういえば、宙さんが泣くのを初めてみたな」
「む。私だって、椋一おにいさんが泣くの初めてみたよ」
 頬を膨らませた宙さんが反論する。
「……泣いていた?」
「覚えていないの? ここへ来たとき、泣いていたんだよ」
 全然気がつかなかった。
 そういえば、ホテルに駆け込んだ時に、陸が変な顔をしていた気がする。奴は何も言わなかったが、やたらと心配していたのは、そういうことだったのか。
「ごめんね。私のせいだね」
 宙さんは悪くない。
 悪いのは、宙さんを怖い目に合わせた奴らだ。そして、こんなことに巻き込んでしまった俺自身だ。
「おにいちゃんにも心配かけちゃったし。失敗したなあ。お前は覚悟が足りないーって後で怒られそう」
 陸に怒られるところを想像したのか、宙さんは顔を顰める。
 何気なく言った言葉なのかもしれないが、俺は彼女の言った『覚悟』という言葉が気になってしまう。
「宙さん、覚悟なんてしなくてもいいんだよ」
「あのね、陸おにいちゃんに少しだけ聞いてたの。椋一おにいさんの友達でいるなら、覚悟しないといけないことがたくさんあるって」
 そうだった。
 基本的に陸は兄弟たちに甘いが、ただ甘やかすだけということは決してしない。必要とあれば、まだ幼い妹や弟相手であっても、都合の悪いことをごまかしたりせずに、きちんとすべて話しているのだ。
 何も知らせないことの方が危険だと、そういう考えらしい。
「ちょっと怖いこととかも聞いていたんだけど、でも」
 目を伏せて、宙さんが少し考え込む。
「でも、おにいさんと、お友達でいたかったの」
 顔を上げ、俺から視線を逸らさないまま宙さんは言う。
「そのことをおにいちゃんに言ったら、宙のことは俺がちゃんと守ってやるって言ってくれた。今回だって、すぐに助けにきてくれたし」
 陸らしいな、と思った。
 本当に、奴は家族には甘い。……もしかしたら、俺にも甘いのかもしれない。
「でも、次からは同じことが起こらないように気をつける。おにいちゃんが捕まらないような裏技をいろいろ教えてくれるっていうし」
 空さんは胸を張って言う。
「だから、お友達やめないでね」
 陸と同じ眼差しだった。迷いなんてない目だ。
「……やめないよ」
 やめることなんてできないだろう。
 この目を見ていると、そう思ってしまう。まっすぐで純粋で、きちんと俺自身を見ていてくれるとわかるのだ。
 おそらく、俺は、この眼差しを失うことなど、出来ないだろう。。
 深みにはまっていくとわかっていながら、この関係から抜け出せなくなっているのだ。
 宙さんや陸だけじゃない。
 彼女らの家族だって、血の繋がった人間よりも、大事な存在になってきている。
 家族や親族を失うことに何の感情もわかないが、もし宙さんたちに何かあったら、正気でいられる自信がない。
「宙さんこそ、俺に愛想をつかさないでくれよ」
 呟くようにいった俺の言葉に、宙さんは「そんなことはしないよ」と笑ってくれた。



 俺が宙さんと契約して、彼女を家から連れ出した時、「やっぱり俺の言った通りじゃないか」と陸に散々からかわれたのは、この5年後のことだった。

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