明日になっても、彼女はそこにいるのだ、ということを思いだしたとたん、急に照れくさくなった。
陸が知れば、妹を強引に家から連れ出しておいて何をいまさらと言いそうだ。
でも、昨日までは慌ただしくて、そんなことを考える暇なんかなかった。
手続きやら、説得やら、とにかく仕事の合間にやるには面倒なことばかりだったのだから。 だからこそ、落ち着いて冷静になると、この状態はものすごくはずかしい。
部屋の中に、二人きり。
何を話せばいいのか、聞けばいいのか。
いつもどおりにすればいいと頭ではわかっていても、それができない。
「ちょっと照れますね」
宙さんが、ほんの少し顔を赤くして呟いた。消え入りそうな声というのは、こういうのを言うのかもしれない。
そういう俺も、「そうだね」と返した言葉が掠れている。
本当に困った。
何を言おう。気の利いたことなど、ひとつも浮かばない。
宙さんもそうなのか、黙ったままだ。
いつまでもこうしているわけにもいかないし、どうしたものだろう。
正直、聞きたいことがないわけでもなかった。
言いにくいだけで。
「ねえ、宙さん」
俺は覚悟を決めて、それを尋ねることにする。そうしなければ、心の中にあるモヤモヤが消えそうになかったからだ。
「俺の我が儘で、こんな契約をしてしまって、本当によかったんですか?」
一息に言ってしまって、宙さんの顔を見る。
強引に推し進めてしまったことだから、少し心配していたのだ。
なにしろ彼女はまだ未成年。
世間的にも、常識的にも、俺のやってしまったことがまずいことだという自覚はあった。兄である陸は結局何も言わなかったけれど、ものすごく嫌そうな顔はしていたし。
宙さんを泣かせでもしたら、殴られるだけではすまないと思う。ヤツのことだから、会うたびに嫌味を言い続けるかもしれない。
それに、宙さん自身も納得していない気がする。
ときおり俺の顔を盗み見て、小さく溜息をついているから、言いたいことも何かあるのだろう。
契約という言葉を持ち出したときも、彼女は、何度も報酬は入らないと言った。俺が報酬は当然だと言っても首を縦に振らなかったのだ。
結局お互いがちょっとずつ折れて、それはなんとか治まったけれど、心の底ではまだ気にしているのかもしれなかった。
それに、彼女の心配はお金だけではないのかもしれない。
一応、俺は男で、彼女は女性だ。宙さんが俺に対して持っている感情はわからないが、こちらははっきり恋愛感情だと自覚している。口に出して言ったことはないけれど。
「宙さんが高校を卒業するまでは」
俺は宙さんの顔を見つめたまま、陸に言われた言葉を思い出していた。
「絶対手を出すなって、陸には釘を刺されているから」
「……そうですか」
俯いた宙さんの耳が赤い。
「そうですよね。けじめってものがありますよね」
「ああ、けじめはちゃんとつけないと」
陸はそういうことにはうるさい。
「守らないと、一生嫌味を言われ続けそうです」
どうやら宙さんと俺の意見は同じらしい。そうだよな、陸の性格はお互いによくわかっている。
「それに、どちらにしたって夜は帰らないといけないから」
仕事以外で、夜に家を空けることは許されない。それは、俺と家の者たちの約束事だ。その代わり、それさえ守れば昼間俺がどこで何をしようと干渉しない。
家を継ぐにあたって、揉めた末に出した結論だった。
「……そうですね」
宙さんの顔が曇る。
ある程度、陸から俺の家の事情は聞いているはずで、俺を縛り付けるもののことも当然知っているのだろう。
「でも、今日はまだ時間はありますよね。えーと、お茶でも飲みますか?」
話題を変えるように明るい声を出した宙さんが、まだ片付いていない台所を振り返った。
ここからでも、その雑然とした様子が見て取れる。慌ただしかったから、片付けは途中なのだ。
「そのためには、まず湯飲みを探さないと」
本当だ、と笑い出す宙さんと一緒に俺たちは湯飲みや急須を探すことにした。
考えなければいけないことはたくさんあるけれど、今はそれよりも、こうやって宙さんと二人でいることを楽しみたい。
心のそこからそう思った。
いつのまにか、外が暗くなっている。
もうそろそろ家に戻らないといけない。
「また、明日」
俺が言うと、彼女はくすぐったそうに笑ってくれた。
「また、あした」
彼女の言葉に、俺は立ち上がる。
名残惜しいけれど、いつまでもここにいるわけにもいかない。明日も仕事だし、宙さんにも学校がある。
わかっているけれど、別れ際はやっぱり寂しい。
「あした、また来るから」
繰り返した言葉に、宙さんは頷いた。
本当は、明日のことなどわからない。その先のことなんて、もっと何が起こるかわからない。もしかすると、このまま二度と会えないかもしれないのだ。俺はまだ未熟で、できないこと、思うようにならないことだらけだ。こんな状態で、宙さんを連れ出して本当に大丈夫なのかという思いもある。
でも、もう待てなかったのだ。
俺は、誰かに縋っていなければ一人で立っていられないほど弱い。陸や宙さんがいなければ、何もできないのではないかというほどに。
このままでは、近いうちに俺はダメになる。きっと、この場所を―宙さんや陸がいる世界を壊してしまうことになる。
だから、彼女を逃げ場所にするために連れ出してしまった。
彼女の優しさに甘えて、強引に捕まえてしまった。
陸だって怒りながらも、許してくれた。止めようと思えば止められたのに。
二人とも、俺に甘すぎる。厳しい事を言うこともあるけれど、結局最後は俺を甘やかしてしまう。
きっと二人はそんなことないと言うだろうけれど。
「少し遅くなるかもしれないけれど、必ず来るから」
俺は宙さんに約束する。
「待ってますね」
彼女も、約束を返す。
この約束が、永遠に続けばいい。
続いていくように願っているし、それを実現するために、俺は努力するだろう。
だから、宙さん。またあした。必ず会いに来るから。
その言葉を口にして、俺は彼女に手を振った。